恒と変の結び目少し開けた窓から吹き込む風が、優しく頬をなぞる。昼食を食べ終わって気持ちよくお腹が満たされ、その心地良さのまま小説の続きを読んでいた頃。昨日より日差しが強く差し込んでくるのをふと感じて、ここ最近散歩をしていないことに気付いた。そういえば先程の料理で冷蔵庫はほとんど空になってしまったから、買い物に行くのには丁度良いかもしれない。外出用のジャケットを手に取ると、突然動き出した飼い主を不思議に思ったのか椅子の上から猫たちがこちらの様子をじっと伺ってくる。訝しむような視線を向けてくるのに側には寄ってこないところも可愛らしいと思うが、向こうは変わらず目線を鋭くしている。しばらく睨み合っていたが、埒が開かないのでお怒りの方々には一言告げて外に出た。
扉を開けた瞬間に一直線に顔を照らす日光に思わず目を細める。眩しさは否めないが、この前の散歩よりも日差しが暖かくなってきたことには少し気分が良い。しばらく足を進めて久しぶりの外の空気と散歩日和の良い天気に影響された私は、思い付きで普段は通らない距離の長いコースに行ってみることにした。食材はいつもと違うスーパーで買えばいい。スマホで地図を開き、行く店に大方の見当を付けてから歩き出した。長らく知っている町ではあるけれどもこの辺りは久しく来ていなくて、周りを見渡しながらゆっくりと進んでいく。
そのまま徒然に住宅街の中を歩いて行くと、右側から目の前の道を颯爽と歩く人影が目に入った。その人は、他の有象無象と同じようにただの通行人として視界に入り込んできたはずだった。それなのに、一度見てしまっただけで全く意識していなかった体を駆け巡る血流がどくどくと存在感を増し、心臓が音を立てて動いているのが今にも聞こえそうな、そんな心地がした。
軽い足取りに合わせてふわふわと揺れる紫髪とそこから覗く横顔から分かるその端正な顔立ち。目線をどこに移しても等しく美しくて、彼の持つその魅力を包括して形容する言葉が何も思い付かない。頭の中は美麗を表す言葉が駆け巡り絶えず動き続けているというのに、私の体は油が切れたかのように軋む感覚に陥り、足はべったりと地面に張り付いたまま動けなかった。
彼は私のあまりの視線の強さに気が付いたのか一瞬こちらを見たが、そのままペースを崩さず歩みを進めた。そのほんの数秒、ゆっくりと私の方を向いた時に見えた正面からの彼の顔にまたもや心奪われる。目が離せない私を知ってか知らずか、彼はどんどん遠くに行ってしまい建物の陰に入って見えなくなってしまいそうになる。それでも彼を見失ってはいけないと何とか後を追おうとするも、体の硬直から解放される前に向かった先すら分からなくなってしまっていた。こうなった時点で気持ちに区切りをつけて今日のことは忘れるべきだとは頭では分かっているのに、いつもなら他人に感じない胸の奥の衝動も、名前も知らない彼を諦め切れない気持ちも、どうしても抑え切ることが出来なかった。
しばらくその場で呆然と立ち尽くした後、やっと足が動いたのは側を通る車に意識を引き戻されたからだった。来た道を戻りながら食材を買い忘れたことを思い出したが、進行方向を変える気にはならなかった。
家に着いて、思い付くことは何でもやった。自分の一瞬抱えた感情が今まで芽生えたこともないものでひどく動揺してしまったから、何かしらをしていないと気が済まなかった。
最近夢中になって読んでいる小説を手に取り、ソファーに腰掛ける。頭の中の雑念を追い払うようにひたすら文字を辿るが、目はそれらをなぞるだけで情報が頭に入ってこない。数時間前までは全てを読み切りたい気持ちをやっとのことで抑えるほど読み進めることに熱中していたというのに、今では文字を追うことも億劫に感じてしまうほどだった。観念して栞を前回の箇所に戻してから小説を閉じ、私はパソコンの前に向かった。ゲームは幾分かましだった。チャット上で他人と会話をすることでそちらに意識が集中して、少しでもあの綺麗な彼の横顔を意識から引き剝がすことが出来る。
長く続いた対戦を終え、目の奥に感じる鈍痛を抑えるべくホットタオルを作ろうと席を立つ。目の周りをじんわりと温める心地の良い熱に深く息を吐くと、瞬時に今日の彼の姿が頭に浮かんだ。少し離れた場所から見ても分かるほど端正な顔立ちを思い出す度に、その情景が今後何を見ても上書きされないと確信できるほど強く強く瞼の裏に刻み込まれていく。けれどただ一つ、長い前髪に隠れた瞳の色だけが、何度思い出そうとしても不明瞭なままだった。
自分でも想像はついていたが、あのほんの数分の出来事は寝たところで解決できるようなものでは無くなっていた。目が覚めた瞬間に昨日の出来事が一から十まで頭を巡ったので、私は瞬時に昨日のルートを封印することに決めた。寝ても無限に麗しい彼の顔を思い浮かべてしまう自分に嫌気がさして、強制的に会う可能性を潰すことで時間に任せて忘れた方が良い。どんどん膨らんでいく感情に怖気づいて、芽は早いうちに摘んでおこうと思っての行動だった。
その日の夕方、昨日行き損ねたからと出掛けた買い物の途中の出来事だった。未だ胸の底で燻っている複雑な感情を抱きながら長いレジの列に並んで待っていると、手持無沙汰で触っていた携帯に通知が届いた。お気に入りの作家の名前の隣に、新刊発売の文字を見て口角が上がる。その場で近くに取り扱いのある店を調べて、最近新しく出来たらしい本屋を目的地に設定しておいた。
買い物が終わって着いたその場所は話題性もあってかかなり賑わっていたが、そんなことは気にせず目的のコーナーへと急ぐ。その時の私は新刊の事しか考えていなかったのだ。分かりやすく平置きしてあるお目当てのものを手に取ると、私は一目散にレジに向かった。
やっと手に入れた物の背表紙のあらすじは、読むと無性に今すぐ読み始めたい気持ちに駆られるほど魅力的だった。家に読みかけの小説があるのだからそちらを優先して読むのが良いというのは分かっているが、今手の中にずっと待ち望んでいたものがあると今すぐ全てを放って読み始めたい。
