新任教師明智先生と前歴持ちの雨宮くんの話⑨法廷内の空気は重くて苦しい。
それは罪を犯した人間を裁く場所である以上、当然の話ではある。しかし一年前に被告側として座ったあの日より、今日の方が一層空気が重く感じた。それは隣に座る明智と冴さんからも感じるし、検察側からもその空気は痛いほど感じる。一年前と変わらないはずの裁判。弁護士が明智に変わったくらいしか変化はないと思っていたが、どうもあの日から随分と人間の顔ぶれが変わっている。
これより雨宮蓮の裁判を開廷します。検察側、弁護側共に準備は出来ていますね?
まず最初の掛け声とともに左右を見渡すこの場の長、裁判長と呼ばれる俺達の審議を見届ける役割の男が違う人物に変わっていた。厳格そうな顔つきは、見た目通り全ての『真実』を見届け、公平な判決を下す覚悟を持っているのだろうか。
弁護側、問題ありません
裁判長の問いかけに凛とした様子で明智が答える。明智と冴さんもまた、一年前はいなかった。一年前に俺の隣に気だるげに腰かけていた男は雇われで、とっくに解任したと明智が言っていた。
検察側、も……問題、ありません……
そして、明智と同じく向かい側に座る男が明智とは真逆の様子で震えた声で裁判長の問いかけに返事をする。
向かい側には検事席には中年の男が二人並んで座っていた。一人は一年前に俺を徹底的に有罪へと追い込んだ、検事の男。この男だけが一年前と変わらない。しかし、その隣。一年前には検事の男だけだった検察側の席には、もう一人。男が座っていた。スキンヘッドでサングラスを掛けた見るからに機嫌が悪そうにしている大柄の男。あの男には、見覚えがある。一年前はあんなに嫌らしく笑っているばかりだった検事の男があんなに狼狽しているのは恐らく隣の男のせいなのだろう。
...蓮。向こうに座ってるサングラス掛けたあのハゲ、君には見覚えがある?
隣に座る明智が小声で話しかけてくる。
しかしその横顔はずっと向こう側に向いていて、こちらを見ていない。初めて見るような冷めきった視線が、射抜くように検事の隣の男に向いている。
......あ、ああ。テレビで...次期総理大臣って言われてた人だろ。獅童、正義...だっけ?
そうだね。だけど君にとって、アイツはテレビの向こう側の存在じゃないはずだ。あのクソみたいな顔をよく見て、思い出して
え...
君が自分を殴ったと宣った原告側の男。君が女性を助けようとして肩に手を置いて勝手にすっ転んだ酔っ払いは、アイツだろ
っ!
再び向かい側に視線を向ける。
酷く萎縮した様子の検事と話す獅童正義の顔を見て、頭にピキっと細い針が刺さったような痛みが一瞬走る。
防衛本能がぼんやりと忘れさせていた一年前の記憶を掘り起こして、そして確信する。確かに、あの男だ。あの見た目、あの声。テレビで見たわけじゃない。あの日に聞いたそのままの姿だ。
...そうだ。アイツに話しかけて、俺は。
......うん、その反応で充分だ
明智?
隣に座る明智の方へと顔を向けると、ずっと向かい側を見ていた明智が横目でこちらを見ていた。
視線が合うと、フッと微笑んでから再び向かい側に視線を向けた。
獅堂先生、この度は選挙活動でお忙しい中を来て頂き誠にありがとうございます。無名の議員から次期総理大臣候補にまで上り詰めた偉大な貴方ににお会いできて本当に嬉しく思います。こんな場所でなければサインでも頂いてうちの事務所に華々しく飾っていた所でした
いつも学校で見せるような爽やかな笑顔で明智が獅堂に笑いかける。言っていることは人懐っこいが、なんとなく明智は内心そんなこと微塵も思ってない気がする。冴さんが呆れたように小さく溜息をついてるから、恐らくこの予想は合っている。一方、そんな明智に対して獅堂は鋭い視線で明智を睨み返した。
おい。越前と横山はどうした
獅堂正義は明智に対する怒りを隠していない。
彼の言う越前とは例の弁護士の名前だ。横山は確か……裁判長の名前、だった気がする。
ああ、越前先生と横山裁判長の事ですか。それなら話は簡単です。お二人は今回の裁判にはいらっしゃいませんよ
なに……?
僕こう見えて実は兼業で教師をしてまして。雨宮くんは僕が受け持つクラスの生徒なんですよ。だから担任として放っておけなくて。それを越前先生に話したら、快く弁護権を譲って頂けました。偉大な先輩を持てて僕も光栄です
譲っただと……?奴がか
はい。横山裁判長についても同様で、あの方は現在長期休暇中ですから。本日は山崎裁判長に代理について頂いたというだけです。僕も何度か山崎裁判長が居る裁判に立ったことがありますが、いつも公平な視点で審判してくれますよ。いやあ大切な生徒の人生が掛かった大事な裁判ですから、今回も信頼できる方に務めて頂けて僕も安心しました。……まあそういうことです。ご納得頂けましたか?
