Recent Search
    Create an account to secretly follow the author.
    Sign Up, Sign In

    manju_maa

    @manju_maa

    ☆quiet follow Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 65

    manju_maa

    ☆quiet follow

    時刻は六時。今日もまた、朝を迎えた。次にスマホを手に取り、通知を見る。起きた直後の確認事項だ。

    「……ん、良かった」

    専用のアプリと繋げて毎分事に通知がくるそれは、いつも通りの数値が表示されている。ひとまず朝の懸念はこれで解消された。
    ベッドから降りて自室を出る。洗面所で顔を洗って、残った眠気を完全に醒ます。
    朝ご飯の用意をするために台所に立って、一通りの支度を済ませる頃には一時間が経っており、時刻は七時を迎えていた。
    そろそろ明智は起きた頃だろうか。コンロの火を止めて、明智の自室へと向かう。ノックをして、返事を待たずに部屋に足を踏み入れた。

    「明智、起きてるか」

    声をかけながら傍まで歩み寄ると介護用の電動ベッドの上に居る明智は、返事をする代わりにこちらを見上げた。意識ははっきりしているようなので起きてからある程度の時間は経っているようだ。

    「気分、どうだ」
    「別に。いつも通りだよ」
    「そうか」
    「起きたの、随分前だから。測るなら測っていいよ」
    「ん、分かった」

    ならばこちらも都合がいい。
    電動ベッドのリモコンのボタンを押すとベッドの角度が曲がり始め、横になっていた明智の体勢がベッドに背を預けたまま身体を起こしたような状態になる。ベッドの傍らに置いた血圧測定器を取り出し、差し出された左手の間接部分にカフを巻き付けて計測ボタンを押す。
    ギュイーンという音と同時に、マジックテープで巻き付けられたカフが引き締まっていく。次第に繋げられた本体の画面にカフが測定した血圧と脈拍の数値が表示された。

    「………………」

    測定結果として出た数値は標準値から大きく下回っている。カフを取り外し、次に出したのは家庭用の心電図計測器だ。これも、血圧測定器も、どちらも毎朝測定して記録を付けて体調の管理をしろという医師からの指示で貸してもらったものだ。
    画面には38という数字と一緒に小さな波形がジグザグの形を作りながら延々と流れていく。心拍に合わせて鳴り続ける電子音は間隔がかなり遅く、それだけ心拍数が少ないということだ。最後に体温計で体温を測ると、画面には35.4と表示されていた。
    重度の低血圧と徐脈に低体温。本来ならばすぐに病院に駆けつけるべき症状だが、それが『今』の明智にとっては標準値である。心配じゃないと言えば噓になるが、病院に行ったところでどうすることもできない。今できることは計測した数値を記録用のノートに書き記し、近々通院する時に医師にそれを報告すること。毎朝の日課であるバイタルチェックはこれで完了だ。

    「朝ご飯できてる。食べれそうか?」
    「少しだけなら」
    「ああ、食べれるなら食べた方がいい。リビング来れそうか?こっちに持って来てもいいけど」
    「…………いい。そっち、行く」

    言いながら、明智は重々しい動作でベッドから身体を起こして降り立つ。立ち上がった所でふらりと傾いた身体を慌てて抱き留めた。いつもの脳貧血が起きたのだろう。

    「大丈夫か、無理するな」
    「……っ、……平気、だいじょ、ぶ…」

    抱き留めた明智は真っ青な顔のままぜーぜーと息を切らしている。ベッドから起き上がり、立つ──たったこれだけの行動で、だ。酷い時はこの動作だけで汗をかいてる日もある。いつも見ている姿だというのに、こればかりは何度見ても顔を顰めてしまう。

    「肩、貸そうか」
    「いらない……歩かせて」

    俺の身体を軽すぎる力で押し返して突き放した明智は、覚束無い足取りで部屋から出ていく。歩幅を合わせながら追うように後に続き、二人でリビングまで移動した。
    ダイニングテーブルには既に俺と明智それぞれの朝食を盛り付けられるよう皿だけが並べてある。明智はそこの自分用の皿が置かれた側に腰掛けて、疲れきった様子で深い息を吐いた。

