かわいくてかわいくていとしくていとしい 十代の恋人、という存在についてだけなら、実はそんなに罪悪感はない。そもそも親父からして――マサノリのおふくろさんはそれなりの年齢やけれど――カツ子姐さんを見初めたのは彼女が十代の頃と聞いているし、周りの同世代の奴らも干支一回り下あたりからそれこそ自分の娘でもおかしくないような年齢の女を、それぞれ妻にするなり、囲うなり、している。特定の相手がいなかったのは組の中でも実は自分くらいのもので、まあ俺はそもそもあらゆる点でどっか普通とズレてるとこあるし、ヒモ時代も別に愛情とか持ってやってたわけと違うし、誰かを恋しいとか触れたいとか思うようなタマちゃうんやろな、なんて思いながらの二十年。
いやもうそんなんとんでもない大間違い、青天のヘキレキ、ただ生後十日にして狂い始めた歯車と同じように、運命の相手も大きくズレた年齢に設定されてしもてただけなんと違うやろか、ということに気づくには少し時間がかかった。可愛がりたい、側にいたい、きっと会わせてもらえない甥っ子姪っ子の代わりに愛情をかける真似ごとがしてみたいだけやし、とまっとうな理由を捻り出して自分をだまくらかして、声をかけて呼び寄せて口実を作っては何度も何度も顔を合わせた。狭くて冷たくてしょうもない殺風景な部屋で数年を過ごしてもなお、心の一番深い場所に染み込んで消えない最後のソプラノ。あの微かに淡い色をたたえるまっすぐな瞳が俺のために涙をこぼす、その愛しい表情も。
三年もあったら忘れられると思うやないですか。シャバに出て、親父への報告の席でこれを一言こぼしたのが大間違い。出所後、最初に出た晩秋の大会では親父の仕込みでアニキと曲被らされて見事に歌ヘタ王、三年の月日で多少はマシになったと噂の刺青テクニックを体験する羽目になった。針をグサグサと刺されて奥歯噛み割る勢いで耐えた(誰やマシになったて言うたの)その果て、目にした図案に、否、文字に、体の痛み以上に心がどくどくと跳ねた。お前が一番怖いもん彫ったったわ、とニヤつく親父の顔を鮮明に思い出す。ずくずくと痛む腕でまだ伸び揃わない髪をぐしゃぐしゃと掻き回して唸ってうなだれる俺を笑う声も。それこそ、ロケット花火千本どころか一万本でも射ち込んでやろうかと思うくらい、図星をついたことを確信したようなケッタクソ悪い笑い声。
今回の大会、はじめっから俺にこれ彫る気でおりましたやろ、と呟いたら、こんなあからさまな八百長に気づかんくらいお前がイカれてる証やろ、そんなふうにはぐらかされてまた笑われて。手ェ出したカタギ相手に筋通されへんアホはよういらんからな、なんて、まるきり脅しのような叱咤激励。何の話ですか俺なんもしてませんで、うそつけあんな乗り込み方してきた子ォがお手つきナシとかあるかいな、いやそれがあるんですわそういう子ですねんの押し問答の果てに頂戴した、「お前このまま手ェ引くか囲うか、よう選べよ」は重かった。
そこからの、彼との濃密かつ駆け引きめいた一年の長さたるや。駆け引きめいた、と称するのは振り返ればまるでそうとしか言えない経緯を辿っているせいだけれど、実際はそんなものではなかった。俺がこの稼業のまま彼と一緒にいることがどんな意味を持つのか、そんな答えのわかりきった命題に振り回されて、離してあげるのが一番ええに決まってる、普通に生きていくならもう会わんほうがええ、俺も彼も理性ではそれを理解して、けれど感情が否定し続けて冬が来た。彼の決めた、別れの期限だった。
そやのに時が来てみれば妙にさっぱりとした顔で、「ふたり揃って三年経っても忘れられへんかったし会いたかった、よう考えたらそれがもう答えやないですか。もう諦めました僕、どうせ将来のことなんて今考えたかて完璧には分かれへんのや。どっち選んだって将来後悔するんやったら、今、僕は狂児さんに触れられるところにいたいと思う」なんて言うから、なあ聡実くんどんだけ肝座ってんねん、写真撮られて怖気付いたんと違うんか、そないにいじらしいことヤクザもんに言うたらアカンやろ、いいようにされるのがオチやで。親父から手ェ引くか囲うかの二択しか与えられてへんのよ俺。君の明るい未来をメチャクチャにしてもうても何も責任取ってあげられへんのやで、アホやな、お勉強できても台無しや。親御さんになんて言うん? そんな支離滅裂で情けない弱音をこぼしたのはもしかしたら生まれて初めてで、聡実くんはそんな俺を目の前に、小さく息をつくと手をすうと伸ばして俺の腕をそっと撫でた。右腕の肘よりもすこし先。そこにあるのは、たった一年ですっかりと馴染んでしまった、俺にとっての天使の名前。服に隠れて見えないはずの、そしてたった一度しか見ていないはずのそれを、彼はゆびさきで正確になぞった。
