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    #猗窩煉

    レーヌ・ド・クーヌの甘い罠 夕方よりは夜に近いような時刻。杏寿郎はいつものように、仕事帰りに「pâtisserie rose」に足を運んでいた。
     そこは小さな洋菓子店で、繁華街からはやや離れたところにある。roseはピンク色、という意味だが、そんな名前とは裏腹に店の内装は木目調のシックな感じで、黒と茶色も看板も小さくて、一見地味な感じの店だ。置いてある種類も少なく、低めのショーケースとその上に焼菓子が少しだけ。なんだか寂しい気もする。
     でも「規模の大きな店はそれなりに商品を置かないと見栄えが悪いが、日持ちしない生菓子をたくさん作るのはリスキーなんだ」と、ピンク髪の若い店主が言っていた。菓子は基本的に彼が一人で作っているらしいから、言われてみればなるほど、と思う。
     杏寿郎は、この店のケーキが好きだった。何より見た目がとても良い。マジパンや飴細工や、チョコレートなどを多様した飾りはとにかく美しくて、見ているとため息が出る。一つ一つに無駄とも思えるほどに趣向をこらしていて、それはもはや、食べ物というよりはもはや芸術作品だ。
     そしてピンク髪の店主が作るそれらは、いちごをはじめ、フルーツを多用した可愛いらしいモノもあれば、チョコレート中心の、なんだか色気を感じるような大人びたデザインのものまで多種多様だ。優れた絵画や映画を見るような感覚で、杏寿郎は気持ちを満たすため、ここのケーキを買っていた。
     昼間は黒髪の大人しそうな女性が売り子をしているが、今の時間帯は彼一人だ。あの女性は最初、店主の奥さんかと思っていたが、兄嫁らしい。だから、いまは彼一人だと思っていたが、今日は違うようだ。
     お客なのかただの知り合いなのか、店の中で店主が若い綺麗な女性と話しているのが見えた。でも、穏やかそうではない。それどころか、どう見ても言い争いをしているように見えた。杏寿郎は店に入りづらくて、しばらく眺めていると、ピンク髪の店主は怒った女性に平手打ちを食らって、なおかつ固そうなバックで殴られていた。杏寿郎は驚いて、やや離れた外から事の顛末を見守っていたが、ピンク髪の店主は悪びれた様子もない。
     やがて、泣き出しそうな顔の女性が、店から出て行った。彼女の興奮した状態そのもののように、扉のベルが勢いよくカランカランと大きな音で鳴っていた。
    「…またか」
     呆れた声で、杏寿郎は思わず呟いた。今回はだいぶ激しいが、実は何度か似たような場面に出くわしたことがある。どうにも、あのピンク髪の店主は女癖が悪いようだった。
     走り去る女性の姿を、なんとも言えない気持ちで見送ると、杏寿郎はため息をついてから「pâtisserie rose」の店内へ足を踏み入れた。
    「こんばんは」
    「おお、杏寿郎!」
     ピンク髪の若い店主は、口端を押さえながら笑顔で杏寿郎を出迎えてくれた。
    「…猗窩座、君ケガしてるぞ?」
    「ん、ああ…口を切った」
    「……いま、固そうなバックで殴られてたな?」
     見てたのか、と言いたげなバツの悪い顔でピンク髪のパティシエ、素山猗窩座は、その形のいい唇から流れた血を指で拭っていた。
    「金具が当たってな。女物のバックって、なんであんなジャラジャラした凶器みたいなものついてんだ?」
    凶器にさせてるのは君自身じゃないのか、と杏寿郎は思ったが、とりあえず口には出さなかった。
     顔についた自分の血を拭っている猗窩座の顔は、はっきり言って女性顔負けに美しい。長いまつ毛と高い声に、身体つきはコックコートの上からでも分かるほど、鍛え上げた体つきをしている。
     女性たちが彼に夢中になる気持ちは、まあ、わからなくもない。ただ、ああいうことが一度や二度じゃないところを見ると、非は完全に彼にありそうだが、杏寿郎としては他人のプライベートに口を挟む気はなかった。
    「なあ、ところで新作はまだ余っているか?」
    「もちろん。お前が来ると思ってとっておいた!大事なご常連さまだからな」
     猗窩座は目をキラキラさせて、ショーケースではなく店の奥の冷蔵庫から、ケーキ箱を一つ取り出してきた。そして猗窩座は、店内にある華奢で可愛いらしい小さなテーブルに置いた。イートイン用ではなく会計待ちの時や子連れ客のためのテーブルで、同じような椅子もセットで二脚置いてある。
     猗窩座は、そのきれいな指でうやうやしく、ゆっくりと箱を開けた。中からは、ハート型の真っ赤な色をしたムースが出てきた。羽のようなホワイトチョコレートに、銀色のアラザンとバラの花びらで飾り付けされ、ムースの表面は手仕事とは思えないほどなめらか綺麗だった。
    「とても綺麗だ!」
    「ああ、美人だろ?名前は『レーヌ・ドゥ・クーヌ』で意味はハートの女王。ラズベリーソースの下はホワイトチョコレートのムースで、下はダックワース。中にはパイナップルも入ってる」
    「中身も凝ってるんだな。さすがだ」
     そう言うと、杏寿郎は早速スマホを取り出して、いつものように、真っ赤なハートのケーキを撮影した。杏寿郎は、きらきらと輝くハート型のラズベリー色をまじまじと見つめ、ため息をつきながら、真上や横、いろいろな角度から杏寿郎が撮影した。
     そして撮影してる間に「今日はもう店仕舞いだな」と猗窩座は言いながら、扉にかけてある「open」のボードを裏返し「closed」にした。
    「杏寿郎、せっかくだから食べてくか?フォーク持ってくるぞ」
    「え?あ、ああ…」
     杏寿郎がまともに返事をする前に猗窩座は奥の厨房へと行ってしまった。撮影に夢中で気づかなかったが、窓のロールカーテンも閉められて、店の入り口のライトも消えてしまっている。
     なんとなく断ることができず流されしまい、内心杏寿郎は焦っていた。
     猗窩座は親切のつもりなのだろう。いつも店に通っているし、よく話をする彼とは、顔見知り以上で、友人と言っていい仲だと杏寿郎は思っている。彼のケーキは大好きだ。だが、まさか本人の目の前で食べることになろうとは。複雑な気持ちで真っ赤なハートのケーキをしばらく眺めていると、猗窩座はフォークと一緒にコーヒーまで用意してきてくれた。これではますます断りずらい。
    「砂糖とミルクは?」
    「いや…大丈夫だ」
    「ブラック派なんだな」
    「……まあ、とうか、こだわりはないから」
     事実を言っておかしな受け答えになってしまったが、猗窩座は気にしていないようだった。少しホッとしながらフォークを受け取り、杏寿郎は椅子に座った。猗窩座は自分の分のコーヒーを持ちながら、杏寿郎の向かい合わせに座った。
     真近で見る彼の顔は、やはり見ているだけで緊張するくらい美しい。罪な男だな、と思う。
    「………君のケーキはきれいだから、食べるのがもったいないな」
    「ありがとう。だが食べてもらえないと、腐るだけだからなあ」
    「ああ」
     確かに当たり前の話だった。綺麗なケーキも、結局は食べ物だ。食べなければ意味がない。
     杏寿郎は、慎重にハート型の、ラズベリーソースの部分にフォークを刺した。切り分けた真っ赤なハートの中身は、猗窩座が言っていたとおり、ホワイトチョコレートのムースで、表面とは対象的に白い。それが、何かの暗示に思えるのは罪悪感からだろうか、と杏寿郎は頭の片隅で思った。
    「さあ、食べてみてくれ」
     急かされるように言われ、杏寿郎はケーキを大きめに割った。そして大きな一口にして、覚悟を決めて勢いよく頬張った。
    「どうだ?」
    「美味い」
     杏寿郎は、急いで残りのケーキもフォークに刺して口に入れた。下地に使われた、ダックワースの触感を噛み締め、それもすぐにコーヒーで口の中に流した。
    「そんなに急ぐなよ、杏寿郎。口に赤いソースついてるぞ?」
    「あ、うん」
     猗窩座は笑っていた。不審がられてないことに安心していると、彼はいきなり右手を伸ばしてきた。
    「杏寿郎。子どもみたいだな、お前」
     杏寿郎の口元についているらしい、赤いラズベリーソースを猗窩座は手で拭って、親指ついたソースを少しだけ、杏寿郎の口の中に入れて。そのまま舐めさせた。
     それは、先程猗窩座が自分の口についた血を拭っていた指だった。
    「ン、っ…」
    「ああ、悪い。つい………」
    「………いや、」
     心臓がいきなり早鐘を打った。久しぶりの感覚に、杏寿郎は震えた。

