新任教師明智先生と前歴持ちの雨宮くんの話⑦母が愛人関係にあった男との子供を身篭ったという話は母方の親戚には知れ渡っていた。その頃には父親にあたる男は母を見切り音信不通となっていて、母の家族や親戚達は腹の中の子供を堕ろすように強く言ったらしい。当たり前だ。そんな乱れた関係から生まれた子供など、醜聞でしかない。
しかし母は、最後まで首を縦に振ることはしなかった。その子供を産むことを受け入れた。家族や親戚達の反対を押し切り、自分の力だけで腹の中にいる子供を守り通す道を彼女は選んだ。…選んでしまったのだと、散々嫌味たらしく聞かされた。
母は生まれた子供を愛していたと思う。色んな負担があっただろうに、母はその子供の前で笑顔を絶やすことはしなかった。いつでも優しくしてくれた。
だからきっと──それが、身体にも心にも良くなかったんだろう。
結局母は力尽きたように早くに亡くなり、残された小学生の子供だけが母方の家族の前に戻って来た。子供は厄介な残りものとして扱われ、預けられたどこの家に行っても歓迎はされなかった。母譲りの栗色の髪を掴まれ、何度も叩かれ、身体には目立たない程度の痣が絶えず、まともな食事も用意されない日々を過ごした事もある。擦り傷だらけの膝を抱えながら何度も何度も涙を流したことは今でもよく覚えている。
そんな子供は──僕は、その頃からずっと考えていた。
決して裕福な暮らしではなかったけれど、それでも母が生きていた頃はあんなに楽しかった。
そのはずなのに、どうして。なんで、母は死んでしまったのだろう。どうしたら、母は死ななかったのだろう。
父はどうして、いつまで経っても自分を迎えに来てはくれないのだろう、と。
目覚まし時計の音と、遠くから聞こえる物音と油が跳ねる音で意識が覚めた。前者は毎日親の声より聞いた音だが、後者は一ヶ月目にしてようやくその音がある朝に慣れて来た。
……………
『将来を考えて最低限大人二人が過ごせる広さの部屋に住みなさい』と口うるさい冴さんの言葉と、仕事柄だんだん増えていく本棚を鑑みて渋々見つけ出した今の1DKの物件。
冴さんの言う『将来』なんて依頼の事ではなく恋人の一人でも見つけろというものだろうが生憎そんなものに興味が湧く日は一生来ないだろう。赤の他人を自宅(自分の領域)に入れるなんて、ましては一緒に暮らすだなんて考えられない───そう思っていたはずだったが、今現在この部屋には僕以外にもう一人、赤の他人が暮らしている。
…あ。おはよう明智
寝室から出るとキッチンの前に立っていた少年がいつものように振り返った。かつては無愛想で、心を閉ざし大人への警戒心の塊だった少年は、今やこうして笑みを浮かべながらこちらに接してくる。
───彼の名前は雨宮蓮。
僕が務める高校の、僕が受け持つクラスに居る生徒の一人。冤罪によって前歴がついてしまった、腐った大人によって人生を狂わされた子供。
蓮は現在、冤罪のせいで完全に孤立している。学校でも、そして自宅でも。雨宮家は互いに『人を殴った息子』と『自分を信じてくれない親』という認識になっており、互いの意見は平行線を辿っている。並行になった認識は交わることはない。恐らく放っておけば家庭崩壊は間違いないだろう。だから、なんとなく放っておけなくて思わず引き取ってしまったのだ。
朝ご飯できたところだから早く顔洗ってこい
年上の大人──ましてや担任の教師に言っているとは到底思えない発言だが、そこの矯正は無理だととうに諦めている。言われるがまま洗面台に向かい、洗顔し終わる頃には寝起きでぼんやりした頭もすっかり覚めた。
(それにしても意外だな…)
自分から誘っておいて言うのもなんだが、自分の家に他人が居る生活に対して僕自身がいつ限界を迎えることやらとずっと懸念していた。しかし、蓮が元々大人しい性格な上に気遣い上手なところもあるためか、同じ部屋に居るにも関わらず気配をあまり感じず、逆に億劫だった家事を全て任せる事でこちらの負担も減り、邪魔をすることも滅多にしない。
互いの凸凹が完全に合致して、ストレスがない。蓮との同居生活は驚くほど安定していた。
へえ、鮭なんか買ったんだ。絵に書いたような朝ご飯って感じだね
ああ。通販でキロ単位で売ってたのが安かったんだ。こういうのも良いだろ、たまには
蓮が来るまでは台所に立つことなんてほとんどなかったから台所回りに関して今は完全に彼の独壇場となっている。きっかけはお節介だったが、それが彼には合っていたようですっかり料理好きに目覚めてしまった。そんな蓮が作った本日のメニューは焼鮭と卵焼き、味噌汁とお椀に盛られた白飯だ。
どうだ?卵焼き、美味く巻けてるだろ
…うん。器用だね。美味しいよ
ん、良かった
十七歳の男子高校生が作るものと考えたら味は悪くない。毎回『どうだ?』と聞かれて、美味しい旨を伝えれば今のように嬉しそうに蓮は口を緩める。僕の反応でモチベーションが上がるようで、嬉々としてスマートフォンで色んなレシピを検索して見せてくる。そういう所はやはり年相応の子供なのだなと思う。
それにしても本当にレパートリー増えたね
明智に飯を食わせるの、思ったより楽しいから
僕が君に飯を食わせてるんだよ。僕を養ってるみたいに言うな
少なくともあんたの栄養管理は俺がしてるんだから、養われてるだろ。ほら、ご飯のお代わりは?まだご飯のお供が残ってるぞ
…………………
言われてみれば、持っていた茶碗の白米は空となり鮭も味噌汁も残っている。前を見ればニヤニヤとムカつく笑みを浮かべながら手を差し出す蓮。食事に関しては完全にこのガキの手のひらで転がされている自覚はあるが、まあ食べ物に罪はない。癪だが黙って茶碗を差し出せば、蓮の口は計画通りと言わんばかりに満足気に釣り上がった。
朝ご飯食べるようになってから寝ぼけた頭にも栄養が回って調子良いだろ
別にいつもと変わらないよ
あんたがそう思っててもクラスの奴らは結構気付いてるぞ。宮野はあんたのことよく見てるから『最近の明智先生血色良くなったよね』とか『スッキリしてる』って周りと話してる
…ああ、それ前に言われたよ。彼女、本当に僕の顔よく見てるよね
明智は女子からモテモテだからな。でも宮野は男を見る目ないよ。だってイケメン王子の明智センセーは生徒に愛着無しの冷酷寝起き最悪腹黒大魔王なんだから
人聞きの悪いこと言わないでくれない?大体そんな人間が教師やってたら君みたいなクソガキをわざわざ自分の家に引き取ったりするわけないだろ
だったら生徒のことクソガキって言うな
なんて毎日繰り広げられる他愛ない話も、意味が無いように見えて意味はある。
前歴持ちだからと周りから疎まれ、孤立し、本人も塞ぎ込んでいた蓮の口から直接関わった話ではないにしろ学校での話が出ることは大事なことだ。口数は余計な程に増え、表情も柔らかくなった。彼の視野が広がり、心身共に開放的になっているという何よりの証だから。