夏の夜桜 蝉がそろそろ休み始める時間帯。昼間の暑さはだいぶ引いたが、それでもまだ蒸し暑さは残る。夏服とはいえ、制服のスカートが脚にまとわりついて鬱陶しいことこの上ない。
「ねー、詩織。せっかく期末も終わったし、アイス食べて帰らない?」
「この前、先生に見つかって怒られてたくせに懲りないね」
「あれはー!たまたまだよ!次は上手く隠れて食べるから!」
瑞稀(みずき)は暑さをものともせず、プリプリ意気込んでいる。「見つからなければイイっしょ!」マインドな彼女は懲りもせず、今日もアイスチャレンジをしようとしている。
「私はパス」
「詩織ってばマジメちゃんなんだから〜。たまにはハメ外してストレス発散しないと、爆発しちゃうよ」
そう言ってわざとベッタリくっついてくる。ただでさえ暑いのにやめて欲しい。それもこんな通学路のど真ん中で…。
「ほら、あの人みたいにさ」
腕を振り払おうとした時、瑞稀が遠くを指差す。そちらに目を向けると小さな公園のベンチで、酒を煽っている人がいた。涼しげなボブの黒髪に、淡い色のシャツを羽織り、足元は適当なつっかけと、いかにもくたびれた雰囲気を醸し出している。大学生くらいにも見える彼女の空気から、全単位落としたのかと想像してしまう。彼女は公園で遊ぶ小学生達をボーッと見ながら、ちょうど木陰の下で青いワンカップをちまちまと大事そうに呑んでいた。いや、あの死んだような目は子供達を捉えているのかさえ分からない。
「…」
「楽しいのかな…」
瑞稀がボソッと呟く。
「詩織があーなっちゃう前に私が養うからね!」
「ああなる前提で話さないでくれる」
そう言って二人は再び帰路を歩き始めた。
◇
夜になれば郊外の蝉は寝静まり、代わりに都会では人々の喧騒が活気づく。道端では既に飲みすぎて出来上がった人もちらほら。
「…」
人知れず路地裏に追い詰められた少女は、誰に助けを求めることもできない。ビルに囲まれたこの場所では、大声を出すよりも早く目の前の化け物に喰われる。人ならざる化け物に。大きな巨体は夜闇に溶け込み、何より額から生えた二本のツノが人ではない事を物語っている。しかし少女はただ短パンのポケットに手を突っ込んで、表情一つ変えず立っている。慌てるそぶりも、命乞いもしない。
「あんた、場所が悪かったよ」
「ニンゲン マリョク ニオウ」
化け物は鈍く何色ともつかない瞳を光らせ、黒く太い腕を勢いよく少女に伸ばした。そのスピードは襲いかかる野犬のごとく。
「ウッ」
しかしそれが少女に届くことは叶わない。指一本たりとも。少女の頭上から勢いよく飛び降りてきた何かは、一直線に化け物の腕を目がけて突っ込んできたかと思えば、次の瞬間には化け物は地面に頽れていた。化け物が咆哮を上げるより先に、首を落とされ音一つ発することも許されず、続け様に心臓を貫かれる。
「人様の契約者に手を出したテメエがいけねえんだよ」
霧散しゆく化け物だったものに、その言葉は届きはしない。
「私でチキンレースしないでくれる?八桜」
「悪い悪い!おっちゃんたちと楽しく呑み過ぎた!」
そう言って八桜が振り返る。黒髪のボブがわずかに揺れ、死んだような黄色い瞳がニカッと笑う。そして何よりも目を引く、水晶のように澄んだ二本のツノが、ビルの隙間から漏れる光を受けて煌めく。思わず手で光を遮った。
「まあ無事だったんだし、文句はねーだろ?なあ、瑞稀」
二メートル近くある長身が覗き込めば、視界には八桜以外見えなくなる。かなり季節外れな桜花爛漫な景色に瑞稀は小さく、妖しげに笑った。