色々論理的に考えようとしたが結局欲に負けて読みたくなってしまった私は、紅茶一杯分だけという制約を自分に課して新作を堪能することに決めた。一度心が定まればあとは場所だけ、逸る気持ちを何とか抑えて小説を強く握り締めながらパッと目についたカフェに入った。
軽やかなドアベルに耳を寄せながら扉を開けると、すぐ側で接客していたらしい店員がこちらを振り返る。眼前に映るその姿に、私は音にならない息を呑んだ。喉はきつく閉まって、呼吸が精一杯だった。
「いらっしゃいませ、何名様ですか?」
低くて柔らかい、どこか親しみを感じる声でそう尋ねる彼は、私が躍起になって忘れようとしている人物だった。
「お客様?」
「………あぁ、これは失礼。一人なのだが入れるだろうか?」
初めて見る、垣間見える彼の左目の影に吸い寄せられて、詰まった言葉を吐き出せたのは問いかけよりかなり間が開いた後だった。反応がない私を覗き込むときに瞬きで揺れるまつ毛を見て、やっと自分が押し黙っていたことに気付いた。不自然な間を作ってしまったが、今までで一番だと断言できるほどの美形に、しかもその透き通る瞳に見つめられて動揺してしまうのはそういう性だと言い訳させてほしい。いくら自分が様々な経験を一通り経て落ち着いた大人であっても、だ。
案内された席は、人がまばらな店内を見渡せる上に少し暗い店内の中でも明るい電球の下だった。彼は俗世離れした容姿とは裏腹に気さくな人のようで、席まで歩きながらゆっくりと話をしてくれる。淡々としているのに柔らかさを含んだ彼の声は、耳にすっと入ってきた。
「注文が決まったら声掛けてね。」
「ありがとう。…ちなみに、おすすめはあるだろうか?このお店のでも、君のでも。」
「ん~そうだな、小説のお供ならこれかな。」
そう言ってテーブルの上に置かれたメニュー表を指す彼の指はしなやかで、爪まで丁寧に手入れされているのが分かる。どうしても文字に目線を映すことが出来なくて、彼の問いかけによく分からないまま頷いた。少し時間を置いて言われたことを咀嚼して、思わず彼の方を見上げる。
「何故それを?」
「買い物袋をぶら下げているのに、その小説は仕舞わず大切に手で持ってるから今すぐ読みたいんだろうなって。」
「もしかして席も?」
「ふふ、気に入った?ここで紅茶飲みながら本を読むお客さん、絶対にかっこいいと思ったんだよね。」
じゃあ今淹れるから少し待ってね、とだけ残して彼はカウンターに向かっていった。呆気に取られた私は小さくお礼を呟くことしか出来なかった。
一杯だけという当初の決意は、紅茶が届いてからというものぐらんぐらんに揺らいでいた。深呼吸をしてからゆっくりとページを捲るものの、新しいページを見たとてすぐに物語を読み進めることが出来ず左上のページ数をぼやけるほど強く見つめてしまう。おかしなことをしている自分に気付くと誤魔化すように紅茶を口に運んでしまい、今見ればほんの数ページだけで紅茶は半分以下まで減ってしまっていた。どうしたものかとカップを軽く揺らしながら考えていると、茶葉の芳醇な香りが鼻を通っていく。かなり自分好みだが覚えのない香りで、先程きちんと銘柄も確認せずに注文したことを後悔した。またいつか飲みたくなった時のためにあとで手隙の、出来れば彼以外の店員に尋ねることにして、ひとまずは小説に集中しよう。詳しくはないがどこかのデザイナーのものであろう繊細な柄のカップを慎重にソーサーに重ねると、テーブルにかかる影に気が付いた。元を辿るように顔を上げると、例の店員が傍に立っている。
「その紅茶、気に入った?」
「ああ、とても好みだ。店のおすすめなのか?」
「ううん、それは俺の。お店のも飲んでみる?」
「心惹かれるが、それはまたいつかの来店の楽しみにするよ。…そうだ、」
一瞬出てしまった言葉の続きを口にして正しいのか逡巡して口を噤む。わざわざ彼に聞かないようにしていたことも、本人を前にすると本心が現れて話す口実に使ってしまいそうになった。大したことを聞こうとしているわけではないのに、動揺で思考が散らばって自分の手元から離れていくのを感じる。それでも表に出るほど取り乱さずにいられたのは、彼の柔らかい眼差しがあったからだった。彼に見つめられるうちに、彼の瞳に意識が持っていかれる。不思議な色をしているとは思っていたが、目にかかる緩く巻かれた髪の毛が揺れて、もう片方の瞳が隙間から覗くのを見て更に驚いた。
「…左右で瞳の色が違うんだな。とても綺麗だ。」
「ん?あ、そうそう。お客さんならもっと見ていいよ、ほら。」
そう言って彼は細い指で前髪をかき分け、私の顔を覗き込んできた。からかい半分でやっているのが目に見える。恥じらいもせずにやっているのを見ると、常習犯なのだろう。彼の思惑通り私の頭の中は途端に搔き乱されてぐちゃぐちゃになっていたが、乗せられまいと平然を装う。
「ああ、本当に可愛らしい顔をしているんだな。思わず惚けてしまったよ。」
私が顔を真っ赤にして動揺すると思っていたのだろうか、私の反応を見て彼は一瞬呆気に取られた様子を見せた後、照れたように笑った。形の良い唇から漏れる軽い笑い声が耳に届く。
正直、もう駄目だと思った。
こんなにも強く湧き上がってくる感情を、どうやって抑えるというのだ。
初めて出会った時から彼の一挙手一投足に揺さぶられ続けていたが、一瞬見えた彼の内面に完全に落とされてしまった。
こういう時はどうしたらよかっただろうか、長らく人を好きになっていないから簡単なことさえも分からない。新しいことなど何も浮かばなくなってしまった沸騰した頭に蹴りをつけ、諦めて先程の質問を掘り返す。
「そうだ、この紅茶の銘柄をもう一度教えてくれないだろうか?忘れるといけないからメモしようと思って。」
「あ、うん。書くものある?メモに書いて渡すよ。」
「お気遣いありがとう。お願いしようかな。」
小走りでカウンターに戻り、いそいそと何かを書いている彼をじっと見つめる。ふと顔を見上げた彼と目が合ったので微笑むと、はにかみ返してくれた。短い距離なのに小走りで帰ってきた彼は私に向かって小さいカードを差し出す。箔の入った丁寧な作りのそれは、お店の名刺のようだった。
「裏に銘柄が書いてあるから。…あと、俺の名前と電話番号も。連絡、待ってるから。」
