妬ましきは、その腹の傷。 夜明け近く、猗窩座はいつものように煉獄家の離れをひっそりと訪れた。
「杏寿郎」
声をかけながら半開きの雨戸を静かに開けると、ようやく一人で半身を起こせるくらいには回復した杏寿郎がこちらを見つめていた。自分を殺しかけた鬼が自宅に入ってきたと言うのに、驚く様子もない。何せ猗窩座がこうして訪れるのは初めてではないので、もう慣れたのだろう。
「君、また来たのか?」
「お前がくたばってないか、気になってな」
「上弦というのは存外暇なんだな」
旧知の友人にでも話しかけるようにそう言うと、杏寿郎は畳に手をついてゆっくりと立ち上がった。
猗窩座が最初にこの屋敷で再会した時、杏寿郎の体は確実に死へと向かっていた。杏寿郎の腹を貫いた時に猗窩座の腕から血が入り込んで同化し、二人は繋がりを持った。近くにいれば存在を感じ、弱っていれば分かる。
そうしてようやく見つけたものの、弱者そのものに成り下がった姿に耐えきれず、猗窩座はその体に無理矢理、己の血を与えた。上弦の鬼の血は鬼化こそしないが、起爆剤のごとく人の体に強烈な刺激を与える。生きようとする杏寿郎の意志と直結して、結果的に命を繋いだ。
それからというもの、今日のように曇天で天気の悪い明け方を選び、猗窩座はもう何度も杏寿郎の様子を見に来ていた。殺すでも喰らうでもなく、どれだけ回復しているのか、見る為だった。
猗窩座が何も言わずに黙って縁側に立っていると、杏寿郎はその横に静かに座った。げっそりとした頬はだいぶ肉付きが戻ってきて、座っているその背筋もしっかりと伸びている。こないだ来た時よりも元気そうに見えた。ただ、相変わらず庇うように右手で腹を押さえているのが気になる。
「腹の傷を見せろ、杏寿郎」
「何故」
「早くしないと夜が明ける」
「なら、そのまま朝日に焼かれてくれないか」
「減らず口はいい。さっさと見せろ」
しかめっ面をした杏寿郎は、不満そうにしながらも猗窩座の言葉に従って着物をはだけて見せた。痩せた体は相変わらずで、筋肉も落ちている。猗窩座の貫いた傷は相変わらず引き攣れた皮膚が痛々しい。だが膿んだ様子も無ければ血も出ておらず、明らかに再生しつつある。
「満足か?」
問いには答えず、猗窩座はしゃがんで杏寿郎の傷痕をじっと観察した。
忌々しいと思った。己がつけた傷には違いないが、鬼にさえなればこんなものはすぐに治る。なのに杏寿郎が首を縦に振らないせいで、塞がりはしては綺麗に再生することなど有り得ない。
杏寿郎の、一度は風穴の空いた腹を見つめているうちに、猗窩座は自分がいらついていることに気づいた。
「こんなもの、鬼になればすぐ治るんだぞ」
「ならないと言ったはずだ」
「お前は強情だな」
「君はしつこいな」
無意味と知りながら、もう何度か似たような会話を繰り返していた。この傷痕がある限り、杏寿郎は決して猗窩座のものにはならない。鬼になって、共に高めあって生きてはくれない。そう思うと、この醜い傷痕がひたすら妬ましいと思った。無意味な感情とは思うが、そう思わずにはいられない。
猗窩座は杏寿郎の着物を掴んだまま、自分の唇を勢いよく噛んだ。そうして襟を掴んで引き寄せて、杏寿郎に口付けた。滴る血がぽたり、少しだけと口元から縁側に落ちる。
猗窩座は杏寿郎の顎を掴んで上を向かせ、何度目かになる血を与えて嚥下させた。不思議と、杏寿郎はこの時は抵抗しない。されるがままだった。
「早く治せ」
唇についた血を指で拭き取ってから、猗窩座はそう言って杏寿郎から離れた。杏寿郎は何か言いたそうだったが、それを待っていては日が昇る。猗窩座は朝日から身を隠すように煉獄家の屋敷から去った。
後ろ髪を引かれる、という言葉を思い出しながら。