時刻は六時。今日もまた、朝を迎えた。
ベッドから降りて自室を出る。洗面所で顔を洗って、残った眠気を完全に醒ます。次に専用のスマホを手に取り、通知を見た。
「……ん、良かった」
通知に『異常 』はなく、いつも通りの数値が表示されている。ひとまず朝の懸念はこれで解消された。
ならば先に朝ご飯の準備をしよう。台所に立って、一通りの支度を済ませる頃には一時間が経っており、時刻は七時を迎えていた。
そろそろ明智も待ち飽きている所だろう。コンロの火を止めて、明智の自室へと向かう。ノックをして、返事を待たずに部屋に足を踏み入れた。
「明智、おはよう」
声をかけながら傍まで歩み寄ると介護用の電動ベッドの上に居る明智は、返事をする代わりにこちらを見上げた。
「気分はどうだ」
「いつもと変わらないよ」
「そうか」
「起きたの、随分前だから。測るなら測っていいよ」
「ん、分かった」
ならばこちらも都合がいい。
電動ベッドのリモコンのボタンを押すとベッドの角度が曲がり始め、横になっていた明智の体勢がベッド偽を預けたまま身体を起こしたような状態になる。ベッドの傍らに置いた血圧測定器を取りだし、差し出された左手の間接部分にカフを巻き付けて計測ボタンを押す。ギュイーンという音と同時に、マジックテープで巻き付けられたカフが引き締まっていく。次第に繋げられた本体の画面にカフが測定した血圧と脈拍の数値が表示される。
「………………」
測定結果として出た血圧と脈拍の数値は標準値から大きく下回っている。
カフを取り外し、次に出したのは家庭用の心電図計測器だ。これも、先程片づけたばかりの血圧測定器も、どちらも毎朝測定して記録を付けて体調の管理をしろという医師からの指示で貸してもらったものだ。画面には四十五という数字と一緒に小さな波形がジグザグの形を作りながら延々と流れていく。心拍に合わせて鳴り続ける電子音は、やはり間隔がかなり遅い。それだけ心拍数が少ないということだ。最後に体温計で体温を測ると、画面には35.5と表示されていた。
重度の貧血と徐脈に低体温。本来ならばすぐに病院に駆けつけるべき症状だが、それが『今』の明智にとっては標準値である。心配じゃないと言えば噓になるが、病院に行ったところでどうすることもできない。今できることは計測した数値を記録用のノートに書き記し、近々通院する時に医師にそれを報告すること。毎朝の日課であるバイタルチェックはこれで完了だ。
「朝ご飯できてる。食べれそうか?」
「少しだけなら」
「ああ、食べれるなら食べた方がいい。リビング来れそうか?こっちに持って来てもいいけど」
「…………いい。そっち、行く」
言いながら、明智は重々しい動作でベッドから身体を起こして降り立つ。
立ち上がった所でバランスが取れずに傾いた身体を慌てて抱き留めた。
「大丈夫か、無理するな」
「……っ、……平気、だいじょ、ぶ…」
抱き留めた明智はただベッドから起き上がり、立っただけだと言うのに軽く肩で息をしている。酷い時は脂汗をかいている日もある。
いつも見ている姿だというのに、こればかりは何度見ても顔を顰めてしまう。
「肩、貸そうか?」
「いい……歩かせて」
俺の身体を軽すぎる力で押し返して突き放した明智は、覚束無い足取りで部屋から出ていく。歩幅を合わせながら追うように後に続き、二人でリビングまで移動した。
ダイニングテーブルには既に俺と明智それぞれの朝食を盛り付けられるよう皿だけが並べてある。明智はそこの自分用の皿が置かれた側に腰掛けて、疲れきった様子で深い息を吐いた。
「すぐ用意するから。飲んでろ」
「…ありがと」
ストローを挿したコップに入れた白湯を明智の机の前に置いてから、作った朝食の盛り付けをする。