「はは、ありがとう。考えておくよ。」
答えが気に食わなかったのだろう、そっぽを向いて頬を膨らませている彼が見えてその可愛さに思わず笑みが零れる。受け取った紙に目を落とすと、達筆な筆記体で書かれた名前が目に入った。
「浮奇というのか。良い名前だ。」
「ありがと。お客さんの名前は?」
「ファルガーだ。好きに呼んでくれ。」
胸元のポケットから財布を差し出すと、彼に紙幣を何枚か差し出す。
「これは楽しい時間を過ごさせてくれた君にお礼だ。受け取ってくれ。」
「…こんなにいいの?」
「もちろんだ、熱烈なサービスをありがとう。」
「そう言って、俺に見とれてた分のお駄賃も含まれてるでしょ?」
「…さぁ、どうだかな。」
「あんなに熱い視線を貰って俺が気付かないと思った?」
妖艶に笑う彼はあまりに魅力的で、また吸い込まれそうになる自分に気付きすぐに目を逸らす。もういくら目線を向けてもバレてしまっているのだから何をしても意味が無いはずなのに、恥ずかしさは拭えなくて誤魔化すように軽く笑い返し会計を頼んだ。
レシートを渡され、礼を行って扉に向かおうと背を向けたら、浮奇にうしろから呼び止められる。
「今日は来てくれてありがと。」
「ああ、こちらこそ。どうかしたかい?」
「…あの、もし良かったらだけど…このカフェ、夜はバーになるから、お酒飲みたくなったら遊びに来てほしいなって。」
「バーか、それはいいな。」
「ほんと?今日飲んでた紅茶のカクテルも作れるよ!もし好みじゃなかったら他のお酒でもいいし、」
何故か必死になって私の気を引こうとする彼が可愛らしい。
「分かった分かった、今度また遊びに来させてもらうよ。」
「連絡待ってるからね。」
「ああ。」
それじゃ、と片手を挙げてカフェを出る。後ろを振り返ると閉まる扉の隙間から手を振る浮奇が見えて、手を振り返すと嬉しそうにしているのが見えた。
結局貰った番号に電話をかけたのは次の日の夜だった。その日に電話した方が良かったことは分かっていた。話したくなかったわけではないしむしろその逆だったのだが、この期に及んで何を口実に電話したら良いのかが分からなかったのだ。シフトを確認してバーを訪れる日を決めようと決意したはいいものの、バーの定休日とはいえ仕事中ではいけないと夜まで待って恐る恐る電話をかけた。
「もしもし、ファルガーだ。夜遅くにすまない。今平気か?」
「ファルガー!こんばんは、全然大丈夫だよ。」
「良かった。連絡が遅くなってすまない。…あー、今週の土曜日バーに行きたいと思っているのだが、浮奇は出勤かい?」
「うん、いるよ。会いに来てくれるの?楽しみにしてるね。」
「ああ、じゃあ土曜日にまた。おやすみ、浮奇。」
「うん、フォルガーもおやすみ。」
たった数分の短い間のやり取りだったのに、私の心臓はものすごい音を立てて鳴っていた。最後に告げられたおやすみの言葉は蕩けるように甘くて、しっかり通話が切れたことを確認してから堪えきれなかった分の感情がため息として漏れ出たほどだった。赤くなっているだろう顔を手で覆うと、最初はひんやりとしていた義手に頬の熱さが伝わっているのを感じて更に恥ずかしくなってしまった。
約束当日は、家を出る時間まで朝から分単位で予定を入れた。やる事がないとそわそわして落ち着かなくなってしまうので、いつもはやる気のないことも率先して済ませた。おかげで家は見違えるように綺麗になったが、依然として頭の中は色々なことで混沌としたままだ。柄にもなく何度も鏡の前を通り過ぎて、変に見えないかを確認してしまう。
永遠に来ない時間を埋めるように動き回っていたのに、ふと家事に意識が向きすぎていることに気付き時計を確認するともう家を出る時間だった。あんなに余裕があったはずなのに、鞄を掴んで即座に家を出る。散歩のときは周りの景色を楽しみながら歩くのに、今日は自分の進む道しか目に入らなくて、遅れてはいけないといつも以上に速く足を進めた。
数日前確かにカフェの看板を掲げていた場所は、彼が教えてくれた通り確かにバーになっており、昼とはまた違う雰囲気を持っていた。別に信じていなかったわけではなかったが、あまりに話がとんとん拍子で進むので不安になったのだ。中の様子を覗こうとするも曇りガラスでよく見えなかったので、覚悟を決めた私は深呼吸をしてドアノブに手を掛けた。
最初に目に飛び込んできたのは、カウンターでお酒を作る浮奇だった。周りにはお酒を嗜む客がちらほらいる。彼はドアベルに反応すると、私だと分かったのか特段明るい笑顔を浮かべる。
「ファルガー!いらっしゃい、ここ座ってよ。」
そう言って彼は自分の目の前のカウンター席を指す。私が向かうと、浮奇は予約席と書かれたマーカーをそっと持ち上げ、カウンターの下に閉まった。
「こんばんは浮奇、こんな特等席を良いのかい?」
「もちろん、ファルガーのために取っておいたんだから。」
浮奇は他の客のものであろうドリンクを作りながら答える。店内はこの前よりも少し混み合っているが騒がしいことはなく、ゆったりとした時間が流れている。
「浮奇はバリスタでもバーテンダーでもあるのか。多彩だな。」
「ふふ、ありがと。実はここ、俺のお店なんだ。」
「そうだったのか!もしかして毎日ここにいるのか?」
「定休日以外はそうだね。」
「なんだ、最初からそう言ってくれれば良かったのに。電話で確認した私が馬鹿みたいだ…」
恥ずかしさに思わず手元のグラスを意味もなく眺めていたが、カウンターに身を乗り出した浮奇が上目遣いで視界に入り込んできた。
「違うよ、わざと教えなかったの。じゃないと電話してくれないでしょ?」
これはしてやられたと思った。確かに、必要がないなら自分からは電話は掛けなかっただろう。自分なんかが浮奇に電話をかけて良いはずがないと怖気付いていたはずだ。
自分の考えが見透かされているなんて思ってもみなかったし、しかも仕草まで可愛いときた。衝撃で言葉の詰まった私がやっとのことで絞り出せた返事は、ただの肯定だけだった。
「顔真っ赤だね?もしかして酔っちゃった?」
「まだ頼んですらいないんだぞ、揶揄わないでくれ…」
「ふふ、ごめんね?何飲みたい?」