     ああ、甘い。本能的に杏寿郎はそう思った。

    「杏寿郎?」
     数秒のことだただろうが、不審そうな猗窩座に話しかけられるまで、杏寿郎はまるで意識が飛んでいたような気分だった。
    「嫌だったか?」
    「……そんなことはない」
     絞り出すように答えて、杏寿郎は残りのケーキを一口で平らげて、コーヒーでまた一気に流し込んだ。ごくん、という自分の嚥下する音が、やけに響いたように思えた。
    「ごちそうさま。ありがとう、今日はもう帰るよ」
     杏寿郎はそう礼を言うと、華奢な椅子から立ち上がって猗窩座の顔をなるべく見ないようにして、急いで店から出た。
     勢いよく扉を開けたせいで、カラン、という扉についたベルは先程猗窩座を叩いた女性が出ていった時と同じくらい、大きく鳴っていた。
     
      
     それから一週間ほど、杏寿郎「pâtisserie rose」に行くのを控えた。猗窩座はケーキのデザインやレシピを考えるのが早い。新作を一つでも逃さないように、杏寿郎は最低でも週に二度以上は通っているから、不審に思われているに違いない。
     けれど仕事中も家にいる時も、猗窩座のことが頭から離れなかった。
     いや、正確には違うな、と職場のデスクでパソコンをいじりながら、杏寿郎は思った。恋にも似たようなこの感覚は、実際には恋ではない。

