No name needed愛しい人の卒業の傷は癒えないながらも、少しずつ日常を取り戻していたある日。久しぶりに開けた引き出しの中に新品の便箋を見つけた。誰に書くために買ったものなのかさえ分からない、もはや忘れられていた存在だったそれを手に取る。柄は自分好みだけれど、今の自分には必要のないものだ。いつか機会が出来た時のためにと元の場所に戻そうとした時、ふとした考えが俺の頭を過ぎった。
ふぅふぅちゃんに手紙を書いてみたい。
本当に突拍子もない思い付きだった。それでも、もしかしたらいつも胸に秘めている想いを消化する良い手段かもしれない。
幸いまだ時間はあるが、輸送距離を考えると早めに書かないと間に合わない。どうしようかと少し考えたけれど、こうなったら迷っている暇はないのでその場でマネージャーに連絡し許可をもらった。こういう時の行動は特段速い自覚がある。準備を整えた俺は覚悟を決めて机に座り、お気に入りのペンを紙に滑らせ始めた。
久しぶりに書く手紙は端的に言って難しかった。言葉は毎日使っているはずなのに、それを紙に書き留めて大切な人に送るとなると手が固まって動かない。伝えたいことが沢山ありすぎて何を書いたら良いのか分からないし、よく考えたらどれも書くべきでない気がしてくる。ああでもないこうでもないと長い時間をかけて何枚か便箋を無駄にしながら、俺は少しずつ言いたい言葉を連ねていった。やっと出来上がった文章の締めに書いた「愛を込めて、」の隣を埋める名前は結局何も思い付かず、空欄のまま出すことに決めた。
完成した封筒入りの便箋5枚、手の中ではほとんど質量を感じないのに詰めた想いの重さは計り知れない。どうにかして伝えたかったはずの気持ちは形になってしまった瞬間から浅ましくて、一種の誇りさえ持っていたこの恋情が他の人の気持ちの強さに紛れてほしくて仕方がなくなってしまった。
出来上がった手紙はその日すぐに出しに行った。書いている間は次の日外出するときに出しに行くなんて思っていたのだけれど、こんなものを手元に置いておく恥ずかしさがどうしても耐えられなくなってしまい、気付いたら手紙を掴んで郵便局に駆け込んでいた。逸る気持ちを抑えながら購入した国際切手を、絶対剥がれませんように、と念じながら何度も爪で強く押し付ける。昨日綺麗に塗ったラメが剥がれてしまうことも、この手紙を届けるためなら全く気にならなかった。力を入れ過ぎて切手に塗料が少し擦り付いてしまったが、それもまたご愛嬌だ。
こうして今、俺の手の中には完全に送る準備の整った封筒がある。遂に、匿名ながら彼にこの気持ちを伝える準備が整ってしまったのだ。本当は、手紙を書いている間も郵便局に来る途中も、この手紙を燃やしたい衝動に駆られることが何度もあった。それでも結局ここまで来てしまったのは、自分が大切に育んできた気持ちの居場所をどうにか探してあげたいと思っていたから。恥ずかしさで全てを投げ出したいと思っても、それ以上にこの想いを身勝手に押し付けて、もう昇華してしまいたくてたまらないのだ。自分の意志を再確認した俺は、もう一度封が閉じていることをしっかりと確認してからポストの狭い口に手紙を押し込み、即座にその場を立ち去った。
想いの丈を勢いで送ったあの日から一週間ほどは手紙の行方を気にしたり受け取ったときの本人の反応を創造しては一喜一憂していたが、一ヵ月も経ってしまえばもはや過去の出来事だった。あの手紙の目的は出すことにのみあったのだから、当たり前と言えば当たり前である。書いた内容の記憶は徐々に薄れつつあったし、自分でもそれでいいと思っていた。遂に居場所は見つけたのだ、わざわざ掘り返して自分を傷つける必要はない。
煮込み始めてから5分ほど経っただろうか、段々と良いにおいのしてきた鍋の蓋を開ける。木べらで全体をかき混ぜてから適度なとろみがついたのを確認して火を止め、深めのお皿を出そうと食器棚を開いたときだった。ポケットに入れていたスマホから着信音が鳴った。表示された名前に、料理のことなどお構いなしに電話に出る。
『もしもし、ふぅふぅちゃん?』
『やあ浮奇、今話せるか?』
『ん〜…話したいんだけど、今料理が出来上がったとこなんだよね。後で掛け直してもいい?もしかして急ぎの用事だった?』
『そうか、お昼時に掛けてすまないな。ただうききと話したかっただけなんだ。そしたら、都合の良いときに連絡してくれ。ご飯楽しんでな。』
『うん、またね。』