「せっかくならこの前教えてくれたものにするよ。お願いできるかい?」
「もちろん、ちょっと待ってね。」
目の前で慣れた手付きの彼がお酒を作ってくれているのをじっと眺める。バリスタの時とはエプロンの有無ぐらいしか変わらないのに、纏う雰囲気があの時に増して艶やかでなかなか心臓が鎮まらない。あまりに見過ぎていたのか目が合ってしまって何でもない風に目を逸らしたが、微かに笑う浮奇の声が聞こえて静まったはずの体が再び熱くなる感覚がする。
「ファルガーってほんとかわいいよね。」
「よせ、いい大人に何を言ってるんだ…」
「そういう照れ屋なところとか特にね。」
「人を揶揄うのが趣味なのか?」
問いかけには何も返って来ず、代わりに渡されたのは出来上がったカクテルだった。
「おぉ、とても美味しそうだ。」
「でしょ?ウォッカをベースに作ってるの。中々の自信作なんだよね。」
誇らしげに笑う浮奇から目の前のグラスに目線を落とし、綺麗に乗せられたフォームを崩さないようにゆっくりとそれを口元に運んだ。グラスを少し傾けて喉に流し込むと、濃いアルコールの香りの中にしっかりとあの時の紅茶の香りが鼻腔を通り抜けた。喉に残るようなはっきりとした風味があるのにくどすぎることはなく、口当たりは滑らかで飲みやすい。
十分に堪能してからふと顔を上げると、浮奇がじっとこちらを見ていた。微笑みながらも見るだけで何も言わない彼に、今まで自分が一言も話さずカクテルを味わっていたことに気が付いた。
「…すまない、あまりに美味しくて夢中になっていた。」
「ほんと?あまりに真剣な顔して飲んでるからちょっとドキドキしちゃった。」
「目付きが悪かったか?集中してるといつもこうなんだ。…怖がらせたなら申し訳ないな。」
小さく溢した最後の言葉には肯定も否定もなく、しばらくの沈黙の後浮奇が手をそっと私のに重ねてきた。細い指で私の金属の手の甲を優しく擦り、私の耳元に唇をそっと寄せる。
「ねぇ、俺ファルガーのこともっと知りたいんだけど、色々聞いても良い?」
突然降ってきた刺激に思わずグラスを握る手に力が入る。私の些細な反応を目敏く見ていた浮奇は楽しそうに口元に弧を浮かべている。
「もちろん良いが、頼むから今度から普通に聞いてくれ…」
毎回こうでは絶対に気が持たない。切実にそうお願いすると、彼は一言頑張る、とだけ答えた。
「それで、私のことが知りたいのか?可能な範囲内なら何でも答えるぞ。」
「ん〜じゃあ、仕事は何してるの?」
「色々やってるが、主なのは執筆系だな。」
「小説とかってこと?」
息を呑んで目を丸くさせこちらを見つめる表情は初めて見るもので、こんな顔も可愛らしいのかと驚いてしまう。
「かっこいいね、いつか俺にも読ませて?」
「もちろん良いが、暗い話は読めるか?」
「うーん…そもそもあんまり小説読まないんだけど、ファルガーの書いたものなら読んでみたいな。」
彼の口からするすると出てくる調子の良い言葉に何度も気持ちを引き摺られそうになっては、毎回遊ばれているのだからと自分を引き戻すのに必死になっている。昔からこう流されやすい質だっただろうかと古い記憶を引っ張り出してきても、思い当たるような節はないのだから不思議だ。
「浮奇はここの店以外に仕事はあるのか?」
「なんにも。休日はゲームしたりしてる。あんまり得意じゃないけど。」
この返答は意外だった。自分とは世界の全く違うような、遠い存在のように思えていた節があったのに、共通の趣味があるというだけで急に親しみが湧いてきた。そこから打ち解けるのは早く、浮奇も時々自分で作ったカクテルを口にしながら二人で会話を楽しんだ。
夜が深くなり客の酒の入りも強くなってきてからだろうか、店全体の視線が自分に向けられているのを感じるようになった。原因は分かっている。目の前にいるこの男だ。
「ねぇファルガー、聞いてる?」
「…浮奇、そろそろ水を飲んでくれ。確実に変な酔い方してるからな。」
「ほら聞いてないじゃん。いい?もう一回言うからちゃんと聞いてて。」
少し怒った口調で私に詰め寄る彼の少し開いたワイシャツの襟の間から、酒で赤みを帯びた首元が覗いている。それだけじゃない、いつもより強めな物言いも熱を帯びた眼差しも、ここの客の好奇の視線を集めるのには十分だった。そして、そんな注目の的が熱心に話しかけている相手がいれば、まとめて目線の的となるのは当たり前である。
「明日の朝、ファルガーのその声で起こしてくれない?うんと掠れたのが聞きたい気分なの。」
「モーニングコールなら500ドル、録音したいならその倍は貰うからな。」
「…そうじゃないってば。」
赤らめた頬を膨らませて拗ねる浮奇はカウンターに頬杖を突くと、一度伏せた瞼をゆっくりと上げてしっかりとこちらを見た。前髪で陰る目元でも光を持つ瞳を正面に向けた彼は、私を捉えて離さないとでも言いたげな風に徐々に目を細める。
「もしかして、もっと直接的に言ってほしいの?」
「…ここが自分の店だってこと忘れてないよな?」
「場所とか関係ない、俺は今ファルガーと話したいの。」
「ずっとその調子なら今日は私が帰らないと終わらないな。また今度お茶しに邪魔するよ。」
伝票を確認し、過剰なくらいの札束を重ねて浮奇の方に滑らせる。
「浮奇も、今日はもう店仕舞いをした方が良い。私は今度また必ず来るから。」
口先だけで終わらないように、目を見てはっきりとそう告げる。それでも浮奇の瞳が不安そうに揺らいでいるのに気付いてまた明日必ず電話を掛けると念を押すも、表情は依然として暗いままだ。今にも泣きだしそうな浮奇を置いてこのまま帰るのは逆に不安で、どうしたものかと頭を悩ませていると、ゆっくりと顔を上げた彼が必至な顔でこちらを見つめる。
「ほんとに、ほんとに電話してくれるんだよね?掛かってこなかったら俺から掛けるからね?」
「ああ、浮奇の体調も心配だからな。」
「分かった。…今日はごめん。気をつけて帰ってね。」
笑顔だが寂し気に手を振るのが気がかりだったが、自分は大丈夫だと、気にしないで良いからと私を見送る浮奇に何も言うことが出来ず、そのまま店を後にした。