明智はそんな獅堂からの視線も意に介さず、にこやかに返す。明智が話せば話す度に獅堂の眉間の皺が増えていく一方だ
明智と言ったか。『コレ』は全て貴様の差し金か?
はは、先生の仰ってることが僕には分かりませんね。何の話ですか?
誤魔化すなよ小僧。こんな無法が許されると思っているのか
無法も何もありません。だって弁護側の担当が代わり、裁判長も前任が不在のため代理の裁判長が穴埋めとしていらっしゃっただけでしょう?結果として今回の裁判では検察側以外の全ての人間が変わったことにはなりましたが、それだけじゃないですか。前回は不在だったはずの先生が今回出廷を命じられたのだって、全て裁判長のご判断です。僕は何もしていませんよ
……貴様
先生は随分彼らが居ないことを気にされてますね。まさか彼らが居ないことで『雨宮蓮が獅堂正義を殴った』という検察側の主張が不利になる事でもあるんですか?はは、そんなことありませんよね。………だって越前先生は弁護人。検察側の『敵』なんですから
獅堂は明智を睨み続ける。そして明智もまた、不敵に口を釣りあげながら目の前の相手を射抜くように見つめ返している。
明智の、いわゆる対戦相手に当たる相手は検事であるはずだが、その視線は法廷に入ってからずっと獅堂正義にのみ向いていた。
(……明智……)
……明智は言っていた。
一年前の裁判は、ほぼ全ての関係者に原告──つまり獅堂の手が回っていた。だからあの日の裁判に、俺の無実を訴えてくれる味方など一人も居なかった。俺は獅堂によって徹底的に潰される運命にあり、弁護士も裁判長も検事も証人も全てが獅堂の味方であったのだと。その上で明智はこう話していた。『そうならないように、対策をした』と。だから、その『対策』が今この状況。弁護人の座に自分が着き、獅堂の認識外の、信頼に足る裁判長を席に着かせる、ということ。
つまり一年前と違い、今日の裁判に獅堂の手が回った人間はあの検事以外にはいない。明智の狙いは、これだったのだ。
お喋りはそこまで
話を区切るように、裁判長が仏頂面のまま木槌を叩く。
弁護人。本法廷は貴方からの再審請求が受理されたことで開かれております。被告人の無実を証明する決定的な証拠が見つかったものだと考えてよろしいのですね?
裁判長の温度を感じない問いかけに、明智は大きく頷いた。
はい。弁護側には被告人の無実を証明する証拠と証人の用意があります。それと、前回の裁判では『事件直後による精神不安定』として被告人の話を聞く時間は設けられませんでしたが、一年の時間を経て被告人も心と記憶の整理がついたと思います
……ふむ。確かに、前回の裁判では被告人の証人尋問は行いませんでしたね
はい。ですので、まずは被告人本人の話を聞くところから始めても良いかと
……分かりました、まずは被告人の話から聞きましょう。……被告人。前に
あ……は、はい!
裁判長に呼ばれて弾かれるように立ち上がって、法廷の真ん中。裁判長、検事、弁護士、全ての視線が交わる中心の位置まで移動する。裁判長と検察側の視線が刺さるように痛い。
………でも、明らかに一年前とは裁判の流れが違う。元々俺の無実を証明するための再審であるからか、俺側の話を聞こうという意思がある。こんなにも心強い気持ちは一年前には全く無かった。
……では、尋問を開始します。弁護人、始めなさい
分かりました
裁判長の声掛けに、明智が席から立つ。
二回目ですし、細かい流れは前回散々話したでしょうから単刀直入に聞きます。……雨宮くん。君は事件当日…獅堂先生を殴ったとされていますが、実際には彼に何をしましたか?
感情を感じない冷たい言動に少しだけ戸惑ったが、言われた内容はすんなりと頭に入った。こちらを見てくる明智の視線はかなり鋭いが敵意はない。 ……煉瓦色の双眸が伝えて来る、『臆せず、全てを話せ』と。
……俺は、女の人に絡んでた獅堂、さんを止めようとして、肩に手を置いただけです。殴ってません
では獅堂先生が怪我を負ったのは君が殴ったからではない、ということですね?
はい。俺は何もしてません。止めようとした俺の手を振り払おうとして、勝手に転んで、それでついた傷だと思ってます
い、異議あり!そんな話はデタラメです!被害者である獅堂氏は実際に額に流血するほどの傷を負ったのです。それは被告人が彼を殴ったからだと前回立証されたし、弁護側もそれは認めていたはずだろう!
……確かに。前回は弁護側──越前弁護士はそれを認めておりました。明智弁護士、検察側の主張についてはどうお考えですか?
