新任教師明智先生と前歴持ちの雨宮くんの話~番外編①~廊下と職員室を繋ぐ引き戸に埋め込まれた小窓からは職員室の内部が伺える。そこから見える位置の席に座る明智は栄養補給のゼリーを片手に、テストの採点でもしているのか真剣な顔で赤ペンを動かしていた。
「(…また同じの吸ってる)」
担任である明智の家に居候の形で住むようになってもうすぐ一週間。
来週にハワイへの修学旅行を控えた同級生達は水着がどうだの自由時間はどこに行くだのと浮き足立っている。前歴のせいで不参加の俺こと雨宮蓮は同じく不参加の明智と一週間の自宅自習という名の休校になる訳だが、どうやら暇になるこちらと違い明智の方は別の仕事で忙しいらしい。
ならば時間は無限にあるわけだから、休みの間は朝と夜だけじゃなくて昼ご飯も用意してやろうかと思い立ち、そういえば明智は普段昼に何を食べているんだろうという?疑問から、昨日から明智の昼事情を遠目から伺っているわけだ。
しかし───嘆かわしいことに、昨日も今日も明智の昼風景はあの栄養補給のゼリーとカロリーメイト一本ほどを食べて終わりを迎えている。
「(朝は食べないで昼はアレで夜は冷凍食品なんて生活を今まで…?人して生きる気あるのかアイツ)」
俺が食事の用意をすることで、朝と夜の食事に関しては無理やり矯正できているものの昼まで用意する余裕が今は無い。だか、アレ見るにどうもそんなことを言ってる場合じゃないかもしれない。
俺だって今まで親が居ない日の食事は専らハンバーガーかコンビニ弁当カップ麺とかになりがちで栄養が云々と母親に叱られていたものだけど、明智のアレは俺以下だ。料理は結構しますよみたいな面で生徒と接してるくせに、蓋を開ければ最悪の食生活を送ってるなんて教師どころか大人として、人間として最悪すぎる。そんな生活しながらどの面下げてあんなにキラキラしてるんだ。意味が分からない。普通にドン引きだ。
「雨宮くん、こんな所で何してるの?」
「...あ」
と、職員室の前で悶々としていたらいつの間にかすぐ近くに居た川上に話しかけられる。この学校の先生達の大半が俺を前歴持ちの犯罪者として冷遇してくる中で、川上は俺が前歴持ちであることを疑ってないものの一応表向きは今まで通り普通に接してくる。元担任だったからという情が多少はあるのだろうか。まあ、今となってはもうどちらでもいいが。
「また明智先生に分からないところ教えてもらいに来たの?」
「...いや、別にそうじゃない。それより明智って昼ごはんいつもあんなのばっか食べてるのか?」
「先生って呼ばなきゃダメ!全くもう...」
やれやれと溜息をつかれつつ、川上も視線を扉の向こうにいる明智に向ける。ゼリーを飲み終えた明智は二食目(?)であるカロリーメイトをポリポリと食べている。
「まあでも...そうね。明智先生、ああいう栄養摂れれば良いみたいなものしか食べてないかも。自炊とかしてそうな印象あったんだけど、あんまりしてないみたいね」
現実、実際キッチンなんか埃を被ってたし冷蔵庫は冷凍食品の保存場所になってるだけだし。自炊のじの字もできないぞアイツ。
.....とは言えず、『ふぅん』という反応を返す。
「分かった、ありがとう。...それじゃあ」
「『ございます』も言いなさい!こら、雨宮くん!!」
『もー!!』という川上の声を背に浴びながら、職員室の前から立ち去った。やっぱり昨日今日どころの話ではなく、基本的に明智の昼食は毎日あの終わったラインナップらしい。懸念通り、昼も何か弁当でも用意してやらないといけないわけだ。
「…はぁー…」
......そこまで考えたところで深くて長ぁいため息が出た。
逆ならともかく、なんで十七歳の高校生が二十七歳の大人の食生活をこんなに気にかけなきゃ行けないんだ。何かのバグだろこれ。
〇 〇
放課後。
いつものように放課後になった途端に謎の副業をしに出かける明智を見届けて、こちらも定期券内である渋谷駅に降り立ち雑貨の量販店にやってきた。向かう場所は勿論キッチンコーナーの弁当箱売り場の棚。様々な弁当箱が並んでいて、一段弁当、二段弁当と大きさも高さも様々だ。女性向けの小さなサイズの弁当箱には可愛いイラストが書かれているし、男性用の大きなものは無地や透明なものが多いようだ。
「(...さて)」
ここで突き当たる問題は明智はどのサイズの弁当箱が適切なのかという所。明智は毎日俺が作った料理を残さず食べてくれているわけだが、今のところ量が足りないとも多すぎるとも言われたことはない。ただ、少なくともこれまでの終わった食生活を考えると大食らいではないと思う。