     たぶん、単なる飢えだ。

     杏寿郎は、パソコンの電源を切った。特に急ぎの仕事はないし、今日は早めの定時上がりでも文句はないだろう。
    タイムカードを切ると、杏寿郎の足は自然と「pâtisserie rose」に向かった。
     店は、会社の最寄りの駅から少し歩いて、繁華街を抜けて閑静な住宅地の手前にある。正直、店に行って何をしようとしているのか、杏寿郎自身も分からない。
     いつものように彼の作る美しい綺麗なケーキを買うのか、それとも。
     思い出すと、体が自然と震えた。やはり無意識に、期待しているのかもしれない。
    「あれ?」
     けれど決意して来たはいいが、店は開いていなかった。店内の明かりはついていないし、いつものボードは「closed」のままだ。今日は定休日でもないのに、どうかしたのだろうか。
     すると、店内から誰か出てきた。小柄なその女性には見覚えがあり、杏寿郎は彼女に声をかけた。
    「こんにちは」
    「あら?いらっしゃいませ」
     彼女は、昼間に売り子をして店を手伝っている女性だった。猗窩座の兄嫁で「恋雪」と呼ばれていたのを何度か聞いたことがある。
    「あの、お店はお休みですか?」
    「はい。実は猗窩座さんが、ちょっと…」
     困ったような顔をした彼女は、いったん言葉に詰まった。彼は具合でも悪いのだろうか、と杏寿郎は心配になった。
    「彼、体調でも崩したんですか?」
    「いいえ。でも頭を打ったんで…いや、はっきり言えば殴られた拍子に転んで頭を打ったんですけど」
    「え!?」
    「大したことないです、病院でCT検査もさっきしてきたし。ただ今日一日くらいは安静に、てお医者さまに言われたんですよ」
    「殴られた…て、そんな、泥棒とか?」
     そう聞くと、恋雪は今度は苦笑しながら「いいえ」と答えた。心なしか、呆れたような顔をしている。
    「いつもの女性関係です。煉獄さんからも注意してやってくださいな。何人も同時進行なんかするから…ほんと、いつか刺されても文句を言えないと思います、あの人」
    「…はあ」
     なら良かった、とも言いづらい。杏寿郎が見てきたとおり、やはり彼の女癖はとても悪いようだ。
    「猗窩座さん、厨房の隣にある休憩スペースで寝てます。暇してるみたいだから、良かったら話し相手にでもなってやってください、煉獄さん」
    「あ、はあ…」
     恋雪はそういうと、店の扉を開けて杏寿郎を店内に入れた。初めて足を踏み入れた厨房の奥には、確かに恋雪の言う通り、四畳半くらいの休憩スペースがあった。隣には簡易のキッチンとシャワールームらしきものがある。ふかふかの絨毯が敷かれたそこは、小さなテーブルと、コックコートの替えが並んだハンガーラックがあるだけだ。
    「猗窩座さん?」
    「ん…あ………杏寿郎!?」
     上着らしきものを枕にして、猗窩座はその部屋でブランケットをかけて寝ていが、杏寿郎と恋雪を見た瞬間に飛び起きた。とりあえず、パッと見た限りは元気そうだ。
    「やあ。頭を打ったって、聞いて」
    「大したことない」
    「元気そうで良かった…」
     杏寿郎がそう言うと、猗窩座はニコニコといつものように笑った。そんな杏寿郎と猗窩座を微笑ましそうに見つつ、簡易キッチンでコーヒーを淹れてくれた。
    「とりあえず、寝ててくださいね。私は帰ります」
    「恋雪…狛治には」
    「もちろん言いますよ。あとでお説教を覚悟してくださいね?」
    「…うう、またあいつに怒られるのか」
     ハクジ、とは多分猗窩座の兄の名前だろう。前に二人の会話に出てきたのを、杏寿郎から聞いたことがあった。猗窩座も、兄には頭が上がらないらしい。
    「自分が悪いんだなら仕方ないじゃありませんか。煉獄さん、お店閉めてますから、どうぞごゆっくり」
     恋雪はそう言うと、コーヒーを置いて立ち去った。あとには猗窩座と杏寿郎だけが残された。
    「優しくていい人だな」
    「恋雪か?ああ、まあ、身内だからな。少なくとも旦那の双子の兄貴よりは優しい」
     猗窩座はやや苦々しくそう言うと、兄嫁が淹れてくれたコーヒーを啜った。
    「君、まあ…こないだもだが、あの…余計なことかもしれないが、女性関係は複雑にしない方が、いいと思うぞ?」
     杏寿郎は控えめにそう言ったが、猗窩座はまるで気にしていないようだった。
    「仕方ない。向こうからどんどん寄ってくるんだ。断るのも面倒でな」
     モテない男が聞いたら憤死しそうなセリフだ。顔が良いとそれはそれで苦労があるのかもしれないが、傲慢もいいとこだ。
    「その結果がコレか?彼女に聞いたが、殴られて転んで頭打ったんだろ。それに、君の女性に対する扱いも、どうかと思う」
    「…まあな」
    「女性には、もう少し優しくして誠実にすべきだ。反省した方がいい。何かあって君のケーキが買えなくなるのは嫌だから…」
     言いながら俯いたのは、自分でも情け無い感じがした。彼の作るケーキが見れなくなったら残念なのは本当だが、言い方が女々しい気がしたのだ。
     杏寿郎は手持ち無沙汰と恥ずかしさを誤魔化すために、恋雪が用意してくれたコーヒーカップを掴んだ。
    「…無理して飲まなくていいぞ?」
    「え?」
     猗窩座はそう言うと、杏寿郎が掴んだコーヒーカップを静かに取り上げた。
    「味、どうせしないんだろ?」
    「…………」
     突然の先制攻撃に、杏寿郎は固まった。自分は、いまいったいどんな顔をしてるのだろう。
    「なんで…」
    「気づくさ。杏寿郎、あれだけ店のケーキ買っておいて『美味い』以外の味の感想は言わないだろ?黙ってりゃ、分からないって思ってたか?」
    「…ッ」
     恥ずかしさとショックで目眩がした。まさか全部バレてるなんて、思いもよらなかった。
    「極めつけはこないだのあれ。半信半疑だったけどさ、試したら分かりやすかったよな、杏寿郎」
    「…あ、」
     あれはわざとだった、と気づいて杏寿郎は目の前が真っ黒になった。こちらの反応を見て、猗窩座は楽しんでいたのだろうか、嘲笑っていたのだろうか。
    「俺の血、美味かったか?なあ『フォーク』?」
    「…………」
     疑惑は確信へと変わる。バレていた。
    「…君は『ケーキ』なのか?」
    「ああ。俺に抱かれた『フォーク』の女たちはさ、みんな俺に夢中になる。こんなに甘いのは初めてだってさ」