    「すぐ用意するから。飲んでろ」
    「…ありがと」

    ストローを挿したコップに入れた白湯を明智の机の前に置いてから、作った朝食の盛り付けをする。
    先に明智の分として、お粥を茶碗に入れてから、予め軽くほぐしておいた魚と、小さく切った豆腐の味噌汁、細かく刻んだ野菜のお浸しをそれぞれ少量で盛り付ける。自分用の食事のメニューは変わらない。お粥が白飯で、魚はほぐしてない切り身の状態、量は普通盛りというだけだ。この違いに明智は何も言わない。言ったところで意味がないことは本人が一番分かっているから。

    「「いただきます」」

    二人で手を合わせながら、ぺこりと頭を下げる。明智はレンゲを手に持ち、それですくい上げたお粥をぱくりと口に入れた。

    「固くないか?一応味見はしてあるけど」

    ゆっくり租借しながら、こくりと頷く。
    柔らかいお粥を一口入れただけでも、今の明智にとっては咀嚼に時間がかかる。あまり濃い味付けのものは食べれず、油が多いものも胃が一切受け付けない。固いものは噛みきれない、生ものも禁止。病院で目が覚めてから今日までずっと、明智は今のような介護食に近い献立ばかりを食べ続けている。本人はもともと食事に関心はなかったからと気にしていない様子だけれど、だからってそれが良いわけは無いと思う。かつては俺が作ったルブランのカレーを『悪くない』と言っていた明智も今ではそのカレーすら食べることができない。

    「蓮」

    …と。ようやく嚥下が終わったらしい明智が静かに話しかけきて、ハッとする。いつの間にか俯いていたらしく、弾かれるように正面を向くと明智はじっとこちらを見つめていた。

    「……僕はこの身体を受け入れてる。自分がやったことだし、自業自得だから。今までやったことを思えば、軽いものだと思ってる。だから、君がそんな顔をしてまで気に病むことは何もない。…まあ、いつも面倒見てもらってる僕が偉そうに言う事でもないけどね」
    「……明智」
    「嫌になったら気にせずいつでも出て行って構わないんだよ。無理をしてまで君の人生を僕なんかに使う必要はないんだ。こんな暮らし以外でやりたいこと、行きたい場所があるなら…君は迷わずそっちに行くべきだ」

    そう言いながら明智はレンゲからフォークに持ち替え、ほぐした魚を刺して、それを口に運ぶ。文字通りの意味で箸より重いものが持てなくなってしまった明智は、もう箸を使うことも難しい。だから毎日の食事はスプーンとフォークしか使えない。

    「………………俺は」

    確かに明智の言う通り、この生活が始まってから趣味の時間が一気に減った。必要最低限の外出しかできなくなった。時折怪盗団の仲間達が遊びに来てくれるけど、互いにずっと明智を気に掛けながらの時間を過ごしている。明智を介護しながら一秒でも気が抜けない、不自由なことばかりの生活。
    ……でもそれを苦と思ったことは一度もない。

    「無理なんかしてないよ。嫌だと思ったこともない。だから、そんな悲しいこと言わないでくれ」
    「……………」

    咀嚼をしながら、ジッと見つめられた。信じてない目つきである。
    そんな視線に笑いかけてやる。

    「俺がお前の面倒を見るって自分で決めたんだ。お前が自分で自分の道を決めたように、俺も俺の道を自分で選んだんだ。……お前のそばに居たいんだよ。どんな身体になってても構わない。今を生きてる、明智の隣に」
    「……………そう」

    明智は、容認の言葉も拒絶の言葉も口にはしなかった。
    獅童のパレスで別れてから色んな出来事を経て、知らぬうちに搬送されていた病院で意識を取り戻してから今日まで、コイツはずっとこういう態度だった。