もしそうだったら朝と昼のカロリーの摂取量から考えて一日を乗り切れるわけがない。だからと言って少食なのかと言われてもそれも違う気がする。だってたまにご飯のお代りを要求されるから。
「(これは流石に明智の胃のキャパを調べてからの方がいいかな...)」
適当に選んだものの小さいにしろ大きいにしろ弁当箱と胃のサイズが合わなかったらどちらにせよ明智の負担になってしまう。ただてさえ俺というお荷物が居る生活をさせてしまっているのだ。俺が明智に与える負担は少なくしたい。なるべく早くから決行した方がいい計画だが、慌てる必要もない。そうと決まればまず食材の調達に行こう。早々に踵を返して俺は渋谷を後にした。
「うわ..........」
そして夜。
例の仕事から帰宅した明智は、テーブルに並んだ本日の夕飯を狼狽えた様子で見下ろしている。
本日のメニューは豚バラ肉のねぎ塩丼に山盛りに盛り付けた鶏の唐揚げという、男子高校生が夢見る最強の組み合わせ。今までの食生活がヘルシーとかいう次元じゃない状態で過ごしていた明智からしたら、相当油が多めのラインナップだろう。
「なんとなく肉が食いたくて。たまにはいいだろ、こういう肉肉した献立も」
「そんな気軽な理由で唐揚げって自作できるものだったっけ?」
「夏休みに祖母ちゃんちで唐揚げ一緒に作った時の経験が生きただけだ」
「ふぅん...」
言いながら、明智は正面の椅子に腰かける。
手を合わせて挨拶をするなり、明智の箸は真っ先に唐揚げに向かった。箸で掴んだ茶色く綺麗に揚がったそれを口に入れると、カリッと軽快な衣が噛み砕かれる音がした。その音は、『ん!』という声と一緒に家ではいつも据わっている明智の目が見開かれ、丸くなるほどの効力だったようだ。
それもそのはず。明智の退勤時間に合わせて揚げた唐揚げは、まだ熱が残る揚げたてだ。流石の明智も揚げたての唐揚げを口にすれば人並みの反応をしてくれるようだ。
「美味く揚がってるだろ」
「......うん。衣も中身も美味しい」
「ん、なら良かった」
口の中でカリカリと音を鳴らしながら明智は二個目、三個目と唐揚げを口に入れていき、勿論豚丼の方もモリモリと食べ進めていく。
豚丼に関しては茶碗二杯半くらいの量の白米をよそっているが何も言われない。唐揚げは当然として豚丼の方にも豚肉から出る油とタレに使ったゴマ油でかなりの油を摂取しているはずだが、モグモグと食べている明智が胸焼けで辛そうにしている様子はなかった。
「(...油も大丈夫。量も人並みには食べれるわけか)」
前に聞いたが特に好き嫌いはなく、アレルギーも無い。つまりだ。
恐らく明智は自炊をしないわけでもできないわけでもなく、自分から率先して食事をする気がないということだ。栄養さえ摂れればなんでもいいという効率厨を拗らせた男なのだ。だからこそ朝は食べないし、昼はカロリーメイトだし、夜は冷凍食品で済ませてしまうのだ。
食べることも料理を作ることも好きな俺からすると嘆かわしいことこの上ない話だが、おかげで確かめたいことは充分に分かった。
それなりの量を食べても苦ではないのなら、思いっきりデカい弁当でも作って太らせる勢いで飯を食わせてやろう。ひとまず今週は弁当箱を新調して弁当用のレシピを調べ尽くす。幸い食費は明智の財布から出ているし、いくら使っても明智は咎めないという。ならば遠慮なく使わせてもらおう。
作戦の決行日は修学旅行当日───俺の大型連休の始まりの日だ。
〇 〇
「明智くん、そろそろ休憩ついでにお昼にしましょうか」
「…そうですね。流石に疲れて目が泳いでました」
冴さんが重い溜息をつきながら席を立ち、こちらも持っていた書類を手から離して眉間を押さえながら息を吐いた。
数日後に控えた民事裁判で使う証拠や証言についての資料は膨大を極めている。しかしこれを全て読み込まないとこちら側に勝機はないというこの無謀すぎる依頼は、冴さんの方も抱えた依頼があるようで僕に押し付けられてしまった。よくもまあこんな面倒くさい依頼を引き受けたものだと常々思う。冴さんは余程のことがない限り、依頼人のお願いにノーは言わない。根が優しいのは結構だが、教師と弁護士という二足のわらじをしている僕からしたらいい迷惑である。今頃D組の生徒達は飛行機に乗ってハワイに向かっていることだろう。