     ケーキとフォーク。この世に存在する、特殊な舌と感覚を持つ人間。
     フォークの人間は、味覚を持たない。何を食べても味がしない。だが唯一、ケーキと呼ばれる人間の唾液や血液、汗などの体液は、フォークにとってとても甘く感じるのだと言う。
     味覚を知らないフォークが夢中になるあまり、ケーキの人間との争いが耐えず、フォークは一般的に忌避されることが多い。なので、自分に味覚が無いことを極力隠すフォークは多い。杏寿郎もその一人だ。
    「す、すまない、俺は、そんなつもり…じゃなくて。純粋に、君の作った綺麗なケーキが好きで、それで、店に通ってた…」
     言い訳のような杏寿郎の言葉を、猗窩座は黙って聞いていた。彼がケーキだと知らなかったのは本当だ。こないだ猗窩座の血を口に含むまで、全く気づかなかった。
    「別に責めてないぞ?そんなに怯えるな」
     そうは言ったが、猗窩座は明らかに面白がっているように見えた。怯えたつもりもないが、そんな風に見えているなら、杏寿郎も恥ずかしくてたまらない。
     コーヒーカップを二つ、テーブルに置いた猗窩座は、座っている杏寿郎に静かに近いた。
     汗のせいかもしれないが、たまらなく『甘い』匂いが鼻腔を掠めた。確かに、間違いなく猗窩座は『ケーキ』だ。
    「杏寿郎、女にはもっと優しくした方がいいんだよな?」
     杏寿郎が、動かないのをいいことに、猗窩座は至近距離まで迫ってきた。それこそ女性顔負けの、美しい顔を間近に見てしまい、杏寿郎は頭がクラクラした。
    「ならさ。女の扱い方、俺に教えてくれよ」
     杏寿郎は尻をついたまま、後ろにジリジリと後退りした。だが、狭い室内には、すぐ後ろには壁がある。すぐに背中がぶつかって、逃げ場はない。
     どん、と、猗窩座の右の手のひらが杏寿郎の顔の脇に勢いよく押し付けられた。ますます『甘い』匂いで杏寿郎の五感がいっぱいになった。

     飢えている。甘い、あの味に、杏寿郎は飢えていた。
     
     
     初めてされたキスは、それだけで意識が飛びそうだった。猗窩座の唾液が、舌を伝って口の中に侵入してくる。甘い、甘い、刺激。

    「…、はっ、ン、」

     猗窩座はしつこかった。彼の舌は無遠慮に杏寿郎の口の中に割って入り、甘い唾液がどんどん侵入してきた。緊張や、恥ずかしさで固くなっていた体はどんどん柔らかく弛緩していき、すぐに猗窩座のなすがままになった。
     力の抜けきった杏寿郎の体を、猗窩座はキスしながらもしっかり抱きしめた。そのままゆっくり、床に押し倒されると、微笑をたたえた天使のような顔の美しい青年が、杏寿郎を見下ろしていた。彼は服を脱いで、上半身の裸を晒した。甘いあの味とは裏腹にたくましいその体は、甘さのかけらもなく、雄々しい。
     猗窩座は、ケーキを扱うときのような、優しい手つきで杏寿郎のジャケットを脱がせて、シャツのボタンを外した。そして、猗窩座はぴん、と恥ずかしいまでに立った杏寿郎の乳首を指先でつまんだ。途端に、ぴくん、と体が跳ねる。それを見た猗窩座は、満足そうにまた微笑んだ。
    「いいな。杏寿郎、今まで抱いたどの『フォーク』より感度がいい」
     数多の女性たちと比べられたことに傷つくべきだろうか、と埒もないことを、頭の片隅で思っていた。けれど、今の杏寿郎には、たぶんどうでも良いことだった。
     だって、頭の芯までぼんやりしていた。猗窩座の、唾液のせいかもしれない。そして目が霞んでいる気がするのに、猗窩座の顔だけは捉えて離さないのだ。
     下を見やると、自分のペニスに熱が集まって、勃起しているのが分かった。キスだけで、この有様だ。
    「相性良いんだな。俺たち」
     猗窩座はそう言うと、そのまま覆い被さり、また深くキスをしてきた。体中が熱い。溶けそうなくらいに。

     そして、その甘さに脳髄まで痺れる気がした。

     猗窩座は、キスを続けながらも器用に右手を杏寿郎の下半身に持っていき、スラックスのホックとジッパーを外した。下着の中では杏寿郎のペニスが窮屈そうにしている。でも開放することはなく、猗窩座は杏寿郎の太ももを片方持ち上げると、布越しに、つつ…と、指先で穴を触った。微妙な刺激に、キスされたままの杏寿郎の体はまたビクン!と跳ねる。
    「なあ、杏寿郎。ケーキの精液はな、フォークには極上に甘いらしいぜ?みんなそう言うんだ」
     キスをやめ、猗窩座は耳元でいやらしくそう囁いた。
    「中に、飲ませてやろうか?俺の、白くて甘いの」
     言葉で嬲られている。それは分かっているはずなのに、杏寿郎には期待しかなかった。
     今まで、感じたことがないような強烈な「飢え」は、それこそ極上の『ケーキ』によって満たされようとしている。
     それを拒否するなど、考えられない。
    「……あ、甘いの、」
    「ん?」
    「欲しい。君の、甘いのをくれ、たくさん」
     舌ったらずの子供みたいな口調で、杏寿郎は猗窩座を欲した。猗窩座は、明らかに欲情した顔で杏寿郎にまた深くキスした。その間に下着は外され、杏寿郎の体は甘い『ケーキ』の前に晒された。

    「おねだり上手には、ご褒美やるよ」

     その言葉を最後に、杏寿郎は『甘い』強烈な記憶しか残らないほどの、激しいセックスを経験した。

     
     
     
     
     
     



     
      
       
        
         
          
           
            
             
              
               
                
                 
                  
