The way you look at me, the one I didn’t know大勢の生徒や客の声で活気に溢れる校舎の中で、安寧を求められる場所は数少ない。視聴覚室はそのうちの一つで、多くの生徒が校舎の出し物を巡ることを目的とする文化祭では、この部屋に入る人はおろか前を通り過ぎる人もほとんどいない。その誰もいない教室の窓側の席で、浮奇は乱雑におかれた荷物に囲まれながら頬杖を突いて窓の外を眺めていた。その美しいモデルと絵になるような背景の組み合わせは、他人が見ればただ微睡んでいるだけのように見えるに違いない。しかし、涼しげに見えるその表情とは裏腹に、その心のうちは大いに悩んでいた。視線の先には、中庭のベンチで二人だけの時間を楽しんでいる名も知らぬカップル一組。二階にあるこの教室からははっきりと会話を聞き取ることは出来ないが、お互い恥ずかしそうに耳打ちしているのを見るに愛でも囁き合っているのだろう。照れながらお互い耳を貸し合っては笑い合う様子を、浮奇は上からじっと見つめる。
心底羨ましいと思った。
いや、褒められたり好意を伝えられたりすること自体は浮奇にとって日常的に珍しい事ではない。問題は、唯一の恋人だけが、全然愛情表現をしてくれないということだった。
好きではいてくれている、と思う。好きだと伝えたら同じ言葉で返してくれるし、会えば可愛いと褒めてくれる。と言っても浮奇が毎度「今日の俺可愛い?」と聞いているのだけれど。つまるところ、自分ばかりの現状にやきもきしていたのだ。
恋人のファルガーとは元々仲の良い友人でありがならずっと想いを募らせ続けていたのだけれど、ついに一か月前我慢が出来なくなって浮奇から告白したのが始まりだった。告白はされる方が好きでも、彼を他の人に取られるくらいなら自分で自分のものにしていくしかない。浮奇には欲しいものを逃さない確かな強さがあった。
好きだと伝えた時のファルガーは少し恥ずかしそうにしながら頷いていて、嬉しさのあまり数日間は舞い上がったものだ。もっとも、そこが喜びの頂点だったとはその時知りもしなかったのだが。
再び例のカップルに目を向けると、身を寄せ合いながら自撮りをしているところだった。きっとそのためにわざわざ人目の付かないところで会っていたのだろう、今日のようなイベント事では良くあることだ。クラスTシャツを着ていつもより髪やメイクに気合いを入れて、それを写真に残しておきたい気持ちは痛いほど理解できる。せっかくの文化祭、クラスは違えど自分だって二人の思い出を作りたい。ふとやりたいことが思いついた浮奇はメッセージを別々に二つ入れた後、即座の返信と同時に表れた人物と一緒に教室を出た。
撮影係に闇ノシュウが選ばれたのは、浮奇から彼への積み重なった厚い信頼と、その撮影スキルからくるものだった。期待通りシュウは二つ返事で駆け付けたので、やはり頼んで正解だったと浮奇は思った。
恋人と写真が撮りたいだけなのに更に人が必要だったのには訳がある。というのも、浮奇には一つ憧れがあった。SNSで良く見る、二人が写真を撮っているところを遠くから他の人が撮影した写真。あれを真似すれば、傍から見たカップルを可愛いと思うあの感情を自分たちで追体験出来ると分かり、自分もいつか撮ってみたいと思っていたのだ。それに、二人の体格差も良く分かる。どちらが真の目的なのかは言うまでもない。
二人は、浮奇が指定した特設モニュメントに早足で向かった。外で写真が撮りたいと言ったのはもちろん浮奇で、ファルガーには断られるかもしれないと思っていたが案外嫌でもないようだった。
待ち合わせ場所につくとファルガーは既にそこにいて、人が行き交う中静かに佇み小説を読んでいた。浮奇は、シュウを少し離れた場所に置いていって自分のことを待つ恋人に近付く。気配に気づいたファルガーは開いていたページに慣れた手付きで栞を挟むと、優しく微笑んで手を振った。
「お待たせ。急に呼び出してごめんね?」
「大丈夫だ。ちょうどこの辺りにいたから問題ない。」
「そっか。面倒だろうけどちょっと付き合ってね。」
浮奇は少し熱を蓄えた金属の腕を引っ張ると、シュウから死角にならない場所で写真写りの良さそうなスポットを探す。ファルガーは手を引かれたまま無抵抗に彷徨っており、熱心に良い画角を探す浮奇の指示通りに色々な場所に立たされている。
遂にお気に召す場所を見つけた浮奇は、カメラで前髪を少し直してから撮影を始めた。自分よりも身長の高いファルガーを画角内に収めようと背伸びをする浮奇と、逆に自ら収まろうと屈むファルガー、お互いを気遣う初々しい姿をシュウは少し離れたところから見守っていた。