すっかり静まった町をしばらく歩いて、ふと気が緩んでため息が出る。疲労や失望から来るものではない。いや、疲労はあるかもしれないが、少なくとも失望ではない。それは心からの安堵の溜息だった。
想う相手から際限なくアプローチを掛けられるというのは、想像以上に堪えるものだった。積極的な物言いをする人なのだということは最初から分かっていたが、酔いが回ってからの浮奇は凄まじかった。正直どうやって自分を抑え込んでいたのか覚えていないし、冷静に受け答えが出来ていたか自信もない。浮奇の大胆さに逆に冷静になって普段ほど酔いが回っていなかった自覚はあるが、あの状況に耐えるために素面ではいられないからとそれなりの量の酒を煽ったことは事実だ。
困ったのは、自分の気を紛らわすために酒を飲み続けるのに、酔えば酔うほど浮奇が魅力的に見えたことだ。自分の酔いのせいもあるだろうが、自分と同じペースで酔っていく浮奇自身の魅力そのものが増していた。普段より低くなる声も、自分の肩や腕に触れる熱を持った指先も、私の気を狂わせるのには十分だった。
それだけじゃない。浮奇に注ぐ他の客の視線も酒が進んだ原因の一つだ。あの時目の前にあった普段とは違う彼の姿を、自分だけのものにしたくてたまらなくて、周りが彼を見る度妙に苛立った。まだ二回しか会ったことのない、素性を深くも知らない相手のはずなのに、あんな顔を見せる浮奇を誰にも見せたくなくて、自分の体で閉じ込めてしまいたくなる衝動に駆られた。その度に酒で誤魔化そうとするなんてこの歳になってらしくないことだったと思うが、それでも浮奇の魅力はそれほどまでに強く、何か拠り所がないと駄目になってしまいそうだったのだ。
歩みを少し遅らせ、澄んだ空気を大きく吸い込む。酸素を得て徐々に鮮明になってきた頭に再び浮奇の顔が浮かんで、それを振り払うように足早に帰路を歩き出した。
次の日目を覚ましたのはお昼前で、昼食を食べようかと思ったけれど、連絡は早い方が良いかとその場で浮奇に電話を掛けた。寝起きだったらしい彼の声は凄みがあったが、相手が私だと分かった途端明るくなって、そんなところも可愛らしいと思ってしまった。
「…結局寝起きの声聞けちゃった。」
「お気に召したか?ガラガラなだけだろう。」
「ううん、好き。…すっごく好き。」
声のことを言っているのに動揺して返す言葉がすぐに出て来ない自分に飽き飽きした。こういう期待をするのは学生時代に散々やったはずなのに、また繰り返している自分が馬鹿馬鹿しくて仕方がない。
「………無料なのは本当に今回だけだからな。」
「分かってる。あの時はごめん。」
浮奇はそう絞り出すように告げた後、何も言わなくなってしまった。この前のことを引き摺ってひどく落ち込んでいることが手に取るように分かる。そんな辛そうな声は聞きたくなくて、何とか元気付けようと頭を回転させて思い付いたことを口に出す。
「…浮奇、魚は好きか?」
少しの沈黙の後、揶揄いも嘲りもない、まっすぐな声が電話口から聞こえた。
「食べるのってこと?」
「いいや、見るのがだ。」
「くらげは好きかな。ふわふわしてて可愛いし。」
「そうか。……その、良かったらなんだが…水族館、一緒に行かないか。」
数秒の沈黙の後、電話越しに小さく笑い声が聞こえた。そこにはもはや悲しそうな音はない。
「うん、行こう。ファルガーと行けるのすごく楽しみ。」
落ち着きがあるがいつもより跳ねるような声色に、電話の向こう側で嬉しそうにしているのが手に取るように分かる。そういう自分も柄にもなく浮奇との外出が楽しみで、彼と出会ってから頻繁に感じるこの胸の奥の小さな喜びがくすぐったくて堪らなかった。
待ち合わせの日、時間ちょうどに入場ゲートに向かうとそこには既に屋根の下の日陰に佇む浮奇がいた。初めて見た時と同じ綺麗な横顔に、鼓動が速くなるのを感じる。風に靡いた髪を耳に掛ける仕草に胸が焦がれる感覚がして、風と共に振り払うように急いで彼の元に駆け寄った。足音で私に気付いた浮奇が顔を綻ばすのを見て更に暴れまわる心臓を必死に無視しながら手を振る。涼しい顔をして全く待っていないと言う彼の首元には汗が滲んでいて、時折見えるその健気さにまた心惹かれながら二人でチケットを買いに行った。
販売員に手渡されたチケットのうち一つにクラゲの写真が印刷されているのを見てそれを迷わず浮奇に渡すと、最初は少し驚いた顔をしていたが、写真がお気に召したのか顔がぱっと明るくしながら嬉しそうに体を揺らす。その時、下の方からコツと軽い音がした。目線を下ろすと浮奇の足元のショートブーツが目に入る。ヒール自体は細くないが、以前会った時よりも高さのあるものを履いていた。
「素敵な靴だな。もし転びそうになったらすぐに手を貸すから、その時は教えてくれ。」
「え?…あぁ、ヒールのこと?多分大丈夫、だと思う。慣れてるし。」
そう言った後、彼は少し考える様子を見せてからこちらをまっすぐと見上げた。繊細なフリルで飾られた袖から覗く手をそっと私の方に差し出す。
「…理由もなく繋ぎたいって言ったら、いや?」
目線は私の目の奥を迷いなく貫いているのに、その色の異なる瞳はどこか不安げな風に見える。私は即座に首を振り、鞄を左手に持ち替える。
「こんなに美しい人をエスコート出来るなんて、身に余る光栄だよ。」
返事を聞いた彼は、ゆっくりと手を私のと重ねた。私の目に映る浮奇の手はこんなにも繊細で美しいのに、自分の金属の手では全く感じ取れない。
「私の硬い手は痛くないか?」
「うん、平気。」
浮奇は、重ねた手を滑らせ、優しく指で感触を試すように触る。
「ファルガーの手、ひんやりして気持ちいいね。気に入ったかも。」
「…そうか。なら、良かった。」
答えても浮奇は私の手に興味津々で、ひたすら感触を楽しむ彼が飽きるまで待つ。目で満足したと訴える浮奇に私は一つ頷いて、繋がった手はそのままに中へと入っていった。
水族館もエスコートも久しぶりで、浮奇が楽しんでくれるのか、これで彼を元気付けられるのか不安な部分はあったが、当の本人は終始楽しそうにしていたので安心した。時々横から雑学を挟むと目を見開いて一生懸命聞いてくれて、時々質問もしてくれる。ゆったりとした彼との会話が心地良くて、ここまで安心して過ごすことの出来る人は久しぶりか、もしかしたら初めてかもしれない。