    〇 〇


    明智には、後遺症がある。
    獅童のパレスで自身に暴走化を掛けたあの時の身体的負担から来たもので、分かりやすく言えば軽度の廃人化状態だ。今まで明智自身が奥村邦和を含めたあらゆる人間達を廃人化させてきたが、症状としてはそれと同じ。ならば奥村達と同じように死んでしまうのかと言われれば、現状その兆しはない。
    …ただ、内臓機能と全身の筋力が著しく低下しているそうだ。今のところそれらしき症状は無いと本人は言っているが、もしかしたら脳神経にも少し異常があるかもしれないとは言われている。そしてその中で、一番重症だったのが心肺へのダメージだった。
    毎朝血圧と心電図を計測しているのもそれが理由で、平均値を下回っている状態が基本になってしまっているので毎日のバイタルチェックが欠かせない。ただずっと寝たきりというわけではなく、短い距離、軽い物であれば自立歩行も把持も自分で出来るし、排泄も一人でできる。その上で日々の生活で心拍数が上がるような行動は禁止されており、今の明智が自分の意思で動き回れる範囲内は自宅の中だけになっている。外出する時は刺激になりそうな場所は避けて、身体を動かさないよう車椅子での移動が必須。入浴時はもしもの時に俺がすぐ対応できるよう近くで控えていなければならない。
    そういう意味では、明智の身体はもう一人で生きていく事は困難な状態だった。

    「明智?」

    買い物から帰宅すると、明智はソファーに身体を預けながら寝息を立てていた。投げ出された手の近くにはリハビリ用の柔らかいボールが落ちている。握り続けて疲れてしまったのだろう。些細な動きでも今の明智にとっては過重で、すぐに疲れてこうして眠ってしまう。起こさないように静かに隣に腰かけて、長袖から見える白い手に重ねるように自分の手を置いた。

    「(…冷たい)」

    人間の一般的な心拍数は一分間に60回から100回とされているが、今の明智は身体を動かしてようやく50回未満。寝起きや安静時はずっと30~40回の値のどこかまでしか届かない。今のように寝ている時はそれすらも下回っている。手首に装着してある専用の計測器の通知ではそう表示されていた。心拍数の低下に伴って呼吸数も減っており、こうして隣で寝ている今も口から吐き出される息は小さくて、少なくて、ゆっくりだ。
    それでも明智はこうして生きている。機関室のあの時が最期の別れで、年明けの一か月間が本当に最初で最後の幸せな夢だったかもしれない。それを考えれば後遺症が残ったくらいなんだというのだ。お互いに怪盗や探偵をしていたあの頃のように色んな場所に出かけることはできなくなったが、五体満足で、会話もできる。隣に居てくれる。俺にとってはそれだけで幸せだし、充分だった。

    「ん………」

    小さな声を上げながら明智がゆっくりと目を開ける。ソファーに全身を預けたまま、眠そうな顔がこちらに向いた。

    「……おかえり…今帰って来たの?」
    「ああ、たった今な」
    「ふうん…」
    「リハビリ頑張ってたのか?」
    「…すぐ疲れちゃったけどね」

    ふう、と腹の底から息を吐く。
    呼吸数が減っているから、こうして時折大きく深呼吸をしないと肺まで息が届かないそうだ。

    「眠いならベッドまで運ぼうか?横になった方が楽だろ」
    「…………眠くはないけど、ベッドには行きたい」
    「なんだそれ」
    「ん」

    明智が両手を広げた状態で、俺の顔を見つめて来る。
    これは『俺に抱えて運んでほしい』という明智なりのサインだ。体重がかなり落ちてしまった今の明智を抱えて歩くのは、家の中の移動程度ならそこまで苦ではない。下半身と上半身それぞれに手を入れて、そのまま持ち上げると明智はくっ付くように身体に抱き付いて来た。こういう時の明智は素直で、なんとなく甘えてくれているように感じて個人的には嬉しく思う。

    「ほら、ついたぞ」

    リビングから明智の自室まで移動して、あっという間にベッドの前まで到着した。しかし下ろそうと声をかけても明智は俺から離れようとしない。胸元に寄りかかるように頭をくっ付け続けている。

    「明智?」
    「……蓮の心臓はずっと早いね」

    ぼそりと呟いた明智は俺から離れないままだ。
    今回はやけに身体にくっ付いてくるなと思っていたが、どうやらそういう意図があってベッドに戻ることを決めたらしい。

    「お前が遅すぎるんだ。これが普通の速度なんだよ」
    「…そうだね。もうずっと遅いままだから、新鮮だった気がして」
    「リハビリすれば人並みに戻れるかもしれないって言ってただろ。ゆっくり頑張っていこう。時間はたっぷりあるんだから」
    「…………」

    満足したらしくようやく身体が離れたので、そのままベッドの上に寝かせてやる。
    剝いでいた掛け布団を横たわった明智の上にかけて、なるべく近くに居てやれるようにベッドの端に腰かけた。明智はずっと、俺の顔だけを見つめていた。

