まだ友人だと思っていた頃の人は食べたものでできている。
口に含んで咀嚼し、匂いを味わい食感を味わい、ごくりと喉を震わせて胃に送る。午後の業務の糧になってくれと願いを込めて。
エネルギーが欲しい。もっと。もっと。次の一切れを箸で掴み、スプーンで掬い、また口に運ぶ。何度繰り返しても飽きることは無い。
食べ進めるごとに、この食べものが、いま眼前にあるものが、この世に生まれてから数多の人の手と足を介して、長い長い旅路の果てに自分の元へ来た、その奇跡をひしひしと感じる。
誰かが土を耕し、種子を植えて、育てて、収穫し。誰かが運んで。誰かが卸して、誰かが仕入れて。調理されて。なんと長い道のりであることか。自分はただただ口に運び、味わうだけ。この一口に関わったすべての人々に感謝を捧げながら、もう一口。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさま! 美味しかったね!」
「はい……」
いつの間にか隣に座る男も食べ終わっていた。自分よりも早食いなのだろうか。分からない。食べている最中は周囲の様子など目に入らない。
悪い癖だと思う。無我夢中で食べてしまう。誰と食卓を囲んでも。
(お相手がチリさんでしたら、怒られているところです……)
しかし彼は自分の黙食など一向に気にしていないようだった。ありがたいことに。コップを握り半分の水を見つめている。
厳しい表情だ。ここが高級レストランであれば給仕が青ざめた顔で注ぎに来ていたことだろう。だが、ここは大衆食堂だ。カウンター席には最初から水の入ったピッチャーが点々と置かれている。客が好きに注いで良い。
「お水、要りますか」
「あ、いや、ありがとう。これで充分だよ」
「そうですか……」
時刻は夕暮れ。沈みゆく陽が窓の向こう、海の向こうで赤々と燃え、店内はほのかに橙に染まっている。仕事帰りの客たちは食事よりも先にビールを注文し始めていて。ふと、彼の手にあるそれが水ではなく酒か焼酎に思えてくる。
(ホウエン出身だからでしょうか……? あちらは酒豪が多いと聞きます……)
まだ男とは酒を交わしたことが無い。だが、いずれ機会があるだろう。出会って数週間だというのに何度、食事したかも分からないほど親しくなった。
「どうにもね。口の中のあぶらをさっぱり流したいとは思うんだけど、もう少し余韻を味わっていたくて」
そう彼は笑った。眉を下げ片側の口角が上がる。その不器用な表情が彼の笑みなのだと最近になって気づいた。
「わかります……。こってりした飯を食べた後は、特に」
頷いて彼はぐいっと水を飲み干した。
「今日もありがとう、アオキくん! きみのおかげで、慣れない土地でも毎日、美味しいご飯が食べられるよ」
「どういたしまして……」
店を出ると、外はもうすっかり夜の景色だった。仕事を終えた人々が道を行き交い、あちこちの飯屋から美味そうな匂いが漂ってくる。
満腹の今ならどんな誘惑にも心は動かされない。時折、明日はここで食べようかと一瞥する程度だ。
「しかし、自分で良いのでしょうか。ガラルの皆さんとご一緒されては」
「そうだね。彼らと食べるのも良いね!」
彼は他人の言葉をめったなことでは否定しない。彼が食べると言うのだから、いずれ年若い同郷のポケモントレーナーたちと食事に行くだろうし、彼自身も嘘や適当な社交辞令を言っているつもりは無いのだ。
だが自分が誘えば、明日も、彼は夕食を共にするだろう。
人付き合いの苦手な自分に絶妙な距離を保ってくれている。彼は、そう呼ばれるのは苦手かもしれないが、やはり『ベテラン』だ。
自分が食事に対して人並みならぬこだわりを持っていることを分かっていて、かといって過度な同意はしない。一心不乱に食べる自分をからかうこともせず、放っておいてくれる。一言も話さずとも食べ終えるのを待っていてくれる。
なにより、独身の自分は同年代がよく口にする結婚や育児の話題についていけないのだ。健康や保険、資産運用の話ならば合わせられるが、子どもの写真などを持ち出されると参ってしまう。
彼から家族の話をされたことは無く、自分に聞いてきたことも無い。食やポケモンの話ばかりでも問題なかった。まったくもって気楽で良い。
「……いまは、きみとの関係を大事にしたいんだ。マサルくんやユウリくんたちも分かってくれると思う」
飲食店の立ち並ぶ通りを抜けて噴水のある広場に出た。視界の大半を黄昏の空が占める。彼は落ち着いた低い声で言葉を続けた。
「この歳になるとね、なかなか、新しい友人を作る機会は無いものだよ。同年代なら、尚更だ」
(新しい友人……。言葉にするのは面映ゆいですね……)
足音が途切れた。彼の方を向くと、立ち止まり空を見上げている。自分からはその表情が見えず、いや、見せないようにしているのだと気付いて。
ああ、この男も照れることがあるのだと知った。