大きな水槽を通り過ぎた先にある通路の横に、クラゲの展示を指す看板が立ててあった。それを見て、先ほどまでゆっくりと辺りを見回していた浮奇が、ぐいぐい私を引っ張って通路を進んでいく。暗い中でも迷いなく力強い足取りで進んで行き、対する私はそのスピードに追い付くのに少々苦労した。ヒールに慣れているのは嘘では無いらしい。
辿り着いた先は開けた空間で、浮奇は圧倒されたように立ち止まり辺りを見回していた。まるで吸い込まれたかのように一つ一つの水槽に目を写し、時々息を呑む音が聞こえる。かく言う私は、水槽の反射に照らされた、うっとりするように眺める浮奇の横顔しか目に入らなかった。ふと、手の中の細い指が動くのを感じたと思ったら、ゆっくりと掌をなぞるように指を絡ませられた。
「この繋ぎ方は、だめ?」
「浮奇、」
「俺が暗くて転んじゃいそうだから。ね?」
紡ぎ出されたその可愛い理由が真っ赤な嘘だと分かっていても、彼の指を拒むことなど出来なかった。繋がれた手を見ると、彼の手の甲に浮かぶ筋で少し力を込めたのが分かる。不安からか執着からか、私の手を押さえ付けるのには程遠い小さな力でなお離さないという強い意志を見せる微細な変化に、恋人でないからという脆い建前もぼろぼろに崩れてしまった。
「……言い始めたのは私だからな。最後までエスコートするよ。」
私もゆっくりと関節を曲げ、一回り小さな手に指を絡ませる。こちらを見つめる浮奇の顔がほんのり色付いて、そして小さく幸せそうに笑った。その微かな笑顔が心地の良い夢であることを頭では理解しながらも、今だけならこの状況を受け入れて良いかと思えてしまった。
浮奇は終始漂うクラゲに夢中になっていたようだが、私は展示を楽しむ傍ら彼の小さな手を潰さないように力加減を調節するのに必死だった。彼がクラゲに集中出来るように、少しでも不快に感じることのないようにミリ単位で関節の傾きを調節する。あまり納得がいかなくて四苦八苦していたら、意図せず浮奇の手を何度も握り締めていることに気付いた。もう動かしようがないのでとりあえず優しく指を添える形で落ち着かせる。もちろん横から感じる視線と時折聞こえる笑い声には気が付いていたが、横を向いたら負けな気がして泳ぐ魚を指さして見たりした。
小さな水槽をそれぞれ余すことなく眺めた後、遂にメインのミズクラゲの水槽の前に立った。自分たちの倍はある大きなガラスを、浮奇は目を丸くして見つめている。クラゲは観客の目線など気にせず自由気ままに漂っていたが、気が付くと下の方にいる個体が増えていた。浮奇もそれに気が付いたようで、一歩下がって目の前いっぱいのクラゲを眺めている。
「浮奇に集まってるみたいだ。」
「さっきクラゲは泳げないって言ってたのファルガーじゃん。波の流れに身を任せてるって。きっとただの偶然だよ。」
「偶然でも、良い景色じゃないか。」
美しいものに吸い寄せられるのはクラゲも同じなのだろうか、という考えは口にはせずそっと飲み込んだ。今の状況に甘んじて想いの丈の乗ったことを言うのは驕りだ。
「ファルガー、ここに連れてきてくれてありがとう。」
水槽を見つめたままの彼がそっと呟く。すとんと床に落ちるようなまっすぐな声に乗せられたそれは、魅惑も誘惑も目的としない、心からの言葉に聞こえた。
「気に入ってくれて良かった。」
「場所も素敵だけど、ファルガーと来れたことが嬉しい。…本当はもっと一緒にいたいんだけど、」
浮奇はもう一度クラゲに目をやった後、私の目を覗き込んだ。カフェやバーで見たのとは全く違う、意志を感じながらどこかに怯えが見え隠れするような目だった。
「夜ご飯、一緒に食べない?」
「………もちろん、元々そのつもりだ。」
何を言い出すのかと思ったら、至極健全なことを言われて拍子抜けだ。しかし、浮奇の顔を見ると目も口も開きぽかんとした顔をしている。
「考えててくれたの?」
「そりゃ、このまま解散は何だか寂しいだろう?」
「そっか。……そうなんだ、良かった。」
照れくさそうに笑う彼を見つめていると、こちらの視線に気付いて拗ねたように口を尖らせて私の腕を強く引っ張る。私は抵抗する気もないのでされるがままに歩き、一緒に出口付近のお土産コーナーに向かった。
浮奇が選んだのはクラゲの描かれた可愛いマグカップで、私は無難に栞を買った。私が買っているのを見たら向こうもこっそり栞を籠の中に入れていたが、指摘するのは無粋だから何も言わなかった。浮奇の様子に嬉しさが強く、実はお揃いだという裏話が付くだけで安価な栞も使う前から愛着が湧いたのも事実だ。
外に出た頃には陽は傾き始めていて、お互い空腹を感じていた私たちは浮奇の要望でイタリアンを食べに向かった。水族館から出た後も手は繋がれたままだったが、どちらも離そうだなんてことは口にはしなかった。既に長らく絡ませ合ったお互いの指は馴染んでいて、この心地よさを手放す気には到底なれなかったし、誰もが望み喜んで握るであろう浮奇のこの大事な手を、出来るだけ長く独り占めしていたいという私情もあった。
最初は少しでも長くこのままでいられたらいいと思っていたのに、結局歩いていた十分間でも我儘な私には物足りなかった。ドアを開ける時に自然に手が離れた途端に指先が寂しく感じて、手持ち無沙汰に手を握ることしか出来ない。そんな私に気が付いたのか、浮奇は私の指を何も言わず掬って引き、店員に導かれるまま店内を進んで行った。繋がっている面はより少ないはずなのに、この小さな結び目は手を繋ぐ以上に恥ずかしくて、私は俯きながら歩くことしか出来なかった。
通された席は奥まった他の客からは離れた場所で、テーブルの中央には小さなキャンドルに明かりが灯っている。浮奇はその仄かな明かりに照らされながら、こちらにメニューを見せてくれる。
「ファルガーは何食べたいの?」
「正直今ならなんでも食べられる気がするよ。浮奇は?」
「え、どうしよ。ちょっと考えさせて。」
