「我が名は小烏丸。外敵と戦うことが我が運命。千年たっても、それは変わらぬ」
たとえば、晩春の山を藪を漕ぎながら登っていると不意に空気の変わることがある。「ここから先は人の踏み入る場所でない」という警告を全身に受ける。たった今自分が進めた一歩で景色のどこが変わったわけではない。足元に降り積む土になりかけの朽葉、腿の半ばまで届く数多の草々、高いところで太陽の日を透かす枝葉の緑。すべて、なにひとつ変わってはいない。
しかし、そんなとき私は確かに山のなにか侵犯しているのだ。だから即座に、かつ息をひそめて振り返り、来た路を戻る。山で育つ私たちは、その見極めを子供の時分から少しずつ覚えて育つ。
顕れた男士は、その頭頂が私の目線より低い位置にある。なのに私の心は、見下ろしているはずの男士をはるか仰ぎ見ている。里から山の頂を見上げ、日常であるはずのその風景に突如畏怖をあらたにする、あの心地。あの山路をもし警告に抗ってさらに進んでいたなら、そこで出会うのはあるいはこのような存在だったのかもしれない。
ほほ、と風が水面に細波を立てるような笑い声が、男とも少年とも言い難い男士の口から洩れた。その声が私の耳朶に触れ、鼓膜を震わせ、蝸牛へ届くに至ってようやく、意識は幼い頃の記憶から現在へと引き戻された。
「主よ、そう怯えてくれるな」
私は怯えていたのか。驚愕ともいえる衝撃とひと呼吸分の己への観察を経てから、そうなのかもしれないと慎重に得心した。これまでの生涯では近づくことさえ畏れていたものと、少なくともそれに近しいなにものかと、こうしてふたりきりで対峙しているのだから。
しかし、かれは私を主と呼ぶ。ならば今ここにいる私は、怯えに促されるまま足を退くわけにはいかないのだ。
「すまない。千年……と言ったね。君は千年も前から存在するのか」
「そうとも言えるし、そうでないとも言えるの」
口はことばに合わせて動いているのに、全身を見れば髪一本の揺らぎさえ生まれていない。その声は果たして肉の声帯を振るわせて生まれたものなのかさえ怪しく思える。
「刀としての我は、日本の刀剣が今に残る形に変化を始めた彼方昔に生まれた物。しかし、人の身を得たのはつい先頃だ。赤子というにはちと無理があるが、かといって、勝手のわからぬことも多い」
一拍を置いて、「――だが」と、その双眸の光がそれこそ刀の鋒のように鋭さを増す。
「主の敵を滅ぼすに、十分な働きはしてみせようぞ」
敵。その一語に、再び私の心は揺らぐ。政府は歴史修正主義者と戦っている。そのための刀剣男士だ。しかし政府の敵は果たして私の、私たちの敵なのだろうか。私はかれらに向けて「これが敵だ」と一切の逡巡なく指差すことができるだろうか。
ふふ、と、先ほどとは違う、こらえきれない笑いをつい、といった風情で漏らす声が、私の彷徨う意識をまたも引き戻した。
「人の子は悩み、迷うものよ。存分に悩めばよい」
あらためて、眼前の刀を細に至って観察する。身は子供、しかしその内に千年の時を内包している。
「……私が行く先に迷ったとき、あなたに相談をしてもいいだろうか。〈小烏丸〉」
小烏丸はふたたび、ほほ、とかろやかな笑い声を上げた。
「子を導くのは父の役目ゆえな」