「エナジードリンクか…？」
　アパートに戻ったエドが冷蔵庫で見つけたのは缶飲料だった。見慣れぬデザインのそれは小さな冷蔵庫のドアポケットに二本押し込まれ、良く冷えていた。シャワールームから聞こえる水音と外れ調子の鼻歌からラズが買って来たのだろうと想像は付く。そういえば…とエドはアパートの下の自販機に似たような缶飲料があったことを思い出した。この前ラズに買い置きのサイダーを飲まれたことだし、仕返しというわけではないが、エドは冷蔵庫から缶飲料を取ってベッドに腰を落とす。
「あ、エド」
　風呂上がりのラズがズボンを腰履きにして上裸で出て来る。ぎこちなく視線を逸らす辺り昨晩の事を思い返しているのだろう。
　エドはそんなラズにからかうような笑みを浮かべると、ポケットから取り出した携帯端末の画面をラズに向けた。
「"ちゃんと帰るから心配すんな"ってのは珍しい意思表示だな？」
「うっせーよ！どっか行ったとか勘違いされてまた抱き潰されちゃ堪んねぇだろ」
　ラズが耳の先を赤くして口を尖らせるとバスタオルを頭に乗せたまま冷蔵庫へ向かう。
　エドは缶飲料を呷りつつ、その背中に問い掛けた。
「なあ、ここらで流行ってるっつー新型ドラッグ知ってるか」
「ピンクのパラソルとエプロンの話？」
「おう、それだ。ネオ・シャドルーでも調べてるんだが…どうやらシャドルーの残党が関わってる。お前、JPから何か聞いてねぇか？」
「ジジイは麻薬関連に関わってねぇよ、専門外だからな。つーか、さっき帰り道でその売人に出会したんだよ。パクったドラッグの現物あるけど見る？」
「は？」
「メロン味だか青林檎味だか良く分かんねーんだよなー。パッとしない味で微炭酸っぽくてさぁ。あ、でもびっくりするのがサイコパワーには効くんだよ」
　エドは手元の缶飲料へ目を落とし、口の中に広がるメロン味だか青林檎味だか分からない微炭酸のそれに嫌な予感を覚えた。案の定、冷蔵庫を覗くラズから「あ"」と素っ頓狂な声が上がり、慌てたようにエドを振り返る。
「それ飲んだ飲んじゃった」
「ラズ…、お前これ、もしかして……っ」
　言い掛けたエドの手から缶が滑り落ち、灰色のカーペットの上を染みを作りながら転がっていく。
「何でこんなもん冷蔵庫に入れてんだよっ…」
「風呂上がりに冷たいの飲もうと思って…」
「この馬鹿ッ」
　エドは身体の内側で湧き起こる訳の分からない感覚に苛まれた。内臓の奥から沸騰するような衝動が起こった直後、サイコパワーがブワッと勝手に放出を始めて目をひん剥く。
「クソがッ…んだこれ気味悪りィ…！」
　まるで堰を切ったように止めどなく溢れる。必死に抑え込もうとするエドの意思に反して皮膚の上で炎のように燃え盛った。脳裏には実験されていた頃がフラッシュバックし、まるで今この瞬間に起こっているかのように感じられた。白衣の研究員に囲まれ、押さえつけられて、注射器を…。嫌だとかやめろとか怖いとか激しい感情が錯綜し、混乱で涙が溢れ出す。
「エド」
　ふとラズの声が聞こえたかと思えば、黄色い瞳に覗き込まれていた。ベッドの上、エドの脚を跨いで前屈みにのラズが少し心配そうに眉尻を下げている。身体から溢れているはずのサイコパワーが消えていくから、エドは取り戻した理性で自分の胸元に目を落とすと、ラズが押し当てた右の掌からサイコパワーを吸収していた。
　激しい動悸で息を切らすエドにラズの柳眉が片方持ち上がり、エドの目尻から流れる涙を空いている左手で拭う。
「薬物耐性実験されてねーんだ？」
「んだそれ…」
「あー、そっか。エドは特別らしいもんな」
　ラズは自嘲気味に笑って「この新型ドラッグな」と床に転がった缶を一瞥する。
「只の一般人には強力な麻薬ってだけらしいけど、サイコパワーを持つ人間には力を増幅する作用があるみてーだわ。まあ、効果時間短い出来損ないっぽいけど」
　ラズの背中で紫電の火花が爆ぜてバチバチッと炸裂音を鳴らしている。エドから吸収したサイコパワーを爆破に転換して消失させているらしいが、反動で破れた皮膚から血液が流れ落ち、ベッドシーツに不規則な模様を描いていた。
「ラズ、もういい…。背中痛ぇだろ…？」
