真夏のアスファルトは、ジリジリとした太陽の熱をたっぷりと含み、熱気を押し上げる。上からも下からも暑さが攻め上げ、何故自分の交通手段が自転車なんだと自問自答する。好んで選んだから仕方ないにしろ、今日ばかりはミスだったと後悔する。そんな暑さを予期していたからこそ、午前の比較的涼しい時間帯を選んで、外出したものの、目的地に着いた頃にはなんだかんだ昼間が近かった。脳天を照りつける太陽は、ステージライトよりも強烈だ。
蘭丸は目的地に辿り着き、自転車を敷地内に立て掛ける。寿嶺二が住む、マンションにの入り口の前に立ち、インターホンを鳴らす。メインエントランスから、玄関先に移動すると、まるでタイミングを予期したかのように扉が開かれた。栗色の丸みを帯びた髪が目の前を揺れる。
「おかえり〜」
嶺二は満面の笑みを浮かべ、目の前に立つ蘭丸の顔を見上げた。蘭丸は被っていたキャップとマスクを外し、口を開く。
「そこは『いらっしゃい』だろ」
「えー、自分ちみたく使ってたでしょ〜?」
この数週間、嶺二が出演する舞台の地方公演の関係で自宅を不在にしていたこともあり、蘭丸は自分のアパートでの生活をしていた。そして、嶺二の言葉通り、それ以前は嶺二の自宅にいる時間のほうが多い期間もあった。数週間ぶりの嶺二の家、もとい、もう一つの家への帰宅と言っても過言では無かった。
「なんか綺麗になってんな」
「せっかくランランが泊まってくれるからね。ちゃあんと掃除もしたし、模様替えだってしてみたんだよん?」
地方公演を終え、都内に戻って来たのが数日前。この数日間にも、撮影や取材、打ち合わせもあったので、掃除はともかく、いつ模様替えが出来たのか、蘭丸は暫く部屋を見渡した。ソファーや棚の位置、嶺二好みのレトロな飾り物が変わっており、いつかの日に買おうと言っていたインテリアライトがソファーの隣りに立っていた。
「ご苦労なこった」
冷房の十分に効いた涼しい部屋に佇み、蘭丸はホッとひと息をつく。その周りで、嶺二はちょこまかと慌ただしく動く。玄関からリビングまでを、蘭丸にちょっかいを入れつつ移動したと思いきや、カウンター式のキッチンにそそくさとまわり、料理の準備をし始める。リビングで真新しいインテリアライトを覗く蘭丸に向かって、嶺二が忙しなく声をかける。
「もう十二時近いし、お昼にする? 冷やし中華作ってるとこなんだよ。お肉マシマシできますよ〜ん……あ! 先にシャワー浴びて来なよ。ここまでチャリンコで来たんでしょ? 汗流して来なよ。タオルも新しいふっかふかのやつあるから〜今治タオルだよ〜」
「忙しない奴だな」
嶺二はそのまま脱衣所に移動して、バスタオルを用意し、よく通る自慢の声で返答をする。
「だってだって、今日が楽しみだったんだから」
「じゃ、シャワー借りるわ」
蘭丸は、何かと用意周到な嶺二に流されるまま、脱衣所へと向かった。シャワールームへと移動し、頭からぬるま湯を浴びると、ふと数日前の出来事が脳裏を過った。キッチンのほうから聞こえる、陽気な鼻歌。……そりゃあ、陽気なんだろうなあ。今日こうやって蘭丸が嶺二の家に上がったのも、数日前の脅迫じみた《約束》によるものだった。
* * *
事務所に用事の出来た蘭丸が、その用を済まし、事務所の廊下を歩き「今日の夕飯はどうするか」とぼんやり考えるのも、束の間、数週間ぶりに見る栗色の髪に思わず歩みが止まった。そして間髪入れず、吸い寄せられるように、空き部屋に連れ込まれた。扉の隙間ガラスからは、死角となる部屋の隅に嶺二は蘭丸を追い込んだ。
地方公演の仕事を終え、事務所に戻って来た嶺二は、数週間ぶりの蘭丸の姿を見つけるや否や、有無を言わさず蘭丸をとっ捕まえた。たまたま鉢合わせたその場所の近くに、空き部屋がありましたなんて、偶然にしてはあまりにも出来過ぎている。偶然を装った必然。蘭丸は過去にも似たようなことがあったと、内心呆れつつも、その思考回路の余裕は、空き部屋の扉が閉ざされたと同時に無くなった。
「馬鹿嶺二、外、バレるから」
「そうだね。ランランの可愛い声が、みーんなに聞こえちゃう」
「〜〜てめぇなぁ、んッ」
嶺二は蘭丸の身体を抱き寄せると、すぐに唇を求め塞いだ。強引な唇は、鼓膜を嫌らしく刺激する卑猥な音を立て、その小さな口の隙間に舌を捻じ込ませる。相手の舌を絡めとるような動きは、蘭丸に数週間ぶりの刺激を与え、思わず身体が強張り、喉の奥からは甘い吐息が漏れ出る。その吐息は、嶺二の高揚感を高めるばかりで、両手は蘭丸の骨太な身体の輪郭を舐めるように撫で回すことをやめない。嶺二は熱い息を漏らし、至近距離で蘭丸の二色の瞳をまじまじと見つめる。蘭丸の自慢のアイメイクで模られた鋭利さは、ものの数秒で艶やかな色へと変わってしまうようだった。それでも、眉間の皺をグッと寄せて真正面を見つめる視線は、嶺二の高揚感を掻き立てるばかりだった。
