「へし切長谷部、と言います。主命とあらば、何でもこなしますよ」
シュメイ、という三音を意味あることばとして認識するのに数秒がかかった。主命。主の下す命。刀剣男士にとって主とはすなわち審神者であり、かれの言う主命とは私の下す命令だ。しかし――。
「ようこそ、この本丸へ。えっと、だね……」
挨拶の間にどうにか態度を取り繕おうと試みたが、その足掻きはあっけなく徒労に終わった。目の前に佇む男の眉間に、疑念と不安を綯い交ぜにした皺が寄る。
「どうかなさいましたか」
そのことばには、私への配慮と自らの振る舞いへの反省と、その両方が同等に含まれていた。ひとまず、後者は打ち消さねばならない。
「いや、あまりに丁重に接してくれるものだから驚いただけだよ。気にしなくていい」
至極穏便な返答をしたつもりだったが、男の眉間に寄った皺はますます深まった。
「この本丸には、主に無礼を働く者がいるのですか」
幾分強められた語調とともに、刀を握る指に心なしか力が込められたように見えた。なるほど、と常の癖で胸中でごちる。これはまず、私のことを理解してもらわねばならないようだ。
「少し、いいかな」
右手を軽く上げて男の問いをひとまず棚上げにする。男は「はい」と、至極素直に答えた。
「君は刀剣男士だね」
「ええ、主の刀です」
「うん。それで、私は審神者だ」
「はい。俺の主たる審神者です」
うん、と頷いてから、上げたままだった右の手の、人差し指以外の指を折る。
「そこだ。そこにひとつ、行き違いがある」
立てられた指と私の言に、男は不審そうに首を傾げた。
「私は審神者だから、当然にこの本丸に属する刀剣男士の主だ。――けどね、私は主だの命令だの、そういうのがどうにも苦手なんだ。私が審神者として君たちに采配を振ればそれは即ち命令として機能するのだと理解はしている。その責任から逃れるつもりはない。ただ、あくまでも私は君たちに断る選択肢のある『頼みごと』をしたいんだ。君がそれを『命令』として受け取る以外の選択肢を持たないのだとしてもね。だからまあ、なんだ」
立てたままだった人差し指を引っ込めて、首元を軽く搔く。自分がいかに我儘を言っているかは自覚しているのだ。
「誰も私に対して、他の者に接するようにする以上にかしこまる必要はない。無礼も何も、そもそも私に礼を尽くす必要などないのだよ」
そう説かれた男の顔には、いわく言い難い表情が浮かんでいた。長い沈思黙考の末、絞り出すように「……主が望まれるのであれば」と、不承不承の見本のような声が漏れ出てきた。
こちらの立場をかさに着て我儘を通すのは申し訳ないが、こればかりは是認してもらうしかなかった。四六時中主、主と持ち上げられていてはとても生活が成り立つ気がしない。
「来て早々面倒を言って悪いね。この本丸をこれから共に育てていって欲しい、〈へし切長谷部〉」
こちらの一方的な言い分を呑んでくれたことへの感謝を込めたことばに、しかしへし切長谷部は再び渋い顔をした。
「……できればへし切ではなく、長谷部と呼んでください」
固辞、ではない。その声は確かに強い意志で発せられていたが、同時になにかためらいが含まれているようにも私に響いた。
ふむ、と再び、声を出さずに独り言を吐く。
「へし切長谷部、が君の名前であるのだろ? それとも、長谷部こそが君の名か」
「へし切は前の主に由来する名です。今の主にそう呼ばれるのは……」
「君の名を尋ねているのだよ。君自身に、君の名を問うている」
男のことばを遮った私の声には、つい先ほど私自らが否定した主の威光が滲んでいる。我ながら勝手極まる態度だ。しかし、ここを揺るがせにするわけにはいかなかった。
「あらためて――君の名は、なんと云う」
私の問いに対して、今度の男の沈黙は長くはなかった。
「へし切長谷部。それが俺の名です、主」
その眼差しは最前と変わらないのに、どこか諦めで俯くような声だった。しかしここで非礼を詫びればなおさら彼を振り回すことになるだろう。
「うん。では、君のことは〈へし切長谷部〉と呼ばせてくれ。少なくとも、しばらくの間は」
正眼に私を見据えた目には当たり前に疑念があり、しかし長谷部はその想いを口にはせず、沈黙でもって肯定を示した。