「…敵情視察かな」
何の為にだよ、と聞かれたので、一瞬迷ったのちに、そう答えた。
つい先ほどまで小宮の体を嬉しそうに見ていた張本人が、頑なに服を脱ぐのを拒んでいる。
「なんだよそれ…とにかくもういいから!この話は終わりで!」
「なんで?僕は見せたのに」
「別に君が見せてくれたからって、俺も見せないといけないといけないってことはないだろ」
「僕も参考にさせてよ」
正直、こんな押し問答に意味はない。
もう、トガシの体を今すぐ、絶対に見ると決めたからだ。
人間関係で大切なのは、ギブアンドテイクだと聞いたことがある。目の前のトガシに対し、いつもどこまで求めて正解なのか考えあぐねていたが、今回は大丈夫だ、先に見せたのだから。次は僕の番で間違いない。小宮は確信していた。
トガシも自分から始めた手前、どう躱すかを考えても見当たらないようだった。
「大体なんでそんなに照れるの?なんか顔、赤いよ」
「はぁ?!……もう分かったから!」
脱げば良いんだろ、
小宮くんって結構しつこいよな、ブツブツとつぶやくトガシの言葉はもう頭に入ってこなかった。
勿体ぶるようにゆっくり両手で服を託しあげるその仕草に、釘付けになったからだった。
瞬間、自分の鼓動が2倍にも3倍にも大きくなり、警報のように、痛いほど力強く、速く鳴った。
間違ってる、やっぱり絶対におかしい。
見てしまったら、戻れなくなる。見た後のことを考えていなかったことに今更気付く。
まだ、今なら気付かないフリが出来るかもしれないのに。
「ちょっ、ちょっとストップ!」
「え?」
「トガシくん、ちょっと待って、やっぱりいいから!嫌ならいいから、ごめんね」
与える方は簡単だ。でも、受け取る方は、怖い。本当に欲しいものに気付いてしまったら、それを手に入れてしまえるかもしれないのが、怖い。
「…はぁ?」
「…あの…ごめん…」
「…」
すっかり引いていた汗が、また額から吹き出してくるのが分かった。自分1人、まだ上半身裸なのに、暑いんだか寒いんだかも分からない。小宮はギュッと目を瞑り、こういう時に、気の利いたセリフが出てこない自分を呪った。黙り込んだら、余計に変だろう。
ただただ、この空気に耐えられない。目を閉じているのに、トガシの視線も感じる。
何か言わないと。そう思うと余計に言葉が出なくなる。
沈黙を破ったのは、トガシだった。
「…さっき、小宮くんの体、好きとか嫌いとかじゃ無いって言ったけど」
「…うん」
「今まで、小宮くんの走り方とか、傾向とか、レース展開とかさ。何度も見て、必死になって分析もしたし、分かったような気にもなったけど」
アスリートなら誰しもがやる。確率、計算。傾向、対策。当然、トガシの走り方、傾向、小宮も十分に把握しているつもりだ。
トガシだけでなく、トップ選手全員の特徴は、嫌というほど頭に入っている。
「知りたかったんだよ。小宮くんのことが。もっと。」
「…僕の走りが、じゃなくて?」
「うん。君。君、そのものが知りたかったんだ。体にはその人の生き方が現れるらしいよ。小宮くん、聞いても教えてくれなさそうだからさ。自分で調べるしかないかなって」
以前、トガシに言われた言葉が頭に浮かぶ。
人間、どこにも居場所なんか無いし、連帯も愛情も全部思い込み。
でも、自分の心だけは、理解出来る。
僕も、もっと君が知りたいし、欲しい。
この期に及んで、何を言葉にして良いのかまだ分からない。でも、目の前のトガシには、全部伝わってしまっている気もする。
受け取るのが怖いなんて言ってられないのだ。
気付いた時には、もう与えられているのだから。
「で、どうなの?俺の身体は。見たいの、見たく無いの」
視線で、トガシの輪郭を捉える。相変わらず、耳は赤いままだ。
その赤色を見ていると、ジワジワと腹の底から熱が迫り上がってくるのを感じる。
もう誤魔化しようもなく、君が好きだ、と思った。
それは確かに、スターティングブロックに足をかける瞬間に似ていた。
誰よりも早く、一歩目を踏み出すため、迅る鼓動を抑え込むように深呼吸をした。