何枚か写真を撮った後一度撮影を中断し、浮奇がずっと気になっていた前髪をもう一度直そうとスマホを顔に近づける。ミリ単位で位置を調節し、満足のいく形になったのを確認して最後に遠目で確認するためカメラを離すと、画面の上部に遠くを見つめるファルガーが目に入った。
「ふぅふぅちゃん、どうかしたの?」
「あぁ、いや。何でもない。」
何てことない風を装いながらも向ける鋭い目線の先には隠れていたはずのシュウがいた。ファルガーとシュウは仲が良いはずだし、今睨まれている当の本人はケラケラ笑っているから喧嘩などは無いだろうけれど、会話のない状態で生まれた謎のアイコンタクトがあるなかで浮奇だけが蚊帳の外だった。二人にしか理解出来ないコミュニケーションを取っているのを隣で見るだけのは正直寂しい。それでも嘘が付けないシュウに聞けば後から分かるだろうからと、今は疑問をそっと飲み込んだ。
その後も何枚か写真を撮り、ちょうど良いところで写りを確認した。どれだけスクロールしても写真の中のファルガーは表情が硬く、いつも見せる柔らかい表情もほとんど見えない。
もしかして、無理をさせてしまっただろうか。
一度考え出してしまったら気分が急降下してしまうような気がして、思考を無理やり奥に押しやり、いつも通りを取り繕って少し喋ってからその場は解散した。
とはいえ、強いて閉じ込めようとした考えは時の経過と共に消えてなくなるわけではない。むしろ、見ないふりをしようとしたからこそ膨張し、大きな悩みの種になることもある。例に漏れず、端に追いやられていた恋人からの好意に関する浮奇の不安は徐々に根を張り、いつのまにか無視出来ないほど強大なものになっていた。
浮奇は、遠くから撮影してたシュウと合流しすぐに、吐き出すように胸の内を全て打ち明けた。本人は至って真剣で心の底から不安になっていて、救いを求めるようにアドバイスを求めたつもりだった。しかし、付き合っているのに好きなのは自分ばかりだと暗く零す浮奇の呟きに返ってきたのは、非常にフラットな「そんなことないと思うよ。」という言葉だった。
「何でそんなこと分かんの?今日だって、」
「ん~…はい。今動画送ったから、それ見てみて。」
頭の上に疑問符を浮かべながらも言われるがままに再生ボタンを押すと、照準を合わせるように左右に揺れた後、はっきりと二人を捕らえる様子が流れ始めた。何の変哲もない、ただ二人が一緒にいるだけの映像だ。
「これのどこが…」
「あ、この辺。ほら、」
シュウが二本の指で器用に拡大した部分を注視する。映っているのは、前髪を調節している浮奇。それと、そんな浮奇を愛おしそうに見つめるファルガーだった。
こんな彼を、俺は知らない。浮奇は思わずシュウを見ると、続きも見るよう促された。
次に映ったのは、浮奇の頭を撫でようと腕を持ち上げた瞬間、自身を盗撮するカメラに気付いたファルガーの姿。睨みを利かせる彼に、カメラの外からケラケラと笑うシュウの声が聞こえる。それは自分が状況を何も理解していなかった、あの時を切り取ったものだった。流れる映像を見続けるとファルガーの表情はすぐに当時自分が見た硬いものに戻ってしまっていたが、それでも浮奇の目に浮かび続けるのは自分に向けられていたあの柔らかい眼差しだった。
居ても立っても居られず、想い人に〈どこにいるの〉とだけ連絡を入れる。いつもはすぐに返信をくれるはずなのになかなか音沙汰が無くて、全然関係のない人からの連絡の通知にも過剰反応しては失望する。十分経っても来ない返事に、これはもう自ら動くしかないとシュウにお礼を告げて校舎を駆け出した。
どこもかしこも騒がしい廊下にたむろする生徒を掻き分けながら早足で進んでいく。特別な状況で気分が高揚しあまり周りが見えていないのか、中々どいてくれない奴らに若干イライラしながら一生懸命目を凝らして特定の人を探し回る。いつもならすぐに見つけられるはずなのに、今日はいくら辺りを見渡しても目に入るのは興味のない人ばかりで、本人の教室を見ても、色々な催し物を回っても、今一番会いたい人だけが見つからない。もう探すことの出来る場所なんてないと焦りが出始めた頃、ふと横目にある場所が目に入った。
廊下の行きついた先にある図書館。文化祭だから封鎖されているそこに人がいるわけがないと思いつつ、何となく彼なら忍び込んでいる気がしてならない。浮奇は周りに人がいないことを入念に確認して、扉を塞ぐテープを跨いで中に入った。