彼は一通りメニューを見た後、じっくり悩んでなおピザ二種類で迷っていたので、両方頼んで二人で分けることにした。ワインは種類が多かったので、注文の時におすすめを聞いて浮奇が選んだものを追加で頼む。「ほんとにファルガーは決めなくて良いの?」と心配そうに聞かれたが、私からしたらメニューを見て目を輝かせる浮奇を見た時から彼には好きなものを食べてほしいという気持ちしかなかった。
実際、届いた食事とワインを眺める浮奇の瞳は釘付けになっていたし、食事をしている時の浮奇はいつもより割り増しで表情が豊かな気だ。いつも無表情に見えて案外感情が顔に出やすいタイプではあると思っていたが、美味しいものを食べている時は特に喜びを噛み締めているのが蕩けるような表情でよく分かる。もちろん酒が入っているから気分が上がっているというのもあっただろうが、こんなに幸せそうな表情をしてくれるなら、彼の特別な存在になんてなれなくても良いから友人として何度でも食事に誘いたいという考えが浮かんだほどだった。
当の本人はかなり早い段階で酔いが回っていたようで、いつからか熱を帯びた視線をこちらに向けてくるようになった。あの時は雰囲気に呑まれたが故の一時的なものだと思っていた物言いも相変わらず情熱的で、こちらとしてはかわすことしか出来ない。彼のくれる「かっこいい」も「どきどきする」も確実に自分に矢印の向いたものだと分かるのに、どこか冷静になってしまう自分がそれを受け入れることを悉く拒む。こんなに美しい人と自分が釣り合うわけがないのだという先入観が邪魔して、遊びとして楽しむべき雰囲気が体の中で重みを持たずにすり抜けていくのに、心に靄だけが残っていく感覚があった。それでも彼が楽しそうにするから、私をあんな目で見てくるから、判断力の鈍った私はどんな軽口にも明確な拒否を突き付けることはしなかった。
食事を終え、時計を確認するとちょうど針が九時を指していた頃だった。名残惜しいとも、もう少し一緒にいたいとも言い出せないまま伝票に手を伸ばすと、ジャケットの袖を指で摘まれる。
「ねぇ、明日朝早い?」
「ん?いや、特に予定もないな。」
「そしたら俺の店でこの後飲み直すのとか、どう?」
甘い誘い、受け皿には素直に乗じてしまいたい自分とひどく酔いの回った浮奇をこのまま返すべきだと冷静になる自分が乗っている。それでも天秤は最初から平行ではなかった。酒に溶かされた理性は自分の意思を優先して、止めるものも何もないまま頷く。腕は軽く掴まれた瞬間から力が抜けて意志もなくて、わたしは導かれるままに足を運んだ。
静まった夜にドアベルさえ響かぬよう、まるで忍び込むように扉を開けた浮奇は、私を引っ張ってこの前のカウンターの席に座らせ、自分はいつもの位置に立った。
「何飲む?メニューに載ってないものでも作れるよ。」
「いや、この前と同じものが良い。」
「そんなに気に入ったの?」
そう言いながら嬉しそうにカクテルを作り始める浮奇を見つめるのは私たった一人だった。シャツから覗く火照る頸は彼の酔いを如実に表していたが、何度も繰り返されたであろうその手付きに相変わらず迷いはない。その器用な手の動きに頬杖を突きながら見入っていると、振り返った浮奇がグラスを二つ目の前に置き、カウンターを出て隣に座ってきた。
「今日は隣で飲ませて。」
そう言った彼は指の腹でグラスの縁を持ち上げ、私のに軽くぶつけてから一気に酒を煽る。
「ほら、ファルガーも飲も?」
口の端をカクテルで濡らしながらこちらを見てにんまりと笑う浮奇に、私も酒を飲むことしか出来ない。既に熱い体の中を度数の高いアルコールが下っていく感覚に集中することで気を逸らそうとするのに、目の前の人物はにんまりと笑ってこちらの心情を見透かすように見てくるので、視線を外すことも出来ず口に含んだ最後の一口を飲み込むので精一杯だ。
「おいしい?そんなに一気に飲んだら流石のファルガーでもきついでしょ?」
「…はは、そうだな。」
言葉の通り、飲み干した直後は視界が少し白んだし、喉はずっと熱い。浮奇が傍にいるだけで格好つけて嘘を言う余裕なんてなく、酔いは私に取り繕うための寸暇も与えない。それでも自分の両目はすぐそばにいる想い人を捉えて離さないので、深層心理の執着心に慄きながら彼をただひたすらに見つめる。カウンターに置かれていた手が浮いて、所作を目で追うとその繊細な指が目の前に伸びてくる。思わず目を瞑って待つも想像していた場所に感触はなく、恐る恐る瞼を開ける。眼前の半分を占める、視界をぼやかす前髪の一房を、奥から伸びてきたその手は指の関節で払うように掬い、そっと耳に掛けた。
「ファルガーってほんと綺麗な瞳してるよね。」
耳元を離れるかと思った指はそのまま私の輪郭を下り、存在を確かめるように顎まで指先で丁寧になぞる。見惚れるように私の瞳を覗く顔は煽情的で、頬に感じる柔い指の感触も相まって一気に体温が上がるのを感じる。そこからは一瞬だった。私は即座に、しかし壊さないように慎重に華奢なその腕を掴み、私の顔から引き離した。
「ファルガー…?」
「浮奇。こういうのはもうやめにしよう。」
戸惑う彼をよそに、持ち上げた腕を慎重にカウンターの上に置く。行き場をなくしたその手を見て困惑したままの浮奇に、拒否のような形を取って申し訳なく思う。悲しい顔をさせたいわけではない。だからこそ、今自分の口でこの感情を説明すべきだと分かっていた。
「…浮奇は、とても魅力的だ。外見だけじゃない、その声も内面も。」
確かに最初はその麗しさに心惹かれた。しかし、知り合って一緒に過ごしていくうちに愛しいと思う側面が次々と見つかって、会話の心地よさに会いたいと思う時間が増えた。今ではどこをもってしても確かな愛だと分かる。彼を愛しているのだと、迷いなく言える。
「浮奇のことが、本気で好きだ。だから、私を遊び相手だと思うなら今日で最後にしたい。……それくらい真剣なんだ。」
初めて口にする恋情に、きっと遊び半分の彼は気味悪そうな顔をしているだろうと思ったのに、現実の彼は顔を耳まで真っ赤にしながら目を見開いて驚いた顔をしていた。
「……声も好きなら、なんで俺だって気付いてくれないの?」
「え?」
「俺は会ってすぐ気付いたのに。ふぅふぅちゃんの嘘吐き。」