　エドは呻くように問い掛けながら、鈍い腕を持ち上げてラズの右手首を掴むも、彼は飄々と「痛くねーよ」なんて言って吸収を止めない。
「つーか…お前は飲んで平気だったのかよ…？」
「ちょっとサイコパワー出たくらいで何ともねーよ」
　ラズは世間話でもするくらいの軽い口振りだ。
「実験施設で同じような作用の投薬受けたことあるからさ」
　不規則に散っていたバイオレットサファイアの火花が消える。エドは治まったサイコパワーに安堵の息を吐きながら、以前からラズに呈していた疑問を投げた。
「ずっと訊きたかったんだけどよ…。お前、シャドルーを恨んでねぇのか？」
　過去の話をする時のラズはいつだって飄々と喋っている。今みたく世間話程度の口振りと表情の時だって多いし、そもそもラズからシャドルーへの恨み辛みなどエドは聞いたことがない。
　その問い掛けはラズを困らせたようで、首を捻りながら考え倦ねた彼はややあってから観念したように口火を切った。
「俺の生みの親はすっげークソ野郎でさ。シャドルーに実験体として売られてからのがよっぽどまともな暮らしだったんだよ」
　ラズはエドの相槌を待たずに続ける。
「実験施設ってさ、従順にしてれば研究員は優しいし、飯も腹一杯食わせてもらえて、清潔で快適な環境に居られたろ。勉強だって教えてもらえたしな。実験自体は嫌だったけどメリットのが大きかったわけ」
　刺青もさ…とラズが苦笑を浮かべる。
「ガキの頃に付けられた身体の傷痕が目障りで彫ったんだよ。今は趣味だけどさ。背中にあった大きい火傷の痕はシャドルーで治してもらったし」
　エドは喉が締め付けられるような感覚を覚える。自分にとっては最悪の存在であるシャドルーも、ラズからすれば違う意味になっていて…。そこで気付く。何故ラズが便利グッズなんて言って殺しの仕事を……──つまり、仇の元で働き続けられたのか、そして楽観的な快楽主義の理由も見えてくる。
「エドはもし普通に生きられたらって考えることあるんだよな。俺はそれ思い付いたことなくてさ。生みの親のとこに居たらとっくに野垂れ死んでたから、毎日空腹も苦痛もなく暮らせるだけで満足なんだよ。シャドルーが実験体にしたことは惨いし酷ェよ。でも、俺自身は恨むとか憎む気持ちよりどうでもいいっつーかさ…」
　ごめんな…とラズが申し訳なさそうに微笑んで俯く。
　エドは手を伸ばしてラズを捕まえた。驚く彼を抱き込めば「何だよ？」と戯けた声もするが、無視して紫色の後ろ頭を撫でる。視界に火花の消えたラズの背中が映る。黒い翼の刺青に覆われたそこにはたった今増えた裂傷が目立つも、浮かぶ空白を指先でなぞれば、微かに残った引き攣れの感触が打ち返された。生みの親がラズに与えた仕打ちは彼から極普通の幸せを考える余地を奪い、シャドルーでの生活が価値観の基準すら壊してしまっている。取り戻しようのない"欠陥"だ。
　エドは浮かんだ感情が出来るだけ伝わるよう言葉を選んだ。
「もし普通に生きられんなら俺はラズが傍にいる日常が良い」
「何だそれ。もっと幸せなこと願えよ」
「幸せに決まってんだろ。朝起きたらお前がいて、つまんねぇ言い合いしたり、好きなもの食ってどっか出掛けてみたり、他愛もないこと毎日すんだよ。んで、年食ってもくだらねぇことで笑い合って喧嘩する」
　ラズの丸い額が肩口に柔くぶつかる。
「喧嘩が前提かよ。まあ、確かに俺とエドなら年食ってもつまんねぇことで揉めてそう」
「お前、脱いだ服その辺に散らかすしな」
「それは……うん、ちゃんと片付けるわ」
「寝相も悪りィしよ」
「ごめん。そのうち大きいベッド買うか…」
「テレビもデカいやつ買おうぜ。ゲームやりてぇ」
「格ゲーやる？俺、めっちゃ強えーよ」
「俺もゲーセンでやり込んでるからな。負けねぇ」
　ラズから小さな笑い声が漏れて、顔を上げた彼は諦めたように嘆息を溢すと黄色い瞳を緩く細めた。
「俺、エドのこと好きだと思う」
　予想外の言葉にエドは面食らったが、珍しく穏やかなラズの表情から本心で言っていることに気付く。
「今言うかそれ」
「今で良いだろ」
　口元のピアスが揺れて柔らかな弧を描いた。
「大事なもの作ると失いそうで怖いけどさ…、そういう重たいもの背負って生きるのも悪くねぇなって気付いたんだよ」