    「……ねえ蓮」
    「ん?」
    「キスしてって言ったら、してくれる?」
    「キス?」

    こくりと頷く。
    明智の方からこの手の話題が出ることは、とても珍しい。というかこの生活が始まってから初めてだったのではないだろうか。
    しかし会話自体に不自然さや唐突さはない。だって俺達は学生時代、『そういう関係』になったことがある。愛を語らい、キスをして、抱いて抱かれた。そういう時間をあの頃の俺達は何度か過ごしていた。その関係は明智が俺との同居を拒まなかった時点でまだ続いていると勝手に考えているんで、何もおかしいところはない。
    ただ今の明智とは、そういう時間はもう作れない。だから、その手の意識は向けないようにしていた。けれど、明智のことを好きな気持ちはあの頃から変わっていない。勿論あの頃のように濃密な時間を明智と過ごしたいという気持ちはしっかり残っている。キスをするだけならば身体にも負担もないだろう。明智の方から望むのならば、俺が断る理由はない。

    「いいよ。分かった」

    ベッドの上に乗り上げ、明智の身体に馬乗りになるように覆いかぶさる。
    両手で冷たい頬を押さえながら、そのまま唇を交えた。すぐに唇を離して見つめ合う。熱がこもった瞳は真っすぐ俺だけを見つめている。『まだ足りない』と目が伝えて来る。
    もう一度キスをして、呼吸を交えながら何度も何度も唇を重ねる。

    「…ん…っ…」

    唇を再び離す。
    目下にいる明智は苦しそうに顔を顰めながら、何度も浅い呼吸を繰り返して胸を押さえている。きっと心拍数が増えたことで心臓が悲鳴を上げているんだ。

    「……明智。これ以上はダメだ」

    『もうやめよう』とジッと見つめ続ける目に訴えるも、潤んだ瞳は首を横に振ってそれを拒み続けている。

    「でも…」
    「…もし、これで死ねるなら……それはそれで、良いと思うよ」
    「バカ言うな。お前はよくても俺は嫌だ」
    「……嘘。久々にキスできて、喜んでるくせに。素直になりなよ……本当はずっと、したかったんでしょ」
    「………………」

    ……否定ができなかった。
    否定も肯定もしないまま微笑むその顔に引き込まれるように再び唇を重ねる。何度も何度も重ねて、重ね続けて、そして───

    「明智」

    苦しそうに息を切らして、時折呻く声がする。握り返しされた手には力がない。寒くもない時期なのに大量の汗が滲んだ身体は、あれだけ冷たかったはずなのに随分と火照っている。

    「……お前が好きだ。あの頃から、今もずっと」
    「…っ、……うん……それで、いいんだよ……蓮」

    掛けた言葉と自分の行動が何処までも矛盾している。
    どう見ても目の前にいる想い人は苦しそうなのに。限界なんてとうに超えていて、今の明智の身体ではもう耐えられない。それが分かっているのに。悪いことだって理解しているのに。医者からの言いつけを悉く破ってしまっているというのに。止められない。
    こんなに好きなのに、俺は今明智を苦しめている。殺しかけている。それでも止めないのは明智がずっと嬉しそうにしてるから。明智が好きだから。

    …ああ、本当に最低だ。最低だって分かっているのに。一度膨らんでしまった気持ちは、もう抑えきれない。

    ──最後にまた、その唇にキスをした。















    次に目が覚めたとき、明智の自室は薄暗かった。
    介護用なだけあって明智のベッドはマットレスがしっかりしていて、寝心地が大変良い。すぐ横を見れば、明智が静かに眠っている。
    さっきまであれだけ苦しそうに息を漏らしていた明智は、今は穏やかな顔で再び少ない呼吸で小さく息をしている。そっと首筋に手を添えると、疲れきった身体を休めるように脈拍は酷くゆっくりになっていた。止められなかったとはいえ無理をさせすぎてしまったと、今になって後悔の念に駆られる。

    「……なあ。お前はずっと俺のそばに居てくれるか?」

    返ってくる言葉はない。こんなに近くに居るのに、明智がとても遠い所に居る気がする。

    「……明智」

    ……心の底では分かっている。明智はきっと、長生きできない。それが十年後か、五年後か。はたまた一年後、一ヶ月後、数日後になるかは分からない。灯火が少しの風でもあっという間に消えてしまうのと同じだ。弱りながらも懸命に動き続ける彼の心臓はいつか、遠くない日に。そのまま静かに。消えるように止まってしまうだろう。