通話終了の音を聞いて、やっと耳から携帯を離す。彼の優しい声がまだ耳の奥で聞こえる心地がする。今まで何度も聞いてきた声だけれど、その魅力は最初からずっと変わらない。その声が今日は自分から頼まずとも聞けた上に、あとでまた電話をする約束も取り付けてしまった。美味しそうなご飯に好きな人の声、今日は何だか良いことばかり起こることに嬉しくなってきて、鼻歌を歌いながら食卓の準備をした。
普段より気持ち早く昼食を食べ終え、食休みも程々に皿洗いをし、気持ちを整えて椅子に腰掛ける。ちらっと時計を確認して、「いつでも電話できるよ」とだけメッセージを送った。返信が来ないかそわそわして昔の会話を見返している途中で「私もだ。今から掛けるな。」と返ってきて、読み終わったその瞬間にスマホが震える。即座に通話ボタンを押すと、携帯越しに明るい声が聞こえてきた。
『うきき〜!ご飯は美味しかったかい?』
『うん、なかなか上手く出来たよ。今度ふぅふぅちゃんにも作ってあげるね。』
『それは嬉しいな。またうちに来てくれるのか?』
『そうだよ、冷蔵庫ぱんぱんにしてあげるからね。』
嬉しそうに笑うふぅふぅちゃんに釣られて俺も声をあげて笑う。別の仕事をしていても、距離を隔てていても、こうやって近しい友人として一緒の時間を過ごすことが出来るのは純粋に嬉しい。
『ふぅふぅちゃんは今何してたの?』
『あぁ、私たちの昔の配信を見返してたんだ。ほら、浮奇が何個か手紙の中で好きだと言ってたのがあっただろう?私にとっても良い思い出だったから、懐かしくてな。』
『え?』
手紙。
俺の手紙と聞いて思い付くものは一つしかない。俺があの日出したものだ。あの、恋慕を恥ずかしげもなくしたためた手紙。名前のないあれが俺のだと、気付いていたというのか。
全く予想していなかった言葉に、意識が遠くなっていくのを感じる。指先が冷たくなっていって、喉の中で空気が詰まる感覚がする。誤魔化さなきゃ、でもここからどうしたら良いのか分からない。ふぅふぅちゃんを上手く誤魔化せたことなんてないから一生懸命頭を働かせるけれど、考えれば考えるほど頭が真っ白になる。
『…浮奇?大丈夫か?』
『あ、うん、ごめん。大丈夫。でもちょっと待って。』
一旦目を閉じて何度か深呼吸をする。ふぅふぅちゃんを心配させたくないのにただ座っているだけでは気持ちが落ち着かなくて、クッションをベッドから連れてきて椅子の上で折りたたんだ膝の上に乗せた。こちらを見つめる可愛い顔をぐにぐにと引っ張ったり押し潰したりしながら何とかうるさい心臓を落ち着けようとするけれど、むしろ酷くなるばかりだ。
『…浮奇?もし話すのが辛いのなら、今日はもうここでやめにしておくか?』
優しい彼は、いつも俺のことを沢山心配して、俺の気持ちを優先してくれる。だからきっと、俺がこのままはぐらかしても何も言わないだろうし、自分がいくら気になったとしても口に出すことはない。だから、彼の言葉にうなずくのが自分にとって一番都合の良い選択だと分かっている。けれど、俺のために自分の気持ちを抑えつける彼が見たいわけではない。俺なんかを理由に自己犠牲をしてほしくはない。彼が俺のことを大切に思ってくれているように、俺も彼のことを大切に思っているのだ。
『……ふぅふぅちゃん、その手紙宛名なんて書いてなかったでしょ。』
少しの沈黙の後、彼が深く息を吐く。
『そうだな。』
『どうして俺からだと思ったの?』
『…一つは筆跡だな。この美しい筆記体には見覚えがあったんだ。』
彼の言葉の裏で紙の擦れる音がした。
『ねぇちょっと待って、今読んでるんでしょ?やめて、そんなのもう読まないで、』
『あぁ、分かった。…言っておくが、絶対に捨てないからな。浮奇のお願いでもそれは叶えられない。』
『それは、うん。いいよ。ふぅふぅちゃんは絶対捨てないって分かってて送ったし。……俺だってバレたのは想定外だったってだけ。』
思わず溢れた最後の一言は余計だっただろうか、だが心の底からの本心だった。だって本当に分かるなんて思いもしなかったのだから。
『……ふぅふぅちゃんは、その手紙読んでどう思った?』
『とても素敵だと思ったよ。愛を感じる素敵な文章だった。』
『そっか。』
あれだけの愛を渡してしまったのに、拒まれていない。それが分かっただけで、涙が溢れるくらい嬉しかった。彼は聡いから、込められた気持ちが友人の域をとうに超えてしまっているのは察しているだろう。それでもこうやって変わらず接してくれることがあまりにも幸せで、同時に申し訳なくて仕方がなかった。言うべきじゃない、彼を困らせるだけの謝罪だと分かっているのに、留めなく零れる涙がそれを押し出していく。