     昨日いきなり店を休んだせいか、今日は客の入りが多かった。小さなショーケースの中身は、生ケーキ一つを残して無くなり、焼き菓子の在庫もほとんどない。
     なので店主の猗窩座は、今日は早めに「pâtisserie rosé」を閉めることにした。店番の恋雪も早めに帰ってもらっあ。いちおう明日は定休日だが、仕込みにあてた方が良さそうな勢いだ。
     猗窩座は「open」の札を「closed」に裏返して店の外に出ると、キョロキョロと外を見回した。誰か来そうな気配は、残念ながら無い。
    「…また、来ると思ったんだけどな」
     来たら知らせてくれ、と店番の恋雪にも伝えていたが、待ち人は来ず、だ。いつもなら仕事帰りのこれくらいの時間に、いつも杏寿郎は店に来る。
     甘い、真っ赤なハートの形のケーキ。最近では一番出来のいい新作だ。今日はそれを杏寿郎専用に、一つだけ作り直してあった。だが、来なければそれも無駄になってしまう。
    「連絡先、聞いとくんだった…」
     間抜けにも、昨日は何も聞かずに黙って杏寿郎を帰してしまっていた。よく考えたら、電話番号はおろか、常連というだけで、猗窩座は杏寿郎の住んでる場所も勤め先も、実は知らないのだ。来なくなったら、そこで終わりだ。
     けれど、猗窩座には確信があった。杏寿郎は、きっともう一度来るはず。
     だって、もう我慢できないはずだ。杏寿郎は、おそらく「甘い味」を初めて知ったのだ。今までの女たちと同じだ。理性なんて消し飛ぶに違いない。
     けれど猗窩座は他の女なんか今はどうでも良かった。だって一つのケーキには一つのフォークで充分だ。

     猗窩座は、シャッターに手をかけた。いちおう、片付けが済むまで半分だけ閉めて、もう少しだけ杏寿郎を待つことにした。

     
     
     
     
     
     
     
     
     

     理由もなく仕事を休んだのは初めてだった。いちおう体調不良には違いないが、本当の理由なんて言えるわけがない。
     一人暮らしの部屋で、杏寿郎はベッドにゴロンと横たわってため息ついた。もう夕方近くだった。朝、会社に休むことを電話してそれからずっと寝ていたことになる。
     さすがに起きよう、と、杏寿郎は痛む腰を庇いながらベッドから這い出た。急に喉の渇きを覚えて、そのままフラフラとキッチンへ向かった。杏寿郎の自宅には調理器具は一切ないが、電気ポットは置いてある。お湯だけは常に沸かしてあった。けれどコーヒーも紅茶も緑茶も、ジュースも自宅には置いていない。飲むのは水か白湯だけだった。
     マグカップを取り出し、そのままポットのお湯を注ぐと白い湯気が立ち上った。少し冷ましてから、それを持ってリビングに戻り、ソファに座りながら白湯を口に含んだ。柔らかいスプリングのおかげで、腰の痛みは少し和らいだ。同時に、舌には温かい感触と、喉の渇きが満たされた感覚が伝わった。
     温かいものに刺激されたせいか、杏寿郎の胃腸は「腹が減った」と訴えていた。けれど特に積極的に「食べたい」とは思わない。でもどうやら空腹のせいで目眩までしてきたので、杏寿郎は仕方なくリビングの隅に置いてある箱から、無造作に固形の菓子をいくつか取り出した。安売りで買ってきたプロテインバーやカロリーメイトだ。それを食べながら白湯で流し込んだ。噛み締めても、固い、粉っぽい。それしかわからない。
     なぜなら杏寿郎は、味覚を持たない『フォーク』と呼ばれる人種だからだ。甘い、しょっぱい、苦い、辛い。それら全てを味わったことがない。
     ただ、冷たい、熱い、ことだけは分かる。だから飲み物といえば「冷たい」か「熱い」か、しかこだわりがない。冷蔵庫は、夏場は氷を作るためと、容器にいれた水を冷やすためだけにある。けれど冬の今は電源すら切っていた。たまに炭酸水なら飲むことはあるが、それも周りに合わせてのことだった。水ばかり飲んでいると周囲から不思議がられるのだ。
     電気ポットから白湯を追加した杏寿郎は、箱の中から、今度は数種類のサプリメントを取り出した。摂取する栄養に偏りが出がちなので、仕方なくこうしたモノでバランスをとっているのだ。相変わらず何の味もしないサプリメントやプロテインバーを食べながら、杏寿郎は昨日のことを思い出していた。
     正確には、昨日味わいとんでもなく魅力的な「甘い味」と、その後に味わった「苦い」気持ちについてだ。
     