その声で本人さえ忘れていた名前で呼ばれ、一瞬にしてある記憶が脳の奥底からぼんやりと浮かび上がってくる。思い出すのは数年前の記憶。確かに、かつて聞いたことのある声色とトーンだった。
「…もしかして『うきき』か?」
「そうだよ、気付くの遅すぎ。」
いやまさか、と口では言っても耳はよく覚えている。数年前遊んでいたオンラインゲームのフレンドの中で最も仲の良かった人の一人だった彼は、まさに今目の前にいる、自分が好いている人物だった。当時ゲーム内のボイスチャットで聞いていたままの声が今、自分に話しかけている。
「俺は声聞いたときにふぅふぅちゃんだって喜んで、そっちも驚いてるから俺のこと分かってくれたんだって思ったのに違ったし。ゲームの話まで振って色々ヒント出したのに。」
「…それはすまない。話してて懐かしさはあったんだが、あの名前を呼ばれてやっと結びついたよ。」
当時フレンドたちには「ふーちゃん」というユーザーネームで呼ばれる中、「うきき」という人物だけが私を「ふぅふぅちゃん」と呼んでいた。彼が私にくれた名前で、私が彼だけに許した呼称だ。先にも後にもその名前で呼ばせた人物は一人としていない。当時かなり親しい間柄の「うきき」とは、そのゲームの突然のサービス終了と共に連絡が取れなくなっていたから、行方の分からないまま既に何年も経ってしまっていたのだ。
「それにしても、どうしてその場で言ってくれなかったんだ?そうしたら私も気が付いたのに。」
「…そりゃあね。でもそんなの悔しいじゃん。」
そっぽを向いて整えられた爪を眺めながらそう呟く浮奇は声色だけで分かるほど明らかに拗ねている。背けられた顔をよく見ると薄い唇はきつく結ばれ、目も潤み始めているから予想は確信に変わった。
「気付いてくれないなら自分で落とすしかないかなって。でもふぅふぅちゃん全然靡かないし。」
「あれは全部純粋なアプローチだったのか…?」
「そうだよ。…だって他にどうすれば良いのか俺知らないもん。」
少しずつ瞳に涙を溜める浮奇に、雫が一つでも零れる前にと早急にポケットからハンカチを取り出し渡す。いつもは持ち歩かないが、今日は浮奇と一緒だからと部屋をうろついている間の思い付きで持ってきたものだ。あまりいい状況ではないが、出掛ける前の緊張が功を奏した。
「今までこれで失敗したことなかったのに。一番好きになってほしい人には全然効かなくて、こんなの初めてで何すれば良いのか分かんないし…」
「失敗どころか大成功だ。出会ってから振り回されっぱなしで参ったよ。」
会った数回の中で散々心を揺らがされたときは毎度とんだ魔性の人だと思っていたが、それが彼なりの一生懸命であると分かると途端に警戒心は消え、愛おしさがどんどん湧き上がってくる。
隣に座る浮奇は少し恥ずかしそうにはにかんでいて、纏う麗しさの中にある、あの頃一緒にゲームをしていた頃の彼の雰囲気を見つけてなんだか懐かしくなるとともに、本当に本人なんだという実感が少し湧いた。
ふと、グラスを持つ手の袖を掴まれる。先程の遠慮がちな力加減とは違い、少しくらい強くしても大丈夫だという自信を感じる程にぐいぐいと引っ張られる。
「ふぅふぅちゃん、」
「なんだ?」
「手、握っててほしい。」
差し出される手を迷いなく取る。その存在を確かめるように少し指に力を入れると、浮奇は安心したようにはにかんだ。
「何か不安だったのか?」
「ううん、今は一緒にいるんだって感じたかっただけ。」
繋がれた手を幸せそうに見つめる彼に、初めて見た時得た美しさだけの印象はもはや感じなかった。ただひたすらに彼という存在が愛しくて、何も感覚を伝達してこない指に僅かに力を込める。いつかその熱を、この手で感じることが出来る奇跡を願いながら。
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数多の部品で構成された金属製の手を握りながら、思い出す出来事がある。
まだあのゲームが人気真っ只中で、当たり前の日常として二人で一緒に話が出来ていた頃。
何気なく、ふぅふぅちゃんが使っているスキンが気になった。人気なキャラクターでもなければ、彼のプレイスタイルに特に合った特性を持つわけでもない。単純に選んだ理由が気になったのだ。
「私に似ているんだ。」
いつもと同じ調子でそう告げる彼だったが、その時の俺はあまりの衝撃に何と答えたのか全く記憶がない。全身が鋼で覆われて、戦闘のダメージで見えるその中身も電気回路の入り組んだ配線ばかり、血肉なんて影も見えない体を持つキャラクターを自分と似ていると言うのだ。誰でも反応に困るだろう。
大前提、彼の人柄とそのキャラクターは全くもって似ていない。お喋りなところも、まとめ役で頼りになるところも、おちゃらけた部分があって沢山笑わせてくれるのも、あの無口な一匹狼ロボットには持ちえない彼自身の魅力だ。一緒にされたらこちらが怒る。
「驚かせたか?」
「それは…うん。でも、見てみたいなって。」
「なるほどな。期待させたなら悪いが、機械なのは腕と足だけだ。」
益々興味が湧いた。機械でない顔や胴の作り、どんな風に喉を震わしてその声を出すのか。どんな顔をして連携の上手くいった俺を褒めてくれているのかと、もう一つ。
「手も?」
「ん?」
「手も固いの?」
「そうだな、肌じゃなくて金属だからな。」
あの後いつだかあなたが教えてくれた、赤と黒で塗装されたという無機物の義手。写真でさえ見たことのないそれを、あなたと連絡が取れなくなってからというもの何故かどうしてもこの目で見たくなった。掌で包み、指先を滑らせて、生物とは相反する冷たさを感じて、それでも愛しい彼は生きているのだと、自分の隣で息をしているのだと、確かめたくなった。
今俺のを包む固い手は、ふぅふぅちゃんの優しさで辛うじて繋ぎ止められているものだ。このほの暗い水族館から出てしまえば離れていってしまう脆い結び。何か理由がないと手に入らないこの繋ぎ目をすぐになくしてしまうのが惜しくて、嘘でも手を離したいなんて口にしないと誓う。漂う空気と共に揺らぐ手の冷たさを手の腹でじんわりと温めながら、俺は目の前を涼し気に泳ぐクラゲを眺めていたのだった。