先に明智の分として、お粥を茶碗に入れてから、予め軽くほぐしておいた魚と、小さく切った豆腐の味噌汁、細かく刻んだ野菜のお浸しをそれぞれ少量で盛り付ける。自分用の食事のメニューは変わらない。お粥が白飯で、魚はほぐしてない切り身の状態、量は普通盛りというだけだ。この違いに明智は何も言わない。言ったところで意味がないことは本人が一番分かっているから。
「「いただきます」」
二人で手を合わせながら、ぺこりと頭を下げる。明智はレンゲを手に持ち、それですくい上げたお粥をぱくりと口に入れた。
「固くないか?一応味見はしてあるけど」
ゆっくり租借しながら、こくりと頷く。
柔らかいお粥を一口入れただけでも、今の明智にとっては咀嚼に時間がかかる。あまり濃い味付けのものは食べれず、油が多いものも胃が一切受け付けない。固いものはダメ、生ものも禁止。病院で目が覚めてから今日までずっと、明智は今のような介護食に近い献立ばかりを食べ続けている。本人はもともと食事に関心はなかったからと気にしていない様子だけれど、だからってそれが良いわけは無いと思う。かつては俺が作ったルブランのカレーを『悪くない』と言っていた明智も今ではそのカレーすら食べることができない。
「…蓮」
…と。ようやく嚥下が終わったらしい明智が静かに話しかけきて、ハッとする。
いつの間にか俯いていたらしく、弾かれるように正面を向くと明智はじっとこちらを見つめていた。
「僕はこの身体を受け入れてる。自分がやったことだし、自業自得だから。今までやったことを思えば、軽いものだと思ってる。…だから、君がそんな顔してまで気に病むことは何もない。…まあ、いつも面倒見てもらってる僕が偉そうに言う事でもないけどね」
「……明智」
「嫌になったら気にせずいつでも出て行って構わないんだよ。無理をしてまで君の人生を僕なんかに使う必要はないんだ。こんな暮らし以外でやりたいこと、行きたい場所があるなら…君は迷わずそっちに行くべきだ」
そう言いながら明智はレンゲからフォークに持ち替え、ほぐした魚を刺して、それを口に運ぶ。
確かに明智の言う通り、この生活が始まってから趣味の時間が一気に減った。必要最低限の外出しかできなくなった。時折怪盗団の仲間達が遊びに来てくれるけど、互いにずっと気に掛けながらの時間を過ごしている。不自由なことばかりの生活だ。
……でも、俺はそれを苦と思ったことは一度もない。
「無理はしてないよ。嫌だと思ったこともない。だから、そんな悲しいこと言わないでくれ」
「……………」
咀嚼をしながら、ジッと見つめられた。信じてない目つきである。
そんな視線に笑いかけてやる。
「俺がお前の面倒を見るって自分で決めたんだ。お前が自分で自分の道を決めたように、俺も俺の道を自分で選んだんだ。……お前のそばに居たいんだよ。どんな身体になってても構わない。今を生きてる、明智の隣に」
「……………そう」
明智は、容認の言葉も、拒絶の言葉も口にはしなかった。
獅童のパレスで別れてから色んな出来事を経て、知らぬうちに搬送されていた病院で意識を取り戻してから今日まで、コイツはずっとこういう態度だった。
〇 〇
明智には、後遺症がある。
獅童のパレスで自身に暴走化を掛けたあの時の身体的負担から来たもので、分かりやすく言えば軽度の廃人化状態だ。今まで明智自身が奥村邦和を含めたあらゆる人間達を廃人化させてきたが、症状としてはそれと同じ。ならば奥村達と同じように死んでしまうのかと言われれば、現状その兆しはない。
…ただ、内臓機能と全身の筋力が著しく低下しているそうだ。今のところそれらしき症状は無いと本人は言っているが、もしかしたら脳神経にも少し異常があるかもしれない、とは言われている。そしてその中で、一番重症だったのが心肺機能だった。
