人魚姫は死んだ 人魚姫はその声を封印して人間の脚を手に入れ、恋をした相手である王子様に会いに行きました。しかし恋はかなわず、自分を見てもらえなくても、違う世界を生きても、相手の幸せを願うことにしました。
――なんでやねん、もっと貪欲になれや。
「おすすめのステーション」とやらから適当な歌が次々と選ばれ、耳の中に流し込まれる。心を揺らす雑音をカットしたくて耳に突っ込んでいるイヤホンはいつもその役目を完全に全うしてはくれず、もう何年も前に聴いただけの合唱曲を突然流してきたりする。あの夏に歌えなかった曲。ピアノのイントロが、心を締め付ける。
あの選択を後悔しているわけでは決してないけれど、やはりどことなく居心地の悪さを感じてしまうのも確かだった。予備校に向かう電車の中、スマートフォンをポケットから出して早送りの操作をする。自分の十数年の人生とは関係のない曲が再生されたのを確認し、また、ポケットにしまう。
春休みの今、通学する学生もまばらな朝の電車。新入社員さんと思われるひとたちはピカピカのスーツに身を包みピカピカのカバンを携えて、緊張感を漂わせながらふつうの人生を生きている。新入社員さんじゃない人だって、いい意味でこなれたスーツを着込んで年季の入ったカバンを手に車窓から外を見ている。
傍から見れば僕もそのふつうの人生を生きている人間のひとりで、座席で歴史用語集をめくりながらリュックを膝に抱えたその姿を見ればきっと十人が十人、ああまた新しい受験生がこうして頑張る日々に突入したのか、なんて思うことだろう。それはある意味で正しい。正しいのだけれど。
ヤクザの男と過ごしたひと夏の鮮烈な思い出がずっとずっと消えないまま、いい加減忘れてしまいたいのに忘れられないでいる――なんてのは、僕しか知らないことだ。
高校に入り、歌うことはやめてしまった。両親をはじめ中学時代のことを知る人たちは残念そうにしていたけれど、そのうちだれもそのことには触れなくなった。
だって、もうあれ以上の歌は歌えないだろう、という強い確信があった。歌は心がこもってこそ人の心を打つのだ。今僕がなにかを歌ったとしても、あの日以上に強い感情を乗せることなど出来やしないだろう。過去の自分に勝てないとわかっていて、それでも頑張ろうだなんて思えるほど僕は強くはない。
なあ狂児さん。
心の中で呼びかける。あの夏から何百何千と繰り返したそのよびかけに、僕の記憶通りの声が頭の中で返事をする。なにい? 聡実くん。
今から僕予備校行くねん。エッうせやんもうそないな歳!? え~あんなちっちゃかった聡実くんが大学受験か~、頑張りや。
きっと僕にだけ向けていた賑やかで穏やかな声が、頭の中だけで響く。
ひとが最初に忘れるのは声、次に姿、そして触れた温度、最後に味と匂い、やったっけ。
それなら僕はまだ、なにも忘れてなんていない。気持ち悪い裏声も変にデカい喋り声も強すぎる顔面も威圧感すら抱く立ち姿も肩を抱く腕の温かさも贈られた苺の味も車に充満する香水みたいな芳香剤とタバコが混じったような匂いも、全部全部覚えている。
なあ狂児さん。今日、僕誕生日や。
十七歳やで。あと一年で高校卒業して、たぶん、大学生になってる。そんでたぶん、もうこの街にはおらんと思う。
あれから二年、あのカラオケ屋のこともずっと避けて生きてるような僕が、あちこちに狂児さんとの思い出が散らばった街でこれ以上生きていくのは結構しんどいねんで。
歌うことを封印したって、狂児さんのいる世界に僕は行けない。
幸せなんて願ったかて、もうそれが届くこともない。
そんなことは十分わかっているのに、忘れることさえできないままでいる。
声も姿も温度も味も匂いも全部全部忘れたくて、用語集を繰る。
イヤホンからは相変わらず、ヒットチューンが適当に耳に流し込まれていた。
滲む視界とすすった鼻は、花粉症にでもなったかなあと自分をごまかすことにして。
*
「――……とか思ってた時代もありましたよ」
「え、俺聡実くんのなかで王子様やったん? なんや照れるな~」
「都合いいとこだけ拾うのやめてください」
もし狂児さんが王子様だとしたら、僕のこの狭い部屋に足しげく通っては料理したりすべてを許して触れさせてくれたりはしないだろう。かといって、お姫様だなんて柄でもない。こんなでかくてうるさくて顔の圧が強いお姫様がいてたまるか。
そんなら僕が王子かっていうと、それもきっと違う。僕は自分の運命を変えた人間を別人と誤認したまま愛したりするような、不義理な男ではないので。
「まあいいです。もう過ぎた話なので」
洗濯機の音が鳴って、布団から立ち上がる。くしゃくしゃに放り出されていたTシャツとスウェットを身につけて、振り返る。
「終わったんでちょっと干してきます。狂児さんはまだ全然寝てていいんで……店の予約までまだ時間あるんですよね?」
「ありがとぉね、俺が汚したようなもんやのに。しかもお誕生日様に働かせて」
「いえ。汚させたの僕なんで」
「……おん」
返答に詰まったらしい狂児さんに背を向けて、洗濯機に向かう。中から引っ張り出した布団カバーをかごに詰め、窓を開ける。昨日までの真夏さながらの陽気が嘘のように、穏やかで過ごしやすい風が頬を撫でた。
声を封印してまで恋を叶えようとした人魚姫はもう死んだ。
あの夏に歌えなかった、そしてあの春には聴けもしなかった合唱曲を僕は、狭いベランダで布団カバーを叩きながら軽く口ずさむ。
背中越しに、ンフ、と柔らかく笑んだような吐息が聞こえる。
人魚姫は死んだ。
――というか、そもそも僕もあなたも人魚姫なんかになぞらえられるほど美しい生き様なんか選びたくないのだ。
美しくもないしあきらめも悪い、離れた方がいいことをわかっててもそれでも互いの手を取った、貪欲で愚かなふたりだけれど。
人魚姫なんかではないから、僕は歌える。
好いた相手に、自分を見てもらえる。同じ世界を生きて、お互いの幸せを祈り合うことができる。
もうそれでええわ。それがええわ。それ以外のなんもいらん。
普通の人生からはどんどんかけ離れていくけれど、どうしようもないけれど、ほんとうに心から、そう思ってしまう。
今日になってから何度となく贈られた祝いの歌がまた背後から聞こえて、何度目やねんと苦笑しながら振り返った。