愛車の洗車を終えた嶺二が冷房の効いた部屋に戻ると、ソファーでは蘭丸が真剣な面持ちで紙資料と向き合っていた。肩越しに確認できる紙のレイアウトを見るに台本であると分かった。嶺二は、シャワーを浴び汗を流し、着替えを済ませてから、リビングに戻る。そっと蘭丸の後ろに立ち、台本を覗くと、視線に気づいた蘭丸が振り返った。ギロリとした鋭い視線にギョッとなり、思わず嶺二は上体を反らせ「邪魔してません!」とアピールするような態度を取る。
「嶺二、ちょうど良いとこ来た」
「え、え?」
蘭丸は身体を捻り、持っていた台本を開いて嶺二に見せる。嶺二は台本を手に取り、じっと見る。それは蘭丸が今出ているドラマの次の撮影分のものだった。
「そのシーンの掛け合い、ちょっと練習してぇから、マーカー引いてないほう、本読みしてくれねぇか」
手にした台本から顔上げると、嶺二はキラキラと目を輝かせた。
「珍しい……! ランランがその手の頼み事をぼくちんにするだなんて……!」
嶺二は台本を持ち、蘭丸の座るソファーの隣へと勢いよく腰かける。指定された役の台詞を追い、紙を捲る。二人の登場人物のみによる、討論のような対話の応酬が、A4用紙三枚半まで続いていた。そのボリュームに、嶺二は思わず息を呑んだ。
「……これは確かに難関かも。自主練するよか、誰かに相手役をやって貰わないと、ちょっち厳しい感じするね」
「だろ。それにこの相手役が……おまえもよく挨拶してる、某落語家俳優」
「どひゃ〜〜! ベテランじゃん、余計難関だよ! そりゃあランランも昼からずっと台本と睨めっこしてるはずだぁ!」
QUARTET NIGHTで取り組んだ『ファウスト』での熱演が功を成し、芝居の仕事も増え、その仕事一つ一つも、ある種の《期待》を蘭丸は感じていた。『ファウスト』では、嶺二演じるメフィストとの「駆け引き」の場面を筆頭に、感情表現はもちろんのこと、発声や台詞回しといった基礎的なテクニックも鍛えられた。新しい芝居に向き合うにも十分な経験が、今に繋がっている。
そして今、蘭丸が向き合っているドラマの一場面は、『ファウスト』でも繰り広げられていたような、一対一の口論のような対話場面。緊張感が高まる、気の抜きようのない場面だ。加えて、本番の相手は、話術の達人とも言える落語家俳優だった。蘭丸は深呼吸をし、嶺二の台本の黙読が終わるのを待つ。
「……ぃヨシッ! 概ね話の流れはわかったからいつでも来い!」
* * *
本読み練習を何回か通し、気づけば太陽は夕陽へと変わっていた。蘭丸は漠然とした不安感が払拭できたようで、背伸びをしてからぐたっとソファーの背もたれに、背中いっぱいを預けた。
「だいぶ良い感じじゃない? あとはドラマだからある程度の声は拾ってもらえるだろうけど、ランランの声はどちらかと言うと沈みがちだから、気になったのはそのぐらいかな?」
「的確なアドバイスまでありがとな」
嶺二は蘭丸に台本を返し、蘭丸のほうに身を乗り出す。
「あくまでぼくの感想だから。実際のとこは現場の人たちにお任せだよーん」
「おう」
台本が蘭丸の手元に戻り、嶺二も両腕を上げて背伸びをする。
「オンエアが楽しみだな」
「期待しとけ」
いつになく柔らかい笑顔を向けた蘭丸に、嶺二は思わず笑みが溢れた。カーテンから差し込む夕陽が、嶺二の栗色の髪に橙の彩度を加える。
「いつの間にか時間経っちゃったねぇ〜夕飯ついでに外食でもする?」
「外あちぃだろ。今日はもうパスだ」
「それは正解。とてもじゃないけど、外はもう懲り懲りって感じだったよ」
「今日洗車するとか馬鹿かと思ったぜ?」
「今日ぐらいしか無かったんだよん、ぼくちんも忙しいからさっ」
嶺二は立ち上がり、キッチンへと移動する。蘭丸はソファーに座ったまま、カウンターキッチンから見える嶺二の姿を追う。
「飯なら……この間買い溜めたやつとか、インスタントとかはあったよな」
冷蔵庫を確認すると、蘭丸の記憶通りの買い溜めた物や、昨日の夕食の残り物が並んでいた。
「うん。とりあえずランランがお腹空いて困る〜! なんてことは無さそ。もうちょっとしたらご飯の準備しよっか」
蘭丸は「おう」と返答をし、壁掛け時計に目を向けた。嶺二が冷蔵庫を開けたついでに、冷凍庫を開けると、中に未開封のパピコは一袋あることに気づいた。
「あ、ランラン今小腹空いてたりしない?」
「ん、まあ多少は」
「じゃあタイミングバッチリ〜っと」
嶺二はキッチンからリビングへと移動し、パピコを開封する。二本組のパピコを分け、片方を蘭丸の白い頬に当てた。
「はいっ」
「つめたっ」
「今日頑張ったランランへのご褒美だよ〜ん! シェアパピ〜?」
避けようとする蘭丸の頬をお構いなしに、グリグリとパピコを当てると、蘭丸はそのパピコを奪い取った。
「そんな謳い文句だったか? これ」
「あれ? そだったっけ?」
「どーだか」
蘭丸は、同じように手に取ったパピコを、嶺二の頬に押し付ける。嶺二は目をぎゅっと瞑り、冷たさを感じ、けたけたと笑う。
二人はまたソファーに並んで座ると、パピコの食べ口を開け、その冷たい甘さを頬張った。