Only your eyes on me街を覆い隠すような暗闇に追いやられて淡く残る橙色の空に包まれ、どこからか鳴る秒針と二つの足音だけがこつこつと響く。不揃いだがジャズのように軽快で楽し気な音に気付く者は誰もいない。敷き詰められたレンガに靴を慣らしながら闇夜を舞うように進んでいく浮奇の後ろを、ファルガーは微笑みながらゆっくりと着いて行く。誰も知らない世界のはずれに二人を分かつものなど何もないのに、繋がれた手は固く固く結ばれて離れる気配すら感じられない。苦しいであろう手の締め付けも気にしないかのように綺麗な旋律を口ずさみながら徒然に歩いて行く浮奇だったが、ふとずっと連れられたままの想い人に気付き、突然立ち止まって振り返った。
「ねぇ、ふぅふぅちゃんも見てばっかいないで一緒に踊ろうよ。」
「…いや、私は見ているだけで十分だ。」
「でも誰も見てないんだし、ほら。」
そういって先程まで空をなぞっていた左手をファルガーの右手に重ねた。
「この二つの指輪がはまった手を握れるのはふぅふぅちゃんだけなんだよ?」
特別じゃない?と笑う浮奇に、ファルガーはじっと考えた後ふっと笑みを零して重ねられた指を絡める。
「……特別なら仕方がない。ハネムーンだしな。」
その言葉を聞いた浮奇は頬を染めて笑い、優しく添えられた手を自身の腰に導いた。固く強い腕にぐっと引き寄せられ、二人は身を寄せ合って視線を交わらせる。言葉を発さずとも引き寄せられる唇は、静寂に小さな音を溢した。数時間前一緒に飲んだ醸造酒の甘い香りが冷たい夜風と共に鼻に抜ける。じんじんと熱くなっていく体がもどかしくて、浮奇は繋いだ手を引っ張り三拍子に合わせて体を揺らしていく。
「俺に合わせて。足は同じことの繰り返しだから。」
滑らかに体を運ぶ浮奇を見て少し戸惑った様子のファルガーだったが、意を決して一歩を踏み出した。最初はぎこちなかった動きも、重ねるごとに自然な流れになっていく。余裕が出てきたのを見てとった浮奇は、添えた右手を優しく押し上げてくるくると回った。紫色の髪を緩く靡かせながら上機嫌に再び歌を口ずさみ始めた彼を見て、ファルガーも歌声を沿わせる。慎ましい靴音とたった二つの音色、普通なら足りないと言われるであろうそれでも、二人だけの世界には完璧だった。
無機質に鳴り続けていた秒針など気にならなくなるほど夢中で踊り歌い続け、いつしか二人は細い路地に入り込んでいた。屋根の隙間から漏れる月明かりに照らされる美しい横顔を、ファルガーは蕩けるような眼差しで見つめている。それに気が付いた浮奇は絡ませた指にぎゅっと力を入れてつま先を伸ばし、唇を優しく押し付けた。少し驚いた顔をするファルガーだったが、すぐに嬉しそうに笑って柔らかい髪を撫でる。心地良さそうに目を細めて自分の頬に指を添える最愛の人はこの世の何よりも美しく見え、時たま顎を掠める冷たく固い感触すらも心地良い。もっと感じたいと手を添えると、浮奇はその小さな口を少し近付け、誰にも聞かれぬようそっと囁いた。
「愛してるよ、ふぅふぅちゃん。」
「私もだ。誰よりも、浮奇を愛してる。」
数え切れないほど何度も掛け合ったこの愛の言葉も、繋がりの名前が変わるだけでまた違った感覚がするから不思議だ。
「結婚式では皆の前で宣言したでしょ?」
「ああ。恥ずかしかったが…気分が良かったのも否定できない。」
「ふふ、俺も。最高の気分だった。」
浮奇は声を漏らして笑った後、ふと目線を上げて優しい笑みで白銀の瞳をじっと見つめた。自分の影で朧げにしか見えていないのに、ファルガーはその二つの瞳が確実に自分を射抜いているのだと分かった。意図も分からずただ微笑み返していると、浮奇は静かに口を開いた。
「でも、ここには誰もいないね。」
顰められた浮奇の声はファルガーにだけ届き、響くこともなくレンガに吸い込まれていく。誰も知らぬ廃れた街、彼らを見つめる者は一人としていない。
「寂しいか?」
心配そうに尋ねるファルガーに、浮奇は軽く首を振って応える。その顔には幸せそうな表情しか浮かんでいない。
「ううん、別に誰も見てなくて良いんだよ。本当はふぅふぅちゃんさえ分かっていてくれれば、証人なんていらないの。そうでしょ?」
答えなど分かっているかのように問う浮奇に、ファルガーは顔を綻ばす。自分の贈った指輪が二つもはめられているのを目と肌で確かめ、お互いが愛し合っていると分かっている今、その事実を揺るがすものは確かに何もない。
「…そうだな。お互いさえあれば、それで。」
低く、しかしはっきりとした言葉。明確な単語は含まずとも彼からのこれ以上ない愛に、浮奇は自分を包み込む胸にそっと頬を摺り寄せたのだった。