「でも、みんながこんな可愛いランランのこと知っちゃったら、ぼくはどうにかなっちゃいそ」
「もうどうかしてんだよ、てめぇは……!」
そう言い張って蘭丸は、嶺二の両脚の間に太腿を投げ出し、その上を擦り当てる。嶺二はわざとらしく腰を屈めて見せてから、挑発的な視線で蘭丸を流し見た。
「そんなぼくが好きなくせに?」
「うるせ」
嶺二は汗ばむ蘭丸の首筋に舌を這わせ、手のひらは腹部から上へと上がり、胸元へと伸びる。Tシャツの裾を張り、胸元の輪郭を服の上から強調させると、胸の突起を執拗に弄る。唇は首筋を柔らかく食むと、蘭丸は身体を震わせた。遠くからは人の足音が聞こえ、時々笑い声が混じり、その音が近づいてくるようだった。ふとした理性に、心拍数は焦るように高まる。
「……でも、ここは、ダメ……んっ、だ……っ」
「じゃあ、今度の日曜」
「……は?」
蘭丸の身体を貪る嶺二の声は冷静だった。このスリル的な状況下を愉しんでいるようで、口角がゆっくりと上がるのを見た一瞬、その顔が蘭丸の耳元へと移動する。
「空いてるでしょ、ぼくんち来てよ」
「おまえんち?」
嶺二はさらに声をひそめ、吐息まじりの声で蘭丸の鼓膜を刺激する。
「来て、お願い」
「わかった……わかったから離せ」
蘭丸は強く嶺二の両肩を押すと、その力に促されるように嶺二は身体を離した。
「約束」
上目遣いの薄茶色の瞳はそっと懇願した。
* * *
「脅迫じみてんだよ、いつも」
シャワーを終え、着替えを済ませた蘭丸は、タオルで髪を拭きながら声をかける。嶺二はキッチンで冷やし中華の準備をしていた。
「せめて、強引って言ってくれない?」
「変わんねぇだろ」
嶺二は二人分の冷やし中華を完成させ、カウンターキッチンから、隣り合うダイニングテーブルへと運ぶ。蘭丸もタオルを脱衣所の洗濯かごに放り投げてから、テーブルへと戻る。
嶺二は執事か何かにでもなったかのように、気取った態度で、蘭丸を席へと誘導する。二人は向かい合うように座ると、行儀良く「いただきます」と呟いてから、冷やし中華を口にした。中華麺の上には、細身の卵焼きときゅうり、大きめに切られたトマトに、ワカメ。そして、オーソドックスな冷やし中華には、ハムが乗っている位置には、しっかり味付けがされた焼豚が五枚乗っていた。
「……美味い」
「でしょでしょ〜ランラン好みのお肉だと思って、とっておきのをトッピングしたんたよ」
「ああ、特に肉が最高だ」
「良いお肉を調達してくれた、近所のお肉屋さんに感謝だね〜」
他愛も無い会話を交わしたり、グルメ家のように今日の冷やし中華の評価をしたり、二人きりの小さな食卓は、冷やし中華一つをとっても、充実としたものだった。食べ終わると、二人はまた「ごちそうさん」と手を合わせてひと息をついた。口の中では、冷やし中華独特の味と、焼豚の濃いめのタレの味が交わり、そのおかげも相まって、あっという間に満腹感で満たされた。
向かい合って席についたまま、嶺二は前屈をするような姿勢で上体を前に倒し、足も前に投げ出した。嶺二の足が、蘭丸の脛に触れる。足の感触に気づいた蘭丸が、嶺二を見ると、嶺二は上体を戻してから、意地悪に口角を上げた。
「ねぇランラン。今日は何して遊ぼうか?」
嶺二の足が、蘭丸の脛をスウェット越しに下から上へと、ゆっくりと焦ったく上っていく。
「ガキみてぇだな」
「んー? やっぱりランランもガキじゃない遊びがしたいんだね」
器用な嶺二の足は、蘭丸の脛を辿りふくらはぎへ回ると、足の甲でそのふくらはぎを撫で回した。蘭丸は嶺二の足を振り払い、両脚で嶺二の脚を挟んだ。
「ベラベラ喋りすぎて、てめぇで舌を噛まねぇようにな」
「それって、優しさだよね」
「言ってろ」
蘭丸は嶺二の脚を開放して、椅子から立ち上がり、空になった二つの皿を回収してキッチンのシンクへと運ぶ。
「だけどよ」
「なぁに」
「流石に今は腹がいっぱいだ」
蘭丸はシンクに置いた皿を水で浸し、皿を洗い始めた。嶺二はけたけたと笑いながら椅子から立ち上がる。
「それはそう。どーする、暇つぶしにゲームでもする? 実家からプレステ持って来たんだけど」
嶺二はリビングの側に置いていた段ボールを開け、ガサガサと中を物色し始めた。カウンターキッチンから見えるシルエットは、明らかに旧世代のプレステだった。
「いつのプレステだよそれ」
そう言って蘭丸は鼻で笑うも「いつ実家戻る暇があったんだ」と、嶺二の行動の謎さに頭を傾げるばかりだった。皿洗いを終え、リビングに戻ると、嶺二はテレビにプレステの接続を済ませていた。……どこまでも用意周到な奴だ。嶺二は子どものように無邪気な顔で笑い、蘭丸の腕を掴んだ。