「源氏の重宝、膝丸だ。ここに兄者は来ていないか?」
男の名乗りを耳に入れながら、しかし真っ先に私の意識を奪ったのはその髪色だった。
この色は、五月晴れの日の昼下がり、森を踏み入った先にある沢に、その周囲を取り囲む木々が落とす葉翳の色だ。澄みとおり流れる水と、日差しにやわく色を与えながらも遮ることはあまりせず、そのほとんどを透かし通す若葉の群れ。山の生き物らと季節とが生む、形のない宝玉。男はその稀有な色を、まるであつらえたように当然に纏っていた。
その美しさに目を引かれながら、しかしそうして男の外観にばかり心を傾けるのは、内心に急激に湧き上がった焦燥から一呼吸のあいだ目を逸らし、態度を取り繕うためだと自覚してもいた。
男の声には迷いがなかった。堂々たるその名乗りは、つまり本来、それだけで男の在り様を十全に私に伝えるものであったはずなのだ。しかし。
「……大変、心苦しいのだけれど」
山姥切国広を顕現させたときに分かっていたことなのだ。もう少し慎重になってしかるべきだった。分かっていながら怠った。役人からの「戦力増強に努めよ」との言い置きについ急いた。
「源氏の重宝、というのがどれほどの価値を持つのか、私にはわからない。私はあまりものを知らないんだ。すまない」
せめてこの謝罪が芯からのものであることが伝わることを願いながら頭を下げる。一度下げた頭は、寛容な許しか忖度なき叱責を受けるまでは上げられない。
「主は源氏を知らぬのか」
下げた頭に、驚嘆の響きを伴った男の声が落とされる。あの白緑の髪の奥で両の目が見開かれるさまがありありと見えるようだった。
「なにかで耳にしたことくらいは……」
そっと顔を上げて窺い見ると、男はいわく言い難い顔つきで、
「蜘蛛切、吼丸、薄緑……。どれも知らないか」
想像していた通りに見開かれた目を私にしかと据えながら、なにか私には意味の取れないことばを唱えるように連ねてみせた。その眼差しには、目の前にいる者が自身のことを知らないなどということが真にあり得るだろうかと、不審の色が浮かんでいた。その疑念こそが、かれを知らないみずからの異端さを痛感させる。
しかし、知らないかと問われれば「知らない」と答えるしかない。すると、男が帯びる空気にふと稚さが混じった。はっは、と声を出して笑うその気配には無知への怒りも侮蔑も含まれてはいなかった。
「そうか。源氏の名も、歴史の流れのなかではやはり潰えてゆくのだな」
達観したようなその眼に、思わず否の声を上げかけた。しかし現に知らない、わからないと言ってのけたばかりの自分がただ上面に否定したところで、そこにこの男を得心させる力など生まれ得ないと理解してもいる。自然、喉が締まった。
私の話は今必要ではないのだ。ひとつ息を吸って吐き、私のことばがただ事実だけを述べるよう注力する。
「私はほんとうに、特別ものを知らないんだ。だから君がどれほど名のある物なのかもわからない。けれど、君がここにこうして顕現したことが、君の存在が時を渡り今にまで伝わってきた証左のはずだ」
男の顔がわずかに傾く。私のことばを心に容れようとしてくれている。
「君の物語を私は知らない。だが私ひとりが知らないからといって、物語が潰えたことにはならない」
伝わるだろうか。伝わってほしい。
「もし君がよければ、君を知らない私に、君のことを教えてほしい。手間のかかる主ですまないが」
山深くの沢に落ちる若葉の翳色。その髪の奥で、男の目が私のことばを勘案する気配を見せる。鬱金がかった瞳にさらされながら否か応かの答えを待つ私の前で、男はふいに後ろを振り向いた。
「ならば、我ら源氏の物語をとくと語って聞かせよう。しかしその前に――」
その視線は、壁際にずらりと並んだ刀らのうち、ただ一振りを見つめている。
「兄者を呼んでくれないか」
政府から送られた、この本丸の《戦力増強》のための刀たち。男の視線の先にある刀の名を、私は思い出す。
「わかった。かれが、君が兄と呼ぶ刀なのだね――〈膝丸〉」
膝丸が私を振り返る。その顔にはどこか得意げな笑みが浮かんでいた。
「兄と呼ぶ、ではない。我らは正真正銘の兄弟なのだ」