    「あ、ン、アッ…!」
    「…はっ、締めすぎだ、お前」
    「そ、そんなこと言われても、あ、ンッ!!」

     四つん這いにされ、後ろからのしかかられた杏寿郎は、猗窩座にされるがままだった。手近にあったハンドクリームで慣らされた尻穴はギチギチで、それでも猗窩座の大きいペニスをどうにか咥え込んでいた。なのに中に出されてから、痛みよりも、快楽が明らかに勝っている。一度果てたわりに萎えることもなく、猗窩座はすぐにペニスを固くして再び腰を振っていた。
     杏寿郎は後ろから猗窩座に揺さぶられながら「性行為でも味覚を感じることがある」と他の『フォーク』が言っていたことを思い出した。杏寿郎のような『フォーク』にとって『ケーキ』の人間の汗や血、体液は唯一味を感じられる代物だった。
     はしたなくも、尻穴に吐き出された『ケーキ』である猗窩座の精液に感じ入っているらしい。カーペットの敷かれた床押し付けられ、涙と涎でみっともなくなっているであろう顔を、杏寿郎は恥かしさで歪めた。
     それ以前に、シャツは着たまま下半身だけが丸出しで、みっともないことこの上ない。けれど気持ち良かった。中に出された白いモノのせいで、ピチャピチャと卑猥な音が狭い部屋に響いてる。そして奥を突かれる激しい快楽とは裏腹に、頭の中はふわふわしていた。猗窩座の汗の匂いは、やたらと「甘くて」まるで麻薬みたいに杏寿郎の頭の中を支配していた。
    「ひっ!」
     ぐんっ、と一際強く腰を叩きつけられて、杏寿郎の体はビクビクと震えた。無理矢理に顔を後ろに向かされ、猗窩座はかぶりつくように杏寿郎にキスをしてきた。ぬちゃ、ぬる、ぴちゃ、という音は、わざと立てているような気がした。それと同時に、また頭を殴られたような乱暴な快楽が杏寿郎を襲う。彼の唾液は甘くて甘くて、思わず杏寿郎は舌を絡めてむしゃぶりついた。ひとしきりその甘いのを味わうと、猗窩座はそれが分かったかのようにいいタイミングでいったん口を離した。
    「…杏寿郎、なあ、いい子だから力抜いて、な?」
    「あっ…」
    「全部、入れるぞ」
     激しい行為に似つかわしくない、優し気な声色に、耳元がゾクゾクした。途端に弛緩した体に、猗窩座はまた一気に腰を突き立てた。すでに声が掠れるほど泣いていたのに、杏寿郎はまた快楽と甘い味に鳴いた。
     自分のものとは思えない、はしたなくていやらしい声が止まらない。理性も何もあったものじゃなかった。甘い味に溺れて、杏寿郎の意識が飛ぶまでセックスは続いた。



     正直その刺激の強さのせいか、最後の方は覚えていない。どうやら気を失ってしまったらしく、目が覚めた時には情事の名残りは全て拭き取られていた。猗窩座は、しっかり後始末をしてくれたらしい。上着までかけてくれていた。
     起き上がって服を着て、狭い店の休憩スペースから出ると、猗窩座は厨房で何やら作業していた。女に引っ叩かれて、よろけて転んで頭を打ったから安静に、などと言われたくせに、言うことを聞く気はないようだ。
    「よう、起きたか?」
     猗窩座は杏寿郎に気づくと、とてもセックスのとは思えない爽やかな笑顔でそう言った。その顔を見ただけで、杏寿郎は顔がカアっと赤くなった。
    「…あ、」
     先程猗窩座に言われたことを、杏寿郎は思い出した。彼は杏寿郎が味覚を持たない『フォーク』だと見抜いたことを伝えたあと、こう言った。
    『なあ、杏寿郎。ケーキの精液はな、フォークには極上に甘いらしいぜ?みんなそう言うんだ』
     今まで彼が抱いてきたのは、きっと『フォーク』の女たちだ。だからあんなにみんな、猗窩座に執着して、彼を諦めきれずに追い縋る。女癖がどうとかより、彼女達が猗窩座から離れられないのだ、きっと。そして、杏寿郎は大勢の中の一人に過ぎない。

     甘くて美味しいケーキに群がる、哀れなフォークのうちの一つ。

     彼には、こんなことはなんでもない、いつものことなのだ、きっと。だからこんなに平気でいられる。
     それに気付いて、情けなくも泣きたくなった。胸に何か詰め込まれたみたいな、重たくて苦しくて、苦い感覚。
    「…か、かえる。さよなら」
     猗窩座と目を合わせることすら、その時の杏寿郎は怖かった。彼は何か言っていたような気がしたが、杏寿郎は聞こえないフリをして「pâtisserie rosé」を後にした。



     腰も痛いが、一番痛いのは心だった。あんな、不意打ちで抱かれて、いきなりいいようにされて、そして遊ばれた。初心な若い女の子でもあるまいし、いったい何をしているのか。冷めた白湯の入ったマグカップを見つめながら、杏寿郎は頭を抱えた。
     あんな女たらし、もとい『フォーク』たらしの『ケーキ』に、自分はいったい何を求める気なのだろう。
     でも目を瞑り、視覚を遮断すると思い出されるのは、あの甘い甘い、猗窩座の味だった。
     彼の綺麗な顔に似つかわしい、甘くて品があって、けれど、なんと言うか、エロティックな味。
     それは彼の作るケーキの見た目によく似ていた。甘いあの味を知る前から、結局あの男に、杏寿郎は惹かれていたのかもしれない。彼が『ケーキ』だと気づく前に『フォーク』の本能で察していたのだろうか。
     そしてもしかして、今頃は他の『フォーク』の女と寝ているかも知れなかった。自分を触ったあの手で、唇で、誰かの肌を愛撫して、そして…。
     単なる想像なのに、杏寿郎はやけに苛立ち、ガタン、と音を立ててマグカップを乱暴にテーブルに置いた。嫉妬や嫉みとは無縁の人生だと思っていたのに、自分の中にこんな感情が存在するなんて。

