十分後にはふたりきり抱き合って「――ほんでしゃあないから百均飛び込んで適当なのど飴買うたらアホみたいに辛くてな、こらアカン! て水飲んだら口んなかキンキンになってもうて」
「はあ」
おすすめメニューの「鉄板で作るだし巻き卵」とやらにざくりと箸を入れて口に放り込む。アツアツのそれをハフハフと堪能しながら、隣で続けられるどうでもいい話に適当に相槌を打った。
平日の夕方、まだ混み始める前の立ち飲み屋。学生にはうってつけだけれど、これまでの人生そこそこの生活水準で生きてきたであろう男には馴染まないだろうかと思いながら立ち寄ったものの、意外に気に入ってもらえたらしい。下戸らしく烏龍茶にお通しのナムルからスタートした机には、二杯目の烏龍茶と数本の串モンの名残と食べさしのもつ煮込みが乗っかっている。どうやらもう締める気らしく、数分前に注文していた茶漬けがカウンターの向こうからコトリと置かれた。
「いやホンマに鼻通るどころやなくてな、びっくりするで絶対。いっこ舐める?」
「絶対いりません」
先日無事に二十歳を迎えた僕の手にはハイボール。どうやらそこそこ飲めるようだと気づいてからは、どんなものが好みなのかを探求する方にシフトしている。甘いのよりは甘くないほうがいいらしい、そして炭酸のが飲みやすいらしい。今のところはそんな感じ、と狂児さんに伝えたら、「まあ好みなんて年重ねたらどんどん変わってくモンよ」と下戸のくせに知ったような顔で笑われたのでうっかり「死んでください」を言いかけた。この親子ほど年の離れた男を好きになってしまったと自覚して、さらに紆余曲折の末にどうやら狂児も僕に捕まってくれたらしいと認識してからは封印している、不幸を願うようなことば。
「え〜嫌や、あれ誰かと共有せな気が済まんで? ええやろ? 毒でもクスリでもないねんから」
「そういうスレスレのこと言うのやめません?」
いかにもなブラックスーツとオールバックをやめて、左右に振り分けて下ろした髪とざっくりとしたニットの中に淡い色のシャツを着込んでいる狂児さんは、こんなスレスレのことさえ言わなければまるきりお洒落な服屋の店員さんのようだ。似合うてるか似合うてないかで言うと、嫌味なほどに似合うてる。
僕は三本目のレバカツにがぶがぶと噛みついて、ポテトフライに手を伸ばす。揚げ物ばっかでよう平気やな、とこぼれた声はからかうというよりも若さを愛しむような響きを持っていて、ああわりとちゃんと愛してもらっている、という実感につながっていく。
レンゲを手に椀の中身を掬ってふうふうとその中身に息を吹きかけた狂児さんが、はく、と茶漬けを口に運ぶ。すぐに、子供の頃から慣れ親しんだお茶漬けのもとの香りがふわんと漂った。
「聡実くん、ごはんものはええの? 腹いっぱいならんやろそれやと」
「ここTKGか茶漬けの二択ですよ。家で食べれます」
「それを店で言うのはルール違反ヨン」
「……」
たしかに。
「あっまたそういう顔する」
「そういう顔って」
「『いっちょ前に説教しくさって、お前仕事考ええ』って顔〜」
昔と変わらんな、と笑う狂児さんの皿からもつ煮をひったくって口に入れる。
「あっどろぼうや〜、悪い子やな」
「悪い大人に言われたないわ。てか別にそんなこと考えてないし、もう子供ちゃうし、昔とも違うし」
ガメたもつ煮を咀嚼して飲み込み、ついでにハイボールを空にする。
悪い大人と純真な子供だった時期はとうに過ぎ去って、今はこうして肩を並べて食事をすることを誰も咎めない。まだ問題は山積みだけれど、きっとどうにかなる……と、僕は信じている。そのための道を、今、僕は進んでいるので。
「狂児さん、今夜帰るん?」
「明日でええってことにした〜」
「それ、ほんまは良くないやつやろ……」
はあ、とため息を付いてちらりと横に視線を配る。はふはふと茶漬けを冷まし続ける横顔の、顎のラインにひとつぶのお米が貼り付いていた。
(……なんや、思い出してしまうな)
十八を迎える春の日の空港で僕の口元に手を伸ばして米粒を取ってほいと投げた指先が、今は僕の隣でアツアツの茶漬けの椀をおっかなびっくり支えている。どう考えたって不自然なのに不思議としっくり来る、この関係。
運命っていうのがもしあるんなら、それは僕にとって成田狂児の姿をしているんだろう。ちょっとだけ回り始めたアルコールのせいか、どうにもセンチなことを考える。
「狂児さん」
「……ん? なに? 聡実くん」
僕の方を向いた狂児の顎にはまだ米粒がついている。
指を伸ばして、すいとそれを奪い取った。
「米」
いつかの仕返しのようにポイ、と投げてやろうかと考えて、やめる。かわりに舌を出して指先を舐るように入れて、ちいさな米粒をこくりと飲み込んだ。
狂児さんが目を見張り、息を呑む。一滴の酒も飲んでいないというのに、その頬がかすかに赤く染まったように見えた。
「……は〜……いつの間にそういうことするような子になったん……」
「多分、狂児さんと居るようになってからですね。他の人にする意味もないんで」
「…………」
すっかり無言になって茶漬けを食べる手も進まなくなってしまった狂児さんの横で、レバカツの最後の欠片をかじり取り、咀嚼して飲み込む。この後の予定を考えて、逸る気持ちといっしょに残ったポテトフライをつまむ指がせわしなく動く。狂児さんの茶漬け以外の皿がすっかり空になったところで「お会計を」と声をかければ、待っていたのかすぐに店員さんがやってきた。
店の時計を見上げる。十八時三十八分。店の外では、数人のグループが席待ちをしている。
「……狂児さん」
「なに?」
「ここ出たら僕の部屋でいいですか」
「……いけずやなあ、聡実くんは。あの部屋でなんもでけへんやろ」
違うとこのほうがええわ、とかすかに笑った狂児さんが、僕の手を取った。