こんなクソ案件がなければ僕もハワイに行っていたのだろうか。
「(…いや、無理か。アイツを置いては行けないし)」
前歴のせいで折角の修学旅行すら行けなくなった蓮を一人にはできない。蓮には不可抗力だと言ったが、元々は蓮の欠席届を見た時から裁判があってもなくても居候させてなくても、修学旅行には行かないつもりだった。そもそもハワイとか柄じゃないし、暑いのもそんなに好きじゃない。まぁ、僕とのハワイ旅行を楽しみにしていた生徒達には申し訳ないとは思うけども。
「私はルブランの方に行くけど、貴方も行くでしょう?」
新島法律事務所が四軒茶屋駅から徒歩十分の場所に構えている事もあり、冴さんは昔から駅の近くにある喫茶ルブランの常連だ。何せあそこのカレーとコーヒーは本当に美味しいので、あの味を求めてしまう気持ちは僕もよく分かる。今までは僕も相伴に預かっていたのだが、今日は蓮から渡された弁当がある。残して帰るわけにもいかないし、ルブランには行けそうにない。
「すいません冴さん。僕、今日弁当があるんで」
「明智くんが弁当…?やだ、なんの風の吹き回し?」
「失礼な。どういう意味です?」
「それだけ普段の食生活が悪いって事よ。弁当って何?コンビニで買ってきたの?」
「違いますよ。前に言ったでしょ。家に居候してる生徒が作ったんです」
「ああ。確か雨宮くん…だったっけ?名前」
「ええ、雨宮蓮です。そいつが渡して来たんですよ」
自分のデスクの上に家を出る前に渡されたランチバッグを置いて中から布に包まれた箱を出す。どれもこれもこの時の為にわざわざ蓮が自腹で新調したらしく、真新しい弁当包みを解けばこれまた真新しい二段の弁当箱が姿を見せた。
「へぇ。弁当箱を開ける瞬間って何歳になってもワクワクするわよね。何が入ってるのかしら」
「なんで食べない冴さんが一番ワクワクしてるんですか、もう」
弁当箱の蓋を片手で掴んで、それを持ち上げる。
蓋の下から現れたのは隙間なく敷き詰められた色とりどりのおかず達。卵焼きや切込みが入ったウインナー、ポテトサラダときんぴらごぼうとその他。その全てにランチカップが使われているので、見た目も中身も綺麗に整っている。下の段には上段に押し込まれて高さが揃った白米があり、その真ん中にはシンプルに梅干しが埋め込まれていた。
「…予想以上に凄いわね。これ全部手作りよ。随分早起きして作ってくれたのね」
「……...手作り?これが?」
「見て分からないの?…呆れた。まさか貴方、雨宮くんが料理作ってる音も聞かずにぐーすか寝てたわけ?」
「…………………」
言い返す言葉がひとつもなかった。だって起きるのは苦手だし、起きてから意識が完全に覚醒するまでにいつも時間がかかる。その分は早めに起きるようにしていたけれど、蓮はその目覚ましの設定に合わせていつも朝食を作ってくれる。時間を知らせる音と一緒に油が跳ねる音やまな板を叩く音で起きることはあれ、それはいつも朝食を作る時の音だった。
今日だってそうで、出かける際に渡されるまで弁当箱の存在すら気づかなかった。休みだからって一体何時から起きていたかなんて、全然知らない。分からなかった。
「......ふぅん、まあいいわ。引き取ったからにはちゃんと大切にしてあげなさいよ、明智”先生”」
肩をポンと軽く叩かれる。
『じゃあ、私はルブラン行くから』とヒールが床を叩く音は遠くなっていき、やがてバタンと扉が閉まる。残されて静まり返った事務所の中。備え付けられていたプラスチックの箸を入れ物から取り出して、それで中身をつまんで口に入れた。
「(あいつの作ったご飯の味がする)」
一度食べ始めると箸は止まらず、一つ、また一つとランチカップが空になって、白米も減っていき容器の底の面積が増えてくる。
蓮の作る料理はいつも美味しい。そんな奴が作った弁当が美味しくないわけがなかった。例えそれが出来たてから時間が経って熱を持たず冷めきったものであったとしても。それは変わらない。
〇 〇
「はい、コレ。今日の弁当」
翌日。相も変わらず事務所の方に出勤しようとした所で、蓮から再びランチバッグを渡された。さっき様子を見た時は蓮が台所に立って朝食の準備をしている傍らで熱を冷ましている最中の弁当箱の姿は確認できたものの、中身までは見えなかった。
「...ありがとう」
「行ってらっしゃい。気をつけて」
「うん。それじゃあ」
玄関まで見送ってくる蓮の視線を感じながら、家を出る。昨日と同じように右手で持ったランチバッグには中身を感じる重さがあった。