『……ごめん、ごめんねふぅふぅちゃん、ほんとにごめん…』
『なぜ謝るんだ?私は嬉しかったよ。』
『違うの、ほんとはふぅふぅちゃんには伝わっちゃだめだったの、だって』
涙で呼吸が苦しくて言葉が続かなくて、口で浅く息を吸う。ずっと上手く空気を吸えていなくて頭がぼーっとするのに、申し訳なさはそんなのお構いなしに喉奥から押し上げてくる。
『俺、書いちゃった。……ずっと言わないでおいたのに、我慢、出来なくなっちゃった…』
説明しなきゃ、謝らなきゃと焦る気持ちが軽い嗚咽となって取り留めのない言葉をどんどん吐き出していく。
『頭では分かってたの。報われなくても良いって、俺は大丈夫だって。……でも、辛くなっちゃった。だから手紙にしたの。他の皆と一緒なら俺だって分からないかなって…』
電話越しの彼は俺がどれだけ言葉に詰まっても黙って聞いている。その沈黙がずっと大好きで、今はすごく怖い。このまま彼が話してくれなくなってしまうのではないかという恐怖に駆られて溢れた言葉は、言ってはいけないとずっと頭の片隅に押し込んでいたものだった。
『なんで、気付いちゃうの?』
違う、こんなことが言いたい訳ではない。もっと謝って、説明して、せめて彼の友人であり続けられるようにしなくてはいけないのに。彼に責められる理由なんて一つもないのに。
『それは、浮奇だからだな。』
『俺だからって、何。』
『…これは、今度直接会った時に言おうと思っていたことなんだが、今言わないと浮奇に逃げられる予感があるから致し方ないな。』
引き延ばしていた私にも責任がある、と呟くのを聞いて、途端に緊張が走る。あぁ、もう終わりなんだ。今日ここで終わってしまうのだ。ずっと楽しかった、大好きだった、幸せだった。ここで時が止まれば、ずっと彼のことを好きでいることが許されるのだろうか。
『浮奇、よく聞いてくれ。これは、私から浮奇だけに送る言葉だ。嘘も紛れもない、私の心からの言葉だ。分かったか?』
『え?』
『分かったか、浮奇?』
『あ、うん。』
ゆっくりと一呼吸置いた彼が、一つ一つ言葉を紡ぐ。
『手紙を受け取った時、差出人が浮奇だというのはすぐに分かったんだ。先程は筆跡でと言ったが…それ以上に、その手紙の織りなす言葉が、私が愛してやまない者のそれにそっくりだった。』
働かない頭で何とか言われたことを咀嚼していく。こちらは一つのフレーズが引っかかって前に進めないのに、そんなのお構いなしに彼は続ける。
『書いていた内容だって、いつだか浮奇が楽しかったと教えてくれた時のことばかりだった。分からないはずがないだろう?』
『ふぅふぅちゃん待って、』
『なんだい、うきき?』
一旦聞かなきゃ。確かめなきゃいけないことがある。
『…その、さっきの愛してやまないのって、』
『ああ、浮奇のことだ。』
『………ふぅふぅちゃん、俺のこと、愛してるの?』
一瞬の沈黙に、息が止まる。震えの止まらない指をぎゅっと握り締める。
『ああ、心の底から愛してる。』
沈黙に響く、彼の柔らかい、吐息混じりの声。心が震えて止まらなくて、一度乾いたはずの頬に再び涙が零れ落ちた。
『…ほんと?』
『本当だ。…愛してる、浮奇。』
『俺、ふぅふぅちゃんの特別?』
『ああ、特別だ。』
涙が止まらなかった。自分の涙で溺れてしまうのではないかとおもうほど、際限なく瞳に満ちては流れ落ちる。何とか吐き出した息は音にすらならなくて、それでも伝えたいと喉に力を入れる。
『俺も、愛してる。』
『ああ。』
『ふぅふぅちゃんだけが特別。ずっとずっと大好き。』
『私もだ、浮奇。』
彼のくれる相槌はどれも愛しさがあふれ出ていて、あぁ本当に、本当にふぅふぅちゃんに愛されているんだと胸がいっぱいになって苦しいほどだった。
あまりの嬉しさに、息は上がるし顔は熱い。俺の様子を機敏に感じ取った彼に水を飲むよう諭されたから、側にあったグラスの中身を喉に流し込んだ。体を通っていく冷たい水に火照りは多少収まったが、気持ちは依然高ぶったまま。ふらふらした頭で思い付いたのは、ちょっとした我儘だった。
『ねぇ、ふぅふぅちゃん、一つお願い。』
『なんだい?』
『…今度会ったら、いっぱい愛してるって言って?』
俺の小さなおねだりに、ふぅふぅちゃんが小さく笑うのが聞こえる。
『もちろんだ。むしろ、それだけで良いのか?』
『うん。今はこれだけ。』
本当に、今はこれだけで良かった。今まで何度もしたおねだりの一つ。どこにでもあるようなありふれた口約束でも、俺にはそれで十分だった。今はもう、彼の特別なのだから。