足音を立てないように数歩歩いた後、右手側から布のはためく音がした。意識の元に目を向けると、勝手に開けられたであろう窓から吹き込む心地の良い風に揺らされるカーテンの下、床に座り込み静かに本を読む恋人がいた。微かに揺れる銀色の髪は儚く、文字を追う顔も真剣そのものなのに、その手に持つ本の表紙に書かれた絵と文字に拍子抜けする。
「何読んでるの?」
隣に座り込みながらそう尋ねると、ページに目線を落としたままファルガーが口を開く。
「何でも良いだろ。」
「これ恋愛小説じゃん、流行ってたやつ。珍しいね、こういうの興味なさそうなのに。」
「…そういう気分だっただけだ。」
普段ダークな話ばかりを好むファルガーが映画化されて若者の間で人気となった、歯の浮くようなセリフのある大衆的な清純派ロマンスを読むのなんて見たことがない。表紙を覗き込みたくて指で持ち上げようとすると、恥ずかしそうな顔をしながら背中に隠そうとする。照れ屋な彼が可愛くて、思わず笑みが零れると顔を逸らされた。
「そんなことより、なんでこんな場所にいるんだ?」
「え?ふぅふぅちゃん探してて、」
「…せっかくの文化祭なんだ、皆のところへ戻った方が良い。」
「それはふぅふぅちゃんもじゃん?それに、ふぅふぅちゃんと一緒にいたいからここにいるんだけど。」
「…そうか。」
そこから黙ってしまった彼を浮奇はじっと見つめるのに、一向に目が合うことがない。相変わらずそっけない彼に、一度解消された不安がどこからか再び湧き上がってくるのを感じる。今まで自分の自己中心的な想いに付き合ってくれていただけで、本当は自分を邪件に思っているのではないか。動画で見た目線のことすら信じられなくなって、胸が苦しくなる。こういう時口から出てくるのは、一番信じられる、揺るがない自分の感情だった。
「ねぇふぅふぅちゃん、好きだよ。大好き。」
「ああ、私も。」
「うん。」
返って来たのは、いつも通りのシンプルな返事。もう慣れた事のはずなのに、今日は少し傷付いてしまっている自分に気が付いた。
好きなのに、もっとたくさん話したいことがあるはずなのに、胸に刺さった棘の小さな感覚だけで何を言えば良いのか分からなくなる。
「……あっ、そういえば今日気付いたんだけど、ふぅふぅちゃんって結構俺のこと好きなんだね?」
沈黙への恐怖から口から出たのは、胸にしまっておくはずの予定外の言葉だった。一度始めてしまったからにはしょうがないと、答えを知っているかのように問いているつもりでも、相手には肯定してほしい気持ちや疑心暗鬼が透けて見えて滑稽に聞こえている気がしてならない。そういえば過去に別の人から同じようなことを聞かれて、その時はわざわざ聞くものでもないと冷めた目で見ていたことがあったのに、今の浮奇はどう思われようと聞かずにはいられなかった。恋愛は上手な方だと思っていたのに、ファルガーと出会ってからは上手くいかないことばかりだ。
「…付き合っているしな。」
風の音に掻き消されそうなほどの静かな声だったが、あらゆる感覚でファルガーの全てを拾おうとする浮奇が聞き漏らすことはなかった。
良かった。まだ好きでいてくれている。
その短い言葉で小さく芽生えた安心感があるはずなのに、何故か満たされなくて苦しい。我慢できないほどの息苦しさから逃れたくて思わず突いて出たのは、自分の口から出ているのがおぞましいと感じるほどの醜い悪態だった。
「…なら、もっとわかりやすくても良いのに。思ってるなら言葉にしてよ。……俺ばっかりは寂しいじゃん。」
泣きたかったわけではない、ただ自分の気持ちを口に出しただけなのに、言葉を紡げば紡ぐほど目に涙の膜が張る。零れないように一生懸命目を見開くのに、結局耐えられなくて瞬きと共に涙が零れ落ちた。一度流してしまえば止まらなくて、頑張ったアイメイクのことも考えずに手の甲で涙を拭う。いくら擦っても溢れ出る涙には追い付かなくて、頬が濡れて堪らない。
留めない涙を流しながら、浮奇の心中は自分を黙って見つめるファルガーのことだけを考えていた。疎ましく思っている相手が突然泣き出したら尚更うざったらしく感じるに違いない。せめて、これ以上印象が悪くならないように早く泣き止みたいのに、涙は止まることを知らないらしい。どこか他人行儀に考えながら体内から水分が抜け出して頭がぼーっとしてきた時、横から伸びてきた指がそっと浮奇の目元の涙を掬った。動画の中で見た、今まで見ることの出来なかったあの眼差しが自分を見つめる。目尻に優しく触れていた指が今度は浮奇の指を、壊れ物を扱うかのように優しく握った。
