無題「好き」とは一体なんなのでしょうか。
自分自身でも分からない感情の答えを求めて手当たり次第に聞きまわっても正確な答えは見つからず、でも「ただ好きで、それを伝えたいという感情の発露」という、最初に辿り着いた回答にはどうしたって首を縦に振ることができずにいます。
これまで僕の周りでひそやかに飛び交い、または堂々と交わされてきた「好き」はもっと生き物としての本能というか即物的なものがほとんどで、だから僕は僕の中にあるこの気持ちを「好き」としてカテゴライズすることができずにいるのです。高校時代に遡れば修学旅行の夜、恋人に会いに行った同室のクラスメートや、今も講義の最中に手を取り合って抜け出していく同級生。そして夜半にはまだ早い時間、宿泊までの時間つぶしをしているであろうバイト先によく来る、ボックス席でべったりと隣り合って座るカップル客。どの例を取っても「好き」が生むその衝動は、最終的には公共の場で出来ないことをしたい、そんな即物的なものです。もっとはっきり言えば、それはきっと性的行為につながる「好き」です。けれど僕の中にある感情は、きっとそこには繋がっていません。
好意はきちんと伝える、と豪語するタイプの友人がいますが、彼がしばしば示す好意は今僕が思い悩むに至っている「好き」と同じではないことを僕は知っています。好きなバンド、好きな漫画、好きなキャラクター。それらは確かに「好き」ではありますが、僕が今、自分が持てあまして名前を付けられずにいる感情と同等かどうか疑っているそれとは、種類の違うものです。もっとシンプルな好意でしょう。
では僕の中にある何かがこの友人の示す好意と同等の感情なのかというと、それもまた明確に違う、と感じています。
どういう関係なのかわからない間柄。突然声をかけられてまるで現実味のない日々を共有したかと思ったら突然連絡が取れなくなり、何年も経ってからまた唐突に目の前に現れ、さらに現れたかと思ったらその腕には僕の名前が入っていたのです。一体これにどういう感情を抱けばええねん。行動の原理が分からなさすぎて、その謎に翻弄されていて、シンプルな好意ですら抱きようがないのです。
ないのに、僕の中にある感情は「好き」だと、また別の友人は言いました。彼女の言う「好き」は、きっとこれまで僕の周りで交わされてきた本能的、即物的なものとよく似たものです。
ただ彼女が言うには、好きでもない人に価値のある行動などはしないんだそうです。二十歳以上も年下の、たかだか十八歳の、特に面白みもないただの学生の男が与えるハグに価値なんてあるのかどうか分かりません。けれどここへ至るまで約四年間、僕は突然目の前に現れたあの男に歌を教え、中学三年間の集大成を蹴って最後のソプラノを使い果たし、高校三年間はずっと頭の中から消えてくれないマボロシに囚われて戻らない青春時代を浪費し、今もプレゼントと称した貯金をしている。考えてみれば、その時々の僕にとって価値のある事ばかりです。
けれどそう考えてしまうと、あの男は腕に消えない名前を刻み、僕が旅立つ日の空港に姿を現し、今も特に見返りなどないであろう食事を――一品三千円を超えるようなメニューでさえ、僕が請えば何の逡巡もなく注文してくれる――奢ってくれるのです。二百万を超える時計すら、僕に渡そうと手放してしまうのです。
これを僕は、あの男にとって価値のある行動だなんて思ってはいません。ただ単に金銭感覚が違う、褒められない手段で手に入れたお金の、数ある使い道のひとつだとしか考えないようにしています。
なぜならそう考えていないと、とんでもない結論が導き出されてしまうのです。
あの男が僕をどう思っているかに、その行動原理に、名前がついてしまうのです。
そしてそれはきっと僕の中にあって名前がつけられないでいるそれとは違い、きっと僕が認識している「好き」と同種のものなのです。生き物としての本能。即物的な行動に直結する感情。そういったたぐいのものです。
そしてもし仮にそうだとして、想像をします。
あの隈の浮いた真っ黒な瞳が僕を見て、低く絡めとるような声が僕の名前を呼び、熱を帯びた響きが僕に向かって「好き」を紡ぐことを想像します。
そしてすぐに、これを想像してはいけなかったと深く後悔しました。火照る顔を両手で覆い、机上に広げたテキストの上に突っ伏しました。
とても耐えられませんでした。
今この瞬間、僕の中でこの感情に明確に名前がついてしまったことに、もう、耐えられませんでした。