    「……………」

    だからどうか。
    その時が来るまでは───明智の傍に居れますように。

    「げほっ、げほ……!……ぉえ……っ」

    胃の中身が逆流して、熱くて辛いそれを吐き出した。
    息が苦しくて胸が痛い。呼吸がしたいのに、酸素を吸いきれない。

    「明智。大丈夫だから、ゆっくり」

    床に蹲る僕の背中を擦りながら蓮が声をかけてくる。
    目の前の床にはたった今吐き出した嘔吐物がある。噛みやすいように細かく切られた野菜が解けた茶色いドロドロとした液体と白米に混ざっている、カレーだったもの。食べた瞬間に胃が受け付けなくて、すぐに吐いてしまった。胃液が混じってしまっているそれは今となっては臭い汚物でしかない。
    せっかく作ってくれたのに。あんなに美味しそうで、実際美味しくて、良い匂いがした。数少ない好物だったのに。

    「(──ああ)」

    医者にどれだけ身体のことを悪い報告として聞かされても、この身体が今までのように普通の生活を送ることができなくなったのだと実感しても、『ああ、そうなんだ』と何も思わなかったのに。蓮の作ってくれるカレーがもう食べれられなくなった。その現実が、一番堪えた。
    ……これが罪の報いだと言うならば、なんて残酷なんだろうと思った。
    全て、自業自得だというのに。












    次に目を開けると視界いっぱいに蓮の顔があって、視線が合うなりその顔は安心したように小さく微笑んだ。
    リビングに居たはずの自分の身体はベッドの上に移っている。いつの間にか気を失った僕を蓮が運んだのだろう。

    「明智、良かった。……気分、どうだ?」
    「…………喉が痛くて、気持ち悪い」
    「……ん、まあ、だよな。とりあえず水飲もう。いっぱい吐いたろうから水分取らないと」

    苦笑いしながら、ストローが差さったペットボトルを差し出される。
    口元まで近づけられたストローに手を添えて、中身を吸い込んだ。持てない訳ではないけれど手が疲れて落としてしまう可能性があるので、退院してからの水分摂取はいつもこうしてストローを差してもらったものを飲んでいる。常温保存されたぬるい水が、喉を通って胃に流れ込んでいく。

    「……カレー、吐いてごめん。美味しくなかったわけじゃないから」

    ストローから口を離して、すぐに先程の件を謝った。
    蓮は驚いたように目を丸くしたけど、すぐに困ったように微笑んだ。

    「謝らないでくれ。俺の方こそ悪かった。苦しい思いさせてごめんな」
    「……君は、何も悪くない」
    「先生に今の明智でも食べれるものを先に聞いておけば良かったんだ。今度病院行く日に聞いておこうか。カレーは駄目だったって言えば、なんとなく基準が分かるだろうから」
    「………………うん」

    蓮がカレーを作ってくれたのは、蓮なりの気遣いだったろうに。
    カレーって言ったってルブランで作っていたようなスパイスが思いっきり効いたものではなく、僕の身体に合わせて味付けと具の大きさを頑張って調整して作ってくれたものだったのは口に入れた時点で分かっていた。それでも気持ちとは裏腹に弱ってしまった内臓はそれを受け入れてくれなかった。
    僕をベッドに運んだ後、一体どんな気持ちで、どんな顔であの汚物を片付けていたのだろう。考えるだけで憂鬱になる。

    「吐いちゃったし、結局何も食べてないから腹減ってるだろ。お粥作るよ。食べれるか?」
    「……食べるよ。今度はちゃんと食べきってみせるから」

    これ以上、蓮の気持ちを無下にしたくない。その想いが伝わったのか、蓮は優しく微笑んだ。

    蓮はすぐにお椀に入れたお粥を持ってきた。
    レンゲごと持って来たということは、こっちで食べろという事だろう。先程のカレーの時のようにリビングに移動して食べれる日もあるけれど、体調が悪そうだと蓮が判断した時はこうしてベッドの上で食べさせることを選ぶ。リモコンで角度を上げたベッドに背を預けながら口を大きく開ければ、蓮がレンゲでよそったお粥を口に流し入れた。