     眉間に皺を寄せながら、杏寿郎は考えた。どうしたら、あの『ケーキ』を自分だけのもなるのだろう、と。

     ふと時計を見る。いまからすぐ出れば「pâtisserie rosé」はまだ営業しているはずだ。

     杏寿郎は決意して、急いで着替えて家の鍵と財布とスマホを持つと、猗窩座のもとへと向かった。




     とうとう店内の片付けが終わり、猗窩座は仕方なく店のシャッターを閉めに外へ出た。
     やはり来なかった、とガッカリしてシャッターに手をかけていると、急に人の気配がして猗窩座は後ろを振り向いた。
    「猗窩座」
    「よお。杏寿郎」
     やっと現れた杏寿郎は、いつものスーツ姿ではなく私服だった。どうやら会社帰りではないらしい。
     ベージュ色のV字のセーターに細身のデニム、長い金髪は今日は結んでいない。見慣れない私服姿は新鮮だった。杏寿郎のプライベートを覗き見した気がして、猗窩座は気分が良かった。
    「店は、終わりかな?」
    「ああ、もう閉めるとこだけど、一個だけケーキ残してる。お前が来るかも、て思って」
    「…そうか」
    「入れよ」
     そう言って猗窩座は下ろしかけたシャッターを上げたが、杏寿郎は戸惑っている様に見えた。
    「あ、いや………」
    「昨日の今日で、何もしねえよ。ほら」
     ドアを開けて笑いながらそう言うと、猗窩座はやや強引に杏寿郎の肩を掴んで店内へと押し込んだ。
     店は照明をもう落としていたので薄暗い。奥の厨房からの灯りだけが頼りだった。猗窩座は、小さなショーケースの隅にとっておいた、真っ赤なケーキを取り出した。
     ハートの形のそれは「レーヌ・ド・クーヌ(ハートの女王)」という商品名の新作だった。
    「これ、特別製だから、今日は売らなかったんだ」
    「…どう言う意味だ?」
     聞き返す杏寿郎に向かって、猗窩座は悪戯っぽく笑った。ショーケースの上に「レーヌ・ド・クーヌ」を置くと、レジ横の持ち帰りケーキにつける、使い捨てのプラスチックスプーンを取り出した。そうして、ケーキの表面にかかっている、真っ赤なラズベリーソースをスプーンで少しだけ掬った。
    「杏寿郎、口開けて」
     行動に戸惑っている杏寿郎の顎を掴んで、猗窩座は口を開けさせた。不思議そうな顔をしてるが、無理もない。でも、特に抵抗はされなかった。
    「俺は、味は分からないぞ?」
    「ああ、知ってる」
     訝しげに杏寿郎はそう言った。杏寿郎は、味覚を持たない『フォーク』だ。猗窩座の作るケーキを買っていたのは、味ではなく見た目を気に入ってのことだった。
    「でもとりあえず、口に入れてみな」
     赤いラズベリーソースは、いつもより色が濃くて艶やかだった。杏寿郎の口に、猗窩座はスプーンを放り込んだ。

     舌の真ん中、味を感じる味蕾が、本来はあるはずの場所へ。

    「ン、…」

     予想通り。口に突っ込んだスプーンを、杏寿郎は舌でしつこく舐めとった。スプーンをゆっくり抜くと、とても名残り惜しそうな顔をした。猗窩座は、それを見てこっそりと満足した。たまらない。思わず昨日の痴態を思い出してしまう。
    「あまい…どうして?」
    「俺の血が入ってるから」
     このケーキの真っ赤なラズベリーソースに、猗窩座は自分で採血した血を多めに混ぜていた。昨日、杏寿郎が気を失っている間にケーキ一つ分だけ特別に作っていたものだった。
    「なあ。もっと、くれるか?」
    「いいとも」
     杏寿郎は、とろん、とした目でまた血入りのラズベリーソースをねだった。猗窩座は、今度はソースを多めに掬って、また口の中にスプーンを突っ込んだ。
    「…甘い。もっと」
    「ん、」
     まるで幼い子供か雛鳥みたいに口を突き出して、杏寿郎はケーキをねだった。猗窩座は店内にある椅子に杏寿郎を座らせると、甲斐甲斐しくスプーンでラズベリーソースを杏寿郎に食べさせた。
     猗窩座の手にあるスプーンをねぶりながら、杏寿郎は余すことなくラズベリーソースを舐め尽くした。なかなかエロティックなその仕草に、猗窩座もそそられたて仕方なかった。昨日の今日で何もしない、とはいったものの、言ったことに自信が無くなってきていた。
     ソースを舐め取り、ケーキを一つ平らげると、杏寿郎は満足気にため息をついた。
    「…味覚があるっていうのは、いいものだな」
     まるでセックスのあとみたいな顔をして、杏寿郎はそう言った。心底そう思っているのが、猗窩座にもよくわかった。
    「ほんとは、昨日作って食べさせようと思ってたんだけどな。お前すぐ帰っちまったし」
    「…あ、ああ」
    「血入りケーキなんてさすがに売り物にはできないけど、杏寿郎のためならいつだって作ってやるよ」
    「…………それ、他の『フォーク』にもいつもしてるのか?」
     バカなことを聞くものだ、と猗窩座は思った。こんな、
    タダで甘い血を毎回飲ませるようなことを、いつもしてるわけがない。
    「してねえよ。お前だけ」
     猗窩座はそう断言したが、杏寿郎は疑っているようだった。今までの「女癖の悪さ」を見てきているから、言葉を素直に受け取れないのかもしれない。
    「どうだか」
    「嫉妬すんなよ、本当にお前だけだ」
    「誰が嫉妬なんか…」
    「じゃ、なんでそんなこと聞いたんだよ?」
     なるべく意地悪くそう言うと、杏寿郎は顔を少し赤くして俯いた。昨日のあれやさっきの仕草との落差に、猗窩座は頭がくらくらした。可愛いくて仕方がない。
    「俺は、その他大勢みたいに、扱われたくないだけだ。君に、遊ばれるのはごめんだ…」
    「あのさ。杏寿郎、おれのこと女癖悪いと思ってるだろ?」
     そう聞くと、杏寿郎は不審な顔で猗窩座を睨みつけた。
    「…実際悪いだろ?」
    「確かに俺はたくさん『フォーク』の女とはヤッたさ。でも別に好きでもなんでもない。あんまり褒められたことじゃねえけどさ、俺は『フォーク』の女から金貰って一回ヤッてたんだよ。で、あとは基本的に連絡しない。でもみんなしつこくてさ、だからこじれる」
    「な…そ、それ、ば、売春じゃないか!何やってるんだ君は!?」
    「しょーがねえじゃん。この店買った時の借金返すため、だよ」
     完全に呆れ顔の杏寿郎に、猗窩座は悪びれることなく話を続けた。実際に罪悪感は別にない。
    「俺は俺が作りたい、好きなものしか作りたくないんだよ。だから売れる為だけの、量産的な菓子なんか作りたくない。でも借り入れがあるんじゃ、そこそこ売り上げないと店は回らねえからさ。作りたいもの作るには材料費もバカにならないし。けれど借金はだいたい返し終わった。だからもう『フォーク』の女なんかいらねえんだよ」
    「…じゃあ、別に彼女たちに恋愛感情は」
    「ねえよ、そんなもん」
     それどころか、性欲すら別に湧いたことはなかった。それどころか、ヤる前にそういう薬を飲んで、なんとか勃たせていたくらいだ。女たちはみんな猗窩座の「甘さ」に夢中で、そんなことは気付かなかっただろう。
    「好きな菓子作って、あとは好きなヤツに特別なのを作ってやるのが、俺のささやかな夢」
    「それって…」
     皆まで言わせる気か、とばかりに猗窩座は杏寿郎の顎を掴んでキスをした。自分の血入りの、ラズベリーソースの味が、僅かにする。杏寿郎には、なるべく甘さを感じるように唾液をたっぷり絡めて、舌を突っ込んだ。
    「ン、ふ、ッ…あッ」
     杏寿郎は嫌がるどころか、発情したように猗窩座のキスを受け入れて、もっともっと、とねだった。背中に手を伸ばされ、抱きしめられる。
     名残り惜しげな杏寿郎から口を離すと、改めて猗窩座は杏寿郎と向き直った。
    「信じてくれるか?ケーキ一つにつき、フォークは一つで充分だ」
     杏寿郎は、熱に浮かされような顔で「…また、君の血入りケーキ作ってくれたら考える」と掠れ声で呟いた。