毎朝血圧と心電図を計測しているのもそれが理由で、平均値を下回っている状態が基本になってしまっているので毎日のバイタルチェックが欠かせない。そして日々の生活でもリハビリ以外で心拍数が上がるような行動は禁止されており、今の明智が自分の意思で動き回れる範囲内は自宅の中だけになっている。外出する時は刺激になりそうな場所は避けて、身体を動かさないよう車椅子での移動が必須。入浴時も、もしもの時に俺がすぐ対応できるよう近くで控えていなければならない。
そういう意味では、明智の身体はもう一人で生きていく事は困難な状態だった。
「明智?」
買い物から帰宅すると、明智はソファーに身体を預けながら寝息を立てていた。投げ出された手の近くにはリハビリ用の柔らかいボールが落ちている。握り続けて疲れてしまったのだろう。些細な動きでも今の明智にとっては過重で、すぐに疲れてこうして眠ってしまう。起こさないように静かに隣に腰かけて、長袖から見える白い手に重ねるように自分の手を置いた。
「(…冷たい)」
人間の一般的な心拍数は一分間に60から100とされているが、今の明智は多くても50にギリギリ届くかの範囲内、それ以外はずっと40の値のどこかまでしか届かない。今のように寝ている時はそれすらも下回っている。毎日取り付けている腕時計型の計測器の通知ではそう表示されていた。心拍数の低下に伴って呼吸数も減っており、こうして隣で寝ている今も口から吐き出される息は小さくて、少なくて、ゆっくりだ。
それでも明智はこうして生きている。機関室のあの時が最期の別れで、幻の三学期のアレが本当に最初で最後の幸せな夢だったかもしれない。それを考えれば後遺症が残ったくらいなんだというのだ。お互いに怪盗や探偵をしていたあの頃のように色んな場所に出かけることはできなくなったが、五体満足で、会話もできる。隣に居てくれる。俺にとってはそれだけで幸せだし、充分だった。
「ん………」
小さな声を上げながら明智がゆっくりと目を開ける。ソファーに全身を預けたまま、眠そうな顔がこちらに向いた。
「……おかえり…今帰って来たの?」
「ああ、たった今な」
「ふうん…」
「リハビリ、頑張ってたんだな」
「…すぐ疲れちゃったけどね」
ふう、と腹の底から息を吐く。
呼吸数が減っているから、こうして時折大きく深呼吸をしないと肺まで息が届かないそうだ。
「眠いならベッドまで運ぼうか?横になった方が楽だろ」
「…………眠くはないけど、ベッドには行きたいかも」
「なんだそれ」
「ん」
明智が両手を広げた状態で、俺の顔を見つめて来る。
これは俺が明智を抱きかかえてベッドに運ぶ際の『運んでほしい』という明智なりのサインだ。体重がかなり落ちてしまった今の明智を抱えて歩くのは、家の中の移動程度ならそこまで苦ではない。下半身と上半身それぞれに手を入れて、そのまま持ち上げると明智はくっ付くように身体に抱き付いて来た。こういう時の明智は素直で、なんとなく甘えてくれているように感じて個人的には嬉しく思う。
「ほら、ついたぞ」
リビングから明智の自室まで移動して、あっという間にベッドの前まで到着した。しかし下ろそうと声をかけても明智は俺から離れようとしない。胸元に寄りかかるように頭をくっ付け続けている。
「明智?」
「……蓮の心臓はずっと早いね」
ぼそりと呟いた明智は俺から離れないままだ。
今回はやけに身体にくっ付いてくるなと思っていたが、どうやらそういう意図があってベッドに戻ることを決めたらしい。
「お前が遅すぎるんだ。これが普通の速度なんだよ」
「…そうだね。もうずっと遅いままだから、早く感じる」
「リハビリすれば人並みに戻れるかもしれないって言ってただろ。ゆっくり頑張っていこう。時間はたっぷりあるんだから」
「…………」
満足したらしくようやく身体が離れたので、そのままベッドの上に寝かせてやる。