    「食べれそうか」
    「……うん。大丈夫そう」
    「良かった」

    水分が多めで柔らかくて、塩が効いたシンプルな味の粥。病院食が固形物になってから今日まで、口にする白飯はもう専らこればかりだ。カレーが食べれなくなった時点で、恐らくもう一生炊きたてでもちもちの白飯は食べれないのだろう。嚥下が終わるのを見届けた蓮が再びレンゲを差し出してくるから、合わせて口を開ける。
    本当に要介護の患者にでもなった気分だ。入院していた頃から、それはとっくのとうに受け入れていたはずなのに。


    〇 〇


    「じゃあ、行ってくるな」
    「……うん。気をつけて」

    そういえばあんな事もあったなと思えるほどの期間が経った。僕と蓮は同居生活はあれからずっと続いている。
    蓮が共に暮らして日々の面倒を見ることを条件に退院が決まったあの日、蓮は色んな機械を渡されながらを先生から沢山のことをレクチャーされていた。機械を使った毎日のバイタルチェック、計測結果の記録と定期的な報告と通院。その他要注意事項を沢山。最初は慣れない様子だった蓮も、今では慣れた手つきで機械を取り付けれるようになったし、食事で嘔吐することもあれからなくなった。蓮なりに身体に負担がない食事メニューを色々勉強してくれたのだろう。
    いつものように買い出しに出かけようとする蓮を玄関の前まで追いかけて見送る。座ってていいのにと言われたが、たまにはこうして動かないと本当に寝たきりになってしまう。身体がまだ動くうちに、許される行動内であればなるべく動きたかった。

    「あんまり無理するなよ」

    そう言い残して、蓮はドアを開けて出て行く。
    鍵が閉まる音の後、ドアの向こう側から聞こえる足音は遠ざかって、やがて聞こえなくなった。それを聞き届けてからふらつく身体を支えるように壁に寄りかかった。立っているだけ体力がこんなに必要だったなんて、学生時代は夢にも思わなかった。
    すぐにゆっくり回れ右をして、壁に手をかけながらリビングまで戻る。どすんと半ば倒れるようにソファーに腰掛けた頃には、まるで小走りした後のように息が上がっていた。

    「……っ……はぁ…………はっ……」

    心臓が音を上げている。けれど心拍は人並み以下で弱くて遅い。その遅さが重くて、鼓動するたびにその重さのせいで胸が痛くて苦しい。必死に息を吸っても、まるで空気の薄い山頂にでも居るかのようになかなか肺に酸素が送れない。それでもなんとか、呼吸を繰り返して少しずつ落ち着かせる。
    食べれるものは限られ、手足に力が入りにくくなり、立ち上がれば脳貧血が起きて、部屋の中を歩くだけで息が切れてしまう。体温調節もバカになり初夏だと言うのに厚手の長袖が手放せない。本当にボロボロな身体になってしまった。
    ……しかし、軽度とはいえ廃人化とは元々そういうものだ。今まで銃で撃ち殺してきた数多の人間達はそうして衰弱して死んでいった。
    だから、今までやってきた事の報復として──『それ』は今、自分の身体を蝕んでいる。

    「…………」

    ソファーに全身を預けながら目を閉じて、よくやく落ち着いてきた心音を聞いた。とく、とく、と小さくて遅い拍動が耳の奥から聞こえる。医者に言われて手首に装着している機械には45と表示されていて、これは蓮のスマートフォンにも送信されている。アイツは今頃、この数値を見て僕が今も生きている事を確認しているのだろう。
    今にも止まってしまいそうな心臓は、揺れる小さな灯火のようにゆっくりと動き続けている。この身体は、まだ辛うじて生きている。

    「(……本当に?)」

    リハビリ用にと蓮から渡された柔らかいボールすらもう強く握れない。外に行くこともできず、仕事もできない。行動は家の中のみと制限され、些細な動作で身体はすぐに限界を迎える。
    果たして明智吾郎は、そんな状態で生きていると言えるのだろうか。


    〇 〇


    ……どうせこの身体は長くは持たない。
    蓮にはリハビリをすれば改善するかもしれないと嘘をついたけど、悪化することはあれ改善する見込みはないと医師には断言されてしまっている。結局今あるこの命は、機関室のあの瞬間に散っていたはずのものが最悪の形で引き伸ばされただけ。僕が生きていたことを嬉しそうに笑っていた蓮も、きっと心の底では気付いているだろう。