検事の男が慌てたように意義を申し立て、裁判長が明智に尋ねる
隣に獅堂が居るからかずっとその声は震えているが、言っている内容は一年前と変わらず『俺が殴った』という主張から来るものだ。一年前はその主張があっさり通ってしまった。弁護士も反論せず、裁判長も何も言わなかった。全員でそうするよう仕向けられた裁判だったから。
……その事ですけど。そもそもどうして、傷は額にあるんでしょうか?
しかし、明智はその主張に食いついた。
ど、どういう意味だ……
雨宮くんは僕より背が低く、そして獅堂先生は僕より背が高い。つまり、雨宮くんと獅堂先生の間にはかなりの身長差があるわけですよね
それがどうしたと言うのだ!そんなの被告人が額を殴ったからだろう!!
苛立つように声を荒らげる検事。そんな声すら聞き流すように、明智はわざとらしく考え込むように口元に手を当てる。その仕草はさながら推理中の探偵のようだ。
……でも、よくドラマなどでそういう描写がありますが、その手の喧嘩シーンって大体顔に拳を向けてますよね。わざわざ殴りにくい額なんて場所を執拗に血が出るほど殴るでしょうか?僕が雨宮くんの立場だったら、頬か顎、または鼻頭を狙います。そうは思いませんか?
な……そ……それは………
そんなものは貴様の主観でしかなかろう。そこのガキはそうではなかった。それだけの話だ
狼狽える検事の代わりに獅堂が口を開く。
明智の言う通り、あの男を殴ろうと思ったとして額に拳を向けようとは思わない。仮に腹にパンチをして、あの男が痛みで前屈みになって殴りやすい高さになったとしても額を殴る気にはならない。明智と同様、顔面を殴るだろう。だから明智の主張はかなり的を得た正論だ。
……そうですね。確かに今の発言は僕の主観でしかありません
筋が通った主張をバッサリと切り捨てられてもなお、明智は落ち着いている。
こう反論されることもアイツにとっては予想の範囲内なのだろう。
でも今の被告人の証言は嘘偽りのない真実です。それを証明する動画を僕は入手しております。……裁判長、その動画を証拠品として提示させてください
分かりました。受理します。……係官、再生機器の用意を
裁判長の指示の後、裁判長の前、弁護側、検察側の机の上と俺が立つ証言台の前にそれぞれにタブレットが用意される。
間もなく動画が再生されると、そこには俺が映っていた。俺ばかりが映っているけれど、俺が顔が見えない男の肩に手を置き、男が地面に倒れる。
動画の中の俺の格好も、俺以外の声も、そのやりとりも、景色も、覚えしかない。これはあの日の映像だ。獅堂の顔も、女性の顔も映ってないけれど、服装はあの人同じだから。間違いない。
さて、被告人。……この動画の内容に覚えはありますね?
動画の再生が終わり、間髪入れずに問われた明智の言葉に俺はすぐに強く頷いた。
はい。あの日の、あの時の動画です
い、異議あり!こんなものは証拠にはならない……!!被告人と誰が会話しているのかが分からないだろう!これが事件当日のものである証明にはならない!
この動画の撮影日は事件当日、当時の時間に撮影されたものです。検察側はそこを認める気はないということですね?
はっ!当たり前だ。顔が分からない以上、それが事件当日のものかの断言はできない!!
確かに動画には獅堂の顔が映ってない。この動画に収まっているのは俺かま獅堂の肩に手を置いて、俺が連行されるまでの一連の流れだが、動画には俺しか映っていない。俺が男の肩に手を置いて、男が転んで、俺が警察に連行されることなんて一年前のあの日しかないが、相手の顔が分からない以上あの日の動画であるという決定的な証言にはならないと言われても、納得が言ってしまう。
(あ……)
けれど。
前に立つ明智の横顔は、まだ笑っていた。
確かに動画には被告人の顔しか映っていない。では、この動画を撮影した人間ならばどうでしょう?撮影しながら、被告人以外の人間の顔も見ている可能性がある。そうは思いませんか?
な……馬鹿な、そんなもの居るわけない!
検察側が何故そう断言できるのか僕には分かりかねますが……少なくともこの動画が存在している以上、撮影した人間が確かに居る。今日はその撮影者に証人として来てもらっています
……分かりました。その証人の入廷を許可します
裁判長が頷く。
明智は『ありがとうございます』と告げると、次に俺に視線を向けてきた。
……?
視線が合うと、フッと小さく微笑む。
そして視線を外して、後ろに控えている係官の方に声をかけた。
すいません。控え室にいる、この動画の撮影者───三島由輝くんを呼んで来てください
え……?
三島由輝。
一年前、事件が起こるまではずっと仲良くしていた元クラスメイト。事件が起きてからは避けられ続けて、疎遠になった。とっくに見放されたんだろうと思っていた、大切な友達。
その名前を、こんな場所で聞くことになるとは夢にも思っていなかった。
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