「源氏の重宝、髭切さ。君が今代の主でいいのかい?」
柔和な目尻と、ゆとりある声。その視線は、しかし一秒と置かずに名乗りの対象であるはずの私の顔をするりと逸れ、声もまた、指向性を失ってどことも言えない中空にそぞろに散り消えてしまった。逸れた視線の向かった先は私の背後だ。そこには男の弟、膝丸が控えている。
「おや。そこにいるのは……」
男の意識は、もはやかれらが主と呼ぶ私ではなく、私の背後から男の顕現を見守っていた膝丸に向けられていた。
男が間遠な瞬きをゆるりと二度するあいだに、膝丸は駆けるような足運びで男の目前までその距離をつめている。見ているこちらが「そのままぶつかってしまうのでは」と危ぶむほどのその勢いは、かれと男の影が重ならんばかりに近づいたところでぴたりと止まった。
「兄者!」
「やぁ、先に来ていたんだね」
「ああ、俺も先程顕現したばかりだ」
間近に並んだ二振りの横顔を見比べ、なるほどと心中で頷く。所作の静動や声の強弱、表情の硬軟はまるで対照的に思えるが、ただその面立ちだけを観察すれば確かに似ている。その姿に、刀の兄弟とはこういうものかとひっそり得心する。
「兄者よ、この主は話がわかるぞ。頼んだらすぐに兄者のことも顕現させてくれた」
膝丸が嬉々とした表情で私を振り返り、その視線を辿るように男もまた私に目を向ける。膝丸と似た――というより、そっくり同じに見えるその切長の眼に、私はようやく真正面から向き合った。
私の視線を受けとめながら、その口がなめらかに開く。
「弟が世話になったんだね」
「いや、世話というほどのことは何も。というより――」
ちらと膝丸の様子を窺うと、かれはなんの含みもない目でただ私を見つめていた。どうも、私たちの間を取り持つという考えはないらしい。それはかれなりの、兄と私、双方への信頼の現れであるのかもしれなかった。
「膝丸にも言ったのだけれど、私はどうも歴史に疎くてね。先ほど君は自分のことを『源氏の重宝』と紹介してくれたけれど、その価値のいかほどかがわからない。なので君たちのことを、君たち自身から教わりたいと思ってね。それで急ぎ出てきてもらったわけだ」
膝丸に並べ立てた言い訳を、今度はわずかなりと順序立てて説明できたことにこっそりと安堵する。そんな私のことばを受けて、男の首はゆるりと傾いだ。
「ありゃ。源氏の名もとうとう潰えたかい」
膝丸と同じようなことを言う。
さて、膝丸にしたように源氏の名の今もきっと語り継がれていることを説かねばならないか――と、心持ち背筋を伸ばす。届かないことばは相手を遠ざける。繰り返すほどに、ことばは伝達の能を失う。届くことばを一度で選び損ねたなら、その先には途方もない時間をかけた試行錯誤が待っている。
話の切り口を選んでいると、膝丸が私と男と間にすっと顔を差し込んで、男の視界を自身の顔で埋めんばかりに近寄せて、「それが違うらしいのだ」と兄にことの次第を説明し始めた。
「――ゆえに、この主は我ら源氏の重宝が語る物語を欲している。誰ともわからぬ者から不確かな歴史を学ぶより、我ら兄弟がこの目で見届けた事実を求めようというのだ。見識ある主だろう」
幾分前のめりに、私についての過分な評価を交えながら兄に詰め寄る膝丸をつい制止したくなったが、せっかくの膝丸の厚意を遮るのは私にもかれにも利のないことだ。おとなしく、膝丸の言に男が評価を下すのを待つことにする。
男は、膝丸の口早な語りに呑まれるでもなく、首を右へ左へとゆらゆらと揺らしながら、
「とはいえ、渦中にいるからこそ見えない真実というのもあるからねぇ」
などとはぐらかしている。
その声色に明白な拒絶はない。けれど同時に、あまり前向きとも言い難い表情をしてもいる。
と、揺れていた顔と視線が私の上でぴたりと止まる。
「君は、僕が鬼を斬っただとか、刀を斬っただとかの逸話をなにも知らないのかい? ――源氏の兄弟のことも。なにも知らないの?」
私を見つめる眼の奥底に何があるのか、温厚そのものといった風情の表情に反して、その真意が読み取れない。鬼やら刀やらに比べれば遥かに耳に馴染んだ《兄弟》ということばに「それは君たちふたりのことか」との問いが喉元まで出かけたが、それは何かに遮られたように声にはならなかった。直感が齎す身体の強張りが私にその発言を許さなかった。
知らないのかと問われ、知らないと答える。膝丸とも交わした問答をまた繰り返して、男の目尻はようやくほんのりとやわらいだ。やわらいで初めて、男の眼が実は鋭く私を見つめていたことに気がついた。
「なるほどね。……とはいえ、昔のことだからねぇ。覚えてることを思い出したら、その時々に話してあげるよ。それで今代の主には満足してもらいたいな」
「もちろん、それで構わない。よろしく頼む、〈髭切〉」
やわらかに、しかし仔細すべてを承知したとの意を感じさせる眼差しで髭切が頷く。その横では膝丸が「しかし兄者、源氏の成り立ちから我ら兄弟の歩んだ道を語るとなれば相応の時間がかかる。どこから話を始めたものか――」となにやら熱弁を振るい始めていた。
刀剣男士を顕現させる。その刀剣男士を過去へと送り、戦いを委任する。審神者の為すべきはどうやらそれだけでは済まないのだと、私はようやく理解し始めていた。