     杏寿郎は、初めて猗窩座の自宅に呼ばれた。彼の住んでいる部屋は「pâtisserie rosé」が入っている建物の二階にあった。
     古いビルを改築したそこは、居心地の良さげな物件には見えなかった。比較的綺麗な外観にしてある店と違い、外付けの鉄製階段は錆びていて、ペンキが剥げている。急なその階段を猗窩座のあとをついて登ると、これまた古びた金属製の扉が見えた。人が住んでいる、というよりは事務所か倉庫のようだった。
    「ここに住んでるのか?」
    「ああ、風呂と寝るためだけ、みたいな部屋。だいたい店にいるしな」
     猗窩座はそう言いながら、重そうな扉を開けた。中はちゃんとした玄関も特になくて、すぐに広い部屋が目に入った。広々としたワンルームで、左端にはキッチン、真ん中にはソファとテーブル。右端にはベッドが置いてあって、その隣はユニットバスのようだ。あとは玄関脇に蓋つきの衣装ケースが二つ重ねてあって、その隣にはプラスチックの安っぽいチェスト。収納場所はあまりないらしい。家具も最低限だしインテリアにこだわりは無さそうだ。寝るためだけ、というのも頷ける。
    「そこ座ってな。新作血入りケーキ出してやるから」
     ソファを指差して、猗窩座はそう言うとキッチンに向かった。お湯を沸かし、一人用らしき小さな冷蔵庫に手をかけていた。
     ソファの目の前には、大きめの本棚があった。読書好きの杏寿郎はついそこに目がいったが、ずらりと並ぶのはどうやら製菓関係の書籍のようだった。あとはビジネスや経営に関するタイトルが何冊か。
     猗窩座は思った以上に仕事人間らしかった。たぶん趣味は仕事で、それから。
    「ひゃあ!」
     そこまで考えたところで、いきなり左の耳に指の感覚を感じて、杏寿郎は悲鳴を上げた。
    「反応いいな」
    「な、いきなり、な。…ひっ!」
     背後からイタズラをしかけてきたのは、当然この部屋の主の猗窩座だった。人差し指か何かを左耳の中に、すっぽりと入れていた。
    「こないだも思ったけどさ、杏寿郎ここ、感じるだろ」
     甘い声で熱っぽく囁かれて、杏寿郎はうっかりまた喘ぎそうになったのを必死にこらえ、猗窩座の手を振り払った。
    「やめてくれ!」
    「ほんとに?」
     そういうことはベッドでやってくれ、と言った方がいいのか考えたが、言うのはやめた。
    「それより、ケーキをくれ」
    「分かったよ」
     猗窩座は楽しそうにそう言うと、テーブルの前に小さな皿を置いた。そこにはチョコレートの小さなケーキが乗せられている。
    「さあ。甘い甘いケーキだ」
    「君の血入りの?」
    「そう」

     それは先程の耳への突然の愛撫より、よほど甘美な響きがした。
     丸い円柱上のような、チョコレートのムース。なめらかで美しい表面は相変わらず美しい。その上部分には金箔が散らされている。
    「杏寿郎、味は分からなくても食感はなんとなく分かるって言ってたよな?だから、味のバランスは度外視して、ムースのなかにガナッシュ(生クリームを混ぜた製菓用チョコレート)を固形のまんま下に入れて、上には白桃と固めのメロン入れてある。で、そいつらは血入りのチョコレートでコーティングした」
     つまり、甘さと、柔らかい食感に続いて、固い食感を一度に試せる、というわけだ。
    「凝ってるな、さすがだ」
    「お前のためならいくらでも。ま、売り物にはなんねえけどな。ほら」

     猗窩座は持ってきたフォークで、なめらかなチョコレートの表面を突き刺した。

    『ケーキ』がフォークでケーキを『フォーク』に食べさせる。

     そんなシュールさに密かに笑いつつ、杏寿郎は甘さに期待を込めて、猗窩座に向かって口を開けた。


     
     

     
     


     
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