「すまない。泣かせるつもりはなかった。」
「…じゃあちゃんといっぱい好きって言って。」
「ああ、好きだ。…好きだ、浮奇。」
目を見て低く呟かれる愛は、まるで胸の中に染み込んでいくような心地がした。言葉は多ければ多いほど良いなんて、そんなことは全くない。丁寧に紡ぎ出された短いそれだけで、足りなかった部分が全てが満たされていくようだった。
それでももう一つ思うことが確かにあって、満たされるようなその感覚に流されないように、強かな浮奇は残りの蟠りも忘れずに告げる。
「可愛いもいっぱい言って。今は可愛くないと思うけど、今度は可愛くしてくるからちゃんと言って。」
「分かった。」
「思ったら随時口に出してほしい。もっと頑張れるから。」
「ああ。」
ファルガーは短く答えた後、浮奇の顔をじっと見つめる。彼は何かを言うべきか悩むようにいくつか間投詞を並べた後、首を傾げる浮奇に応えるように口を開いた。
「今の浮奇も、可愛いと思う。」
「…ほんと?こんな涙でぐちゃぐちゃなのに?」
「浮奇はどんな時でも美しくて可愛い。」
今鏡を見たら涙で流れ落ちたメイクに気付いて、もしかしたら自信を無くしてしまうかもしれない。それでも、大好きな人がくれた心の底から言葉が全てだった。
人が賑わう晩夏の校舎には、静寂を持つ場所は数えるほどしかない。その中でも誰もがその存在を忘れてしまったかのような、紙の匂いだけが漂う図書館の中で、二人は肩を寄せ合い目を瞑る。騒音から離れて得られる隔離された空間で、互いを強く想い合う不器用な二人は、触れた指先と肩から感じるお互いの熱を切に感じていたのだった。
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「付き合ってるのに、俺ばっかり好きなんだよね。」
溜息と共に出てきたこの言葉を聞いたとき、最初に闇ノシュウの頭に浮かんだのは、「この人は何を言っているのだろう?」という純粋な疑問だった。
馬鹿にするつもりなど毛頭ない、単純に何を言っているのか理解出来なかった。
傍から見て、浮奇の恋人であるファルガーは浮奇を溺愛している。自分への好意に疎いシュウからしてもそれは自明だった。
確かに、ファルガーはその想いを口にする頻度は少ない。それだけなら浮奇が不安になるのは理解に容易かった。それでも、ファルガーが出会った当初から浮奇に想いを寄せているのは誰が見ても分かってしまうほど彼の目線が、言葉が、全てが恋情を含んでいた。
そもそも、前提としてファルガーが全員に等しく優しいとしても、浮奇に向ける感情は元から友人の域を越していた。浮奇がする様々な我儘には嫌な顔せず即座に応え、集団で遊びに行くときには必ず彼の様子を頻繁に気に掛ける。本人の前では澄ました顔をしているが、その横顔を見つめる視線はいつもこちらが胸焼けしそうなほどに甘く、彼に語り掛ける時の声だって特段甘美だ。それに気付いていないのは浮奇だけで、他の人からしたらもはや日常の一部に過ぎない。
何かと聡い浮奇が自分の恋人の向ける大きな矢印に気付いていないのは、少々奇妙に感じるかもしれない。しかし、それにも理由があるのだとシュウは分析していた。
ファルガーの今の対応は付き合う前から、いやむしろ出会った当初からずっと変わらない。ファルガーは浮奇に出会ってすぐ恋に落ちたから、その気持ちに変化がない以上対応も変わらずなのだ。二人が出会った時、浮奇の友人として隣にいたシュウは目の前の人物が自分の友人に恋に落ちているのをその目で見たのだから、これは推測というより確信に近い。それでもって、ファルガーは嘘をつくのが上手い。自分の気持ちを取り繕うのに長けているし、独占欲からか行き場を失った恋心を他人に吐き出すことはほとんどない。本人曰く自信の無さからくる行動理念らしいが、大切な恋人とすれ違っているのは少々いただけないとは思っていた。
闇ノシュウは当初からずっと、どう考えても両想いの二人に巻き込まれ続けているのだ。
ファルガーを探しに行ってから連絡のない浮奇宛に送った生存確認のメッセージにかれこれ20分ほど未読の状態が続いているのを見るに、おそらく今頃どこかで二人仲良く過ごしているのだろう。二人の想いが通じ合うことを誰よりも望んでいたシュウは、友人たちが上手くいったであろうことを純粋に喜びながら、教室にゲームをしに戻ったのだった。