剝いでいた掛け布団を横たわった明智の上にかけて、なるべく近くに居てやれるようにベッドの端に腰かけた。明智はずっと、俺の顔だけを見つめていた。
「……ねえ蓮」
「ん?」
「キスしてって言ったら、してくれる?」
「キス?」
こくりと頷く。
明智の方からこの手の話題が出ることは、とても珍しい。というかこの生活が始まってから初めてだったのではないだろうか。
しかし会話自体に不自然さや唐突さはない。だって俺達は学生時代、『そういう関係』になったことがある。愛を語らい、キスをして、抱いて抱かれた。そういう時間をあの頃の俺達は何度か過ごしていた。その関係は明智が俺との同居を拒まなかった時点でまだ続いていると勝手に考えているんで、何もおかしいところはない。
ただ今の明智とは、そういう時間はもう作れない。だから、その手の意識は向けないようにしていた。けれど、明智のことを好きな気持ちはあの頃から変わっていない。勿論あの頃のように濃密な時間を明智と過ごしたいという気持ちはしっかり残っている。だから明智の方から望むのならば、俺が断る理由はない。
「いいよ。分かった」
ベッドの上に乗り上げ、明智の身体に馬乗りになるように覆いかぶさる。
両手で冷たい頬を押さえながら、そのまま唇を交えた。すぐに唇を離して見つめ合う。熱がこもった瞳は真っすぐ俺だけを見つめている。『まだ足りない』と目が伝えて来る。
もう一度キスをして、呼吸を交えながら何度も何度も唇を重ねる。
「…ん…っ…」
唇を再び離す。
口から洩れる呼吸の回数が目に見えて増えている。苦しそうに肩で息をしているその胸に手を当てると、手のひらを叩いてくる心臓は明らかに速度が上がっている。これ以上は危険だ。
「……明智」
『もうやめよう』とジッと見つめ続ける目に訴えるも、潤んだ瞳は首を横に振ってそれを拒み続けている。
「でも…」
「…これで死ねるなら、それはそれで良いと思うよ」
「バカ言うな。お前はよくても俺は嫌だ」
「……嘘。久々にキスできて、喜んでるくせに。素直になりなよ」
「………………明智」
微笑むその顔に引き込まれるように再び唇を重ねる。何度も何度も重ねて、重ね続けた。
寒くもない時期なのに汗が滲んだ身体は、あれだけ冷たかったはずなのに随分と火照っているようだ。
「……お前が好きだ。あの頃から、今もずっと」
「…うん。それでいいんだよ、蓮」
掛けた言葉と自分の行動が何処までも矛盾している。どう見ても目の前にいる想い人は苦しそうなのに、寿命を削っているというのに。医者からの言いつけを悉く破ってしまっているというのに。
…ああ、本当に最低だ。明智の身体に悪いことだと分かっているはずなのに。
一度膨らんでしまった気持ちは、もう抑えきれなかった。
次に目が覚めたとき、明智の自室は薄暗かった。
介護用なだけあって明智のベッドはマットレスがしっかりしていて、寝心地が大変良い。すぐ横を見れば、明智が眠っている。
さっきまであれだけ息を切らしていた明智だが、今はまた少ない呼吸で小さく息をしている。首筋に触れれば、疲れきった身体を休めるように拍動は酷くゆっくりになっていた。止められなかったとはいえ無理をさせすぎてしまったと、今になって後悔の念に駆られる。
「……なあ。明智は、ずっと俺のそばに居てくれるか?」
帰ってくる言葉はない。
心の底では分かっている。こんな状態が続いて、明智が長生きできるわけがない。溶けきった蝋燭の火が少しの風でもあっという間に消えてしまうのと同じだ。いつか、近い内に。弱りながらも頑張って動き続ける彼の心臓は、そのまま燃え尽きるように止まってしまうだろう。
「……………」
それでもいい。
せめて、その時が来るまでは。
どうか────明智が俺の隣に居ることを、望んでくれますように。