スマートフォンを眺め、上から下へと情報を流し読みし、時折、今度のドラマの台本を出して読んでいたら、なんだかんだ10分、15分ぐらい経っただろうか。嶺二は、向かい側に見える《アイドリングストップ》の掲示板に、それとなく罪悪感を思い、エンジンを切って、車から出た。屋内駐車場特有のこもった空気が身体を包む。エンジンの切った車内と、どちらがまだマシかと決め難い環境であったが、座り続けてもしょうがないので、車外に出て身体を伸ばしてみた。
蘭丸と同じテレビ局での撮影の仕事。蘭丸が、別件の打ち合わせがあるとのことで、終わり時間が多少ズレると聞いていたが、折角同じ場所にいるということならと思い、彼の仕事終わりを待つことになっていた。彼の送迎がある時期からの日常となっていたが、今となっては帰る場所が同じだからという理由もあった。もはや二人の関係は、公然の秘密と化している。すっかり互いの存在が、当たり前の生活になってしまったことに、ふと物思いに耽ることがある。それが例えば、今だ。
* * *
「ランラン、すっかりぼくんちが好きになったね。いつの間にか、自分のテリトリーみたいにくつろぐ猫ちゃんみたい」
その言葉を聞いて、リビングのソファー座り、ベースを持っていた蘭丸は、弦を弾いていた指を止めた。目を細め、口をムッと閉じ、嶺二のほうに向かってくるりと顔を向ける様は、猫そのものだった。ストラップを肩から外し、ベースを床に下ろして立ち上がる。ダイニングテーブルにいた嶺二も思わず立ち上がり、蘭丸に駆け寄る。
「もー! ランラン拗ねないでってば!」
嶺二と正面に立つ蘭丸は、先ほどまでと表情を一切変えることなく、嶺二を見下ろしている。それは、普段の苛立ちでも、呆れでもなく、いつになく肝の座った真剣な眼差しだった。
二人の関係は、何かをきっかけにその関係を深めたわけではなかった。「いつの間にかそうだった」それ以外に当てはまる言葉がない。それが良いのか悪いのか、おそらくどちらともでもあるが、とにかくお互いが空気のように当たり前にそこにあるからこそ、関係が進展していったと言わざるを得ない。初めは気遣いだった送迎が、気遣いだった弁当の提供が、気遣いだった自宅への泊まりが、当たり前の生活になってしまった。それ以上の関係も、踏み込みつつある。互いの体温に触れ合ったこともある。しかし、この付き合いには《契約》がない。いつだって簡単に終わらせることができる。宣言する必要もなく、フェードアウトしてしまえる、都合が良いだけの関係。……ああ、勝手に甘えてしまってるんだ、この脆い幸せに。
「おまえが嫌なら、それでも良い」
――それでも。この脆い関係を終わらせても良いってこと。いいよ、それでも、君が望むなら。惰性なってしまう前に。
「ランラン――」
「でも」
蘭丸はその瞬間目を逸らし、口元をその大きな掌で押さえた。
「……あー、そうだよな。これもある意味けじめってやつだよな」
けじめという言葉に息を呑み、嶺二はどこか落ち着きのない蘭丸をじっと見つめる。
「おれが、おまえと一緒にいてぇんだ」
蘭丸は嶺二の手を取った。嶺二は思いもよらなかった言葉に、しばし茫然とした。動揺し、上手く目も合わせられず、顔を下に向ける。……ズルいな、君は。カッコ良すぎるんだよ、眩しすぎるんだよ。それに、若干の恥じらいのあるその目元が、可愛くて仕方がない。ぼくも、一緒にいたい気持ちは同じだよ。だけど、ぼくはそんな素直に、君みたいになれない。君みたいになれたら。
数分間、沈黙が続き俯いたままの嶺二は、それから何も言うことが出来なかった。蘭丸は、俯いた嶺二の頭に掌を優しく被せた。
「返事だけ欲しい、待ってっから」
そう言って、ベースをケースに収め、荷物をまとめた蘭丸は、嶺二の家から去った。
* * *
――あの頃の出来事を《思い出》として物思いに耽られるようになるぐらいには、時間が経った。紆余曲折あった二人の関係は今も続いている。もし、あの時、蘭丸があの話を切り出さなかったら……? 二人の関係は糸屑のように散り散りになってしまっていたかもしれない。……いや、あのランランがそんな風に出来るとは思えない、ぼくじゃないんだから。
スマートフォンの画面を点灯し、時間を確認する。聞いていた時間からは、随分と時間が経っていた。屋内駐車場のこもった空気の環境のせいで、首周りにじんわりとした汗が滲み、喉の渇きも出始めてきた。局内の待機室なり、休憩室にいるでも良かったと今になって後悔し始める。嶺二はその場にしゃがみ込み、大きなため息をつく。そして、ふと思い出したように笑みが溢れる。……ほんとに、生活の一部になっちゃったんだな、君という存在がぼくにとって。
「なぁに、一人でほくそ笑んでんだ」
聞き慣れた声が頭上から降ってくる。ハッとなり見上げると、冷たさが頬を撫で付ける。500mlペットボトルの水を、嶺二の頬に当てる蘭丸が立っていた。
「悪ぃ、言ってた時間よりだいぶ延びた。それはその詫びだ」
「ランランってば気が効く〜! ちょうど喉がカラカラ〜って思ってたところだよ〜! サンキュー!」
嶺二は頬に当てられたペットボトルを手に取り、勢いよく水を飲む。仕事が長引いたことで、やや疲労感が伺える横顔を見つめる。
「ランランも飲む?」
そう言ってペットボトルを差し出すと、嶺二がすでに口を付けたことを特段気にもせず、ペットボトルを受け取り、水を口に運んだ。そしてまた、当たり前のようにペットボトルを嶺二に返す。
「じゃあ、帰ろっか」
「おう」
嶺二は運転席に、蘭丸は助手席へと、それぞれ車の扉を開けて中に入る。シートベルトを装着し、嶺二は車のキーを差し、エンジンをかける。ふと、隣に座る蘭丸の横顔を横目に見る。汗に混じって、自分とは異なる香水の香りがふわりと車内を漂う。……あの頃とは違う、確かな関係で当たり前を共有し合える、君という存在。それがぼくにとっては幸せで、愛おしくて、それで……
「ぼく、ランランと一緒にいられるのが好きなんだ」
助手席で目蓋を落としかけた君は、ぼくのその言葉を聞くと、安心したように微笑んで目を閉じた。