そして、「せやかて、狂児は僕のなんやろ?」とうすく微笑むんやからもう、無理。白旗待ったなしの大負けや。
それが、三ヶ月前の話。
月明かりと瞬く街灯に照らされながら古ぼけた階段を静かにのぼり、ポッケに忍ばせてきた合鍵をそうっと差し込む。
果たして、誰かに流されることなく、流れに任せるでもなく俺が俺の意志で初めてくだした人生のジャッジは、二回り以上も年下の少年の手を取って生きる、というヤクザもんどころかただの四十男としても正気の沙汰とは思えないものとなった。前途ある若者の明るい未来を棚上げしてこのぬるま湯に浸ることについて罪悪感がないわけではないけれど、彼のちっさハウスの本棚の中には元々並んでいた民法刑法にくわえて法文化論に犯罪学、犯罪者処遇法となんとなしどころか強い思惑を感じるラインナップが揃い始めてきていて、それが彼の出そうとしている答えの一部なんかなぁとなんとなく思う。俺が手を引くか囲うか。その二択以外の道が、きっとその先にある。この子には多分、それが見えている。
もちろん、この子にばっかり考えさせて働かせて大人としてどないやねん、と思わなくもない。ないけれど、俺よりも彼が舵を取って進む方が、多分、うまくいく。今はまだガタつきながらも着実に動いている彼の人生の歯車に、上手に俺が組み込まれていけばいいだけの話なので。そして俺自身、そうすることをこころから望んでいるので。
そっと、音を立てないようにドアを開ける。すぐに全容が見渡せる、小さな、そして静かでシンプルな部屋。カーテン越しの月明かりの下、薄っぺらい布団にうずくまりすやすやと眠る彼を見る。おそらくはあの貯金のために働き詰めていたせいで、薄くクマの染み付いている下瞼を指先でなぞった。瞬間、ひくんと眉毛が顰められて、ゆるゆると色素の薄い瞳がひらいていくところを見守る。
「……は? きょ……なんでおんねん……」
「合鍵くれてんからつれないこと言いなや〜。お仕事ずっと頑張っててんけどもう聡実くんに会いたくて会いたくて震えてしもうて、キリついた〜てなった瞬間気づいたら蒲田来てたわ」
「も……うるさ……アホきょうじ……」
言葉とは裏腹にぐいと伸びてきた腕が、うすっぺらな布団に俺を引き込んだ。部屋を満たすまだ冷たい春の夜の空気に代わって、布団の中のぬくもりと聡実くんが俺を包む。窮屈な腕をああでもないこうでもないと動かして収まりどころを探していたら、にげんな、ってとろとろの声と力強いハグと、かさついた唇がさらに追加された。
やっぱ狂児ええにおいするなあ、と眠気に溶ける声で囁かれて高鳴る胸に、年甲斐もなく恋をしていると思い知る。額に流れる黒髪、若者らしいすべらかな頬、そして閉じたまぶたを縁取り飾るまつげ。メガネがない分よく見えるそれが微かな光を反射して艶めくさまを、抱きすくめられたままじっと見つめる。
なあ聡実くん。俺、君のことがかわいくてかわいくていとしくてたまらんのよ。この稼業ならさして珍しくもない、十代の恋人。せやけど、そのかわいさいとしさはかつて親父やアニキたちが感じてきたであろうそれとは、絶対に違うものだと言い切れる。
世界でたったひとりのかわいいこども。同時に、世界でたったひとりのいとしい男。
行き止まりになりかねない道をぶちこわして踏み越えて、俺の手を取って進んでいこうとする無鉄砲さが、理性ばかりの杓子定規な選択肢を選ばないことに胸を張れるしなやかなその魂が、そしてすべてを任せられると根拠なく思えるその心根の強さが。
すべてがかわいくて、すべてが、いとしい。