    だったら、未来なんていらない。『その瞬間』だけを蓮と生きたかった。その結果で身体が耐えきれずに死んでしまうならそれならそれで良い。これは決して自殺願望ではないと思う。
    蓮にも我慢なんてして欲しくなかった。あの男はもっと自由であるべきで、その自由を奪っているのが自分のこの身体であるならば。それは何よりも耐え難い。

    「……明智。……お前が好きだ。あの頃から、今もずっと」

    『自由』になった蓮の熱の篭った吐息が顔にかかる。身体が熱い。心拍数がどんどん増えていく。拍動するたび胸が痛くて、呼吸が苦しい。今にも何もかもが破裂してしまいそうだ。
    でも何も辛くはなかった。怖くもない。だってこんなにも満足感に浸っている。

    「(良かった)」

    この顔がずっと見たかった。嬉しかった。やっぱりお前はこうでなくてはダメだから。そういうコイツを愛してしまったのだから。

    「……うん……それで、いいんだよ……蓮」

    最後にまた、唇を重ねる。
    熱い何かが込み上げて、心臓がどくんと大きな音を立てた。温かい血液が全身を巡っていく。

    ──ああ。
    明智吾郎は今、きっと誰よりも『生きて』いる。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    🙏🙏🙏
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    manju_maa

    DOODLEhttps://poipiku.com/1184617/11813037.htmlの続きの進捗
    校長と鴨志田問題決着編。
    「」はない。明智が丸すぎる。誰だコイツは。
    新任教師明智先生と前歴持ちの雨宮くんの話⑪雨宮の裁判に弁護士として出廷して無罪判決に撤回させただと!?一体何を考えているんだね君は!!

    バン!と大きな図体が僕の倍はありそうな自身の体重をかけて机を叩く。図体も声も大きい校長は随分とご立腹の様子だ。おかげで血圧が上がっているのか眉間にシワが寄った顔が真っ赤になっていて本当に肉だるまになってしまった。

    何を考えてるも何も当然のことをしただけでしょう?僕が受け持つクラスの生徒が言われのない罪に問われていたんです。そんなの弁護士としても担任としても放っておけるわけないじゃないですか

    次期総理大臣候補だった獅童正義が部下の女性にセクハラをしていた所を助けようと駆けつけた高校生の少年を偽証罪で訴えた話は事実としてネットやニュース、新聞で大きく取り上げられている。その中で、その少年の担任教師でありながら若手弁護士の明智吾郎が生徒のために無罪判決を勝ち取ったという、恐らく大宅さんがノリノリで書いたのであろう記事を校長は見たのだろう。呼びつけられるなり記事に書かれたことを聞かれたので、素直にそうだと返事をしてやればこの通り、耳に響く大きな声で怒鳴られているのが今の状況だ。
    3751

    manju_maa

    PROGRESShttps://www.pixiv.net/novel/show.php?id=24435026の続き。

    明智先生過去編まとめ。
    『そうはならんやろ』がいっぱいあるけど勢いで読んでください。
    新任教師明智先生と前歴持ちの雨宮君の話⑧────『獅童正義』
    その名前と姿を初めて見たのは、中学生の時だった。
    社会科見学として国会議事堂に行った時に、あろうことか案内役の大人が当時はまだ知る人ぞ知る程度の認知度だったその男を連れて来たのだ。教育側の人間からしたら実際に現場で働いてる人間に説明させる方が子供の学習になるはずだ、という方針だったのだろうし、担任だった女も満足気にその話を聞いていた。周りのクラスメイト達も『へー』だの『すげー』だのと中身のない返事をしながら聞いていた。
    ……僕だけが、その男の顔を焼き付けるように見ていた。話は自分の心臓の音で何も聞こえなかった。
    母は生前に『まさよしさん』と知らない男の名前を呟きながら泣いていることがあった。それが父の名前であるのはなんとなく察していて、母の死後は何処にいるかも分からない『まさよし』をいつか見つけたいと思っていた。見つけて、どうして母を捨てたのか聞きたくて、ずっと迎えに来てくれなかったことを謝ってほしくて。ずっと。ずっと、いつか会いたいと。
    5363

    recommended works