そうして迎えた昼。再び冴さんに覗き込まれながら開いた弁当箱は、昨日とは違うおかずが昨日のようにギッシリと敷き詰められている。
「真が受験なんかで忙しかった頃に代わりに弁当作ってあげたことがあったけどね。常温でも腐らないレシピを考えて、食材買って、朝早くに起きて作って詰め込んで…本当に大変だった。それをわざわざ自腹を切って一式新調してまで作ったって事は、本当に貴方のために作ってくれてるのね、そのお弁当」
「……それは、知りませんけど」
「ふふ、随分思われてるじゃない。そういう存在が居てくれるってありがたい事なのよ。年齢なんて関係なくね」
「………………」
再び肩をポンと叩かれて、冴さんはルブランに向かっていく。一人残された事務所の中で食べるそれは、今日もまた美味しかった。
その翌日も、その次の日も。蓮は毎日違うおかずで弁当を作って渡してきた。その全てが美味しくて、四日目になる頃には今日はどんな中身なのだろうという気持ちが湧くようになった。答え合わせのために箱を開けて、蓮の答えを見て、気づいた頃には空になった弁当箱がそこにある。
ケフッとおかずと一緒に胃に溜め込んだ空気を吐き、椅子に全身を預けながら天井を見上げた。
「………...こういう弁当、初めてだったな」
母がまだ生きていた頃。学校で行く遠足の日などに持たされていたのは、いつも中身のない小さな塩握りだった。鮭もタラコもツナマヨも梅干しも、その日しか作らない小さなおにぎりのためだけに買うほど母には心身共に余裕はなかったから。だからあの頃の僕は、周りのクラスメイト達が小さな箱の中に敷きつめられたそれを輝いた瞳で見下ろして、賑やかに笑い合ってる姿を見ながら塩の味しかしない握り飯を頬張ることしかできなかった。
もちろん母が死んで、親戚の家に預けられていた時も同じだ。
「(...そっか。そういうことか)」
あの頃のクラスメイトの嬉しそうな顔の意味が、数十年の時を経た今になってようやく分かった気がする。
作った料理をプラスチックの箱の中にぶち込んだだけ、と言えばそれまでのもの。それでも、自分の為だけに作られた自分のための宝箱だと考えれば、それはなんてかけがえのないものだろう。それを親でも親戚でも女性でもない、十歳も離れた男子高校生から渡されるだなんて。恥ずかしさなどの感情を通り越して、一周回って『なんだそれ』と笑ってしまう。
それでも───心はこんなにも満たされて、暖かい。
「ん」
机の上に置いた仕事用のスマートフォンが音を鳴らす。
名刺に印字した携帯番号もこの機種のものだし、依頼人との連絡はいつもこれでしている。手に取って画面を見れば案の定、今回の依頼人からだ。
「はい、明智です。どうかされましたか?……ええ、そうですね。その件のことなら……はい。……あー……そうですか、なるほど…………。分かりました。はい、大丈夫です。そちらも僕の方で調べてみますので。はい。では、そのように。...失礼します」
相手が通話を切るのを待ってから耳元に当てていたスマホを離す。
裁判が明後日に控えているというのに、また厄介な仕事が増えた。折角気分が良くなっていたというのに、その全てを踏み砕かれたような気分だ。フゥー...と深い溜息をつきながら、眉間を押える。
やることは山積みだというのに、目処がつきそうにない。果たしてこんな状態で明後日の裁判も上手く乗り切れるのだろうか。教師より弁護士歴の方が長いとはいえ、それも所詮はまだ二年差しかないペーペーだ。相手が上手のベテランだったら、その時点でほぼ詰んだと言っても過言ではない。負けだらけの無能弁護士の烙印なんて真っ平ごめんではあるが、それでもの可能性は充分に高い。
「…………」
そんな時、不意に頭の中で蓮の姿が過ぎった。
空になった弁当箱を嬉しそうに受け取る顔と、毎朝台所に立って眠そうな顔もしないで弁当と朝食を同時に作ってくれる後ろ姿。いつも玄関まで追いかけてきては『行ってらっしゃい』と見送って、帰ってくれば『おかえり』と迎えて来ては、柔らかい笑顔を向けてくる、傷だらけの男の子。
アイツも前歴が付きまとう理不尽な毎日を頑張っている。だったら、何も背負ってない僕が弱音を吐いてる場合ではないだろう。
「───よし」
今日も米粒一つ残さず空になった弁当箱を片付けて、ランチバッグに戻す。
頑張ろう。と自分に喝を入れて、机の上に散らばる書類の一束に再び手を伸ばした。