あいよりあおし 唐突に腑に落ちてしまった、この感情が"恋"であるのだと。そして、それと同時に彼と己との互いに向ける感情の差を思い知るのだ。
「今は、あまりそういうことは考えないようにしている」
それは、合宿所の談話室に手塚と不二と菊丸が揃っているところに通りがかり、そこに割って入るのも野暮だろうと立ち去ろうとした跡部が耳にした言葉だ。
「それってやっぱり、好きな子ができたとしても留学したら離れ離れになっちゃうから?」
それまで少々、いや、明らかに居心地を悪そうにしていた菊丸が興味深そうに目を丸めて訊ねる。
「そうだな、それもあるのかも知れない。とにかく、今はテニスに集中したいんだ。仮に交際に至る相手ができたとしても、きっと大切にはしてやれない」
「うわぁ、恋愛に関しても真面目……」
やはり理解できない、といった表情を浮かべる菊丸。そこで不二が別の話題を持ち出すことで会話はどうにか続いた。きっと先ほどからずっと、そうやって不二が2人の間を取り持っているのだろう。
結局立ち聞きをしてしまったことを少々後ろめたく思いながら、跡部は部屋に戻る。その間ずっと、彼の頭は先ほどの会話の内容でいっぱいだった。
考えないようにしている。
会話の流れからして、手塚はおそらく恋愛についてそう言ったのだろう。
(考えない? それが出来たのなら苦労しねえ)
秋の涼しさが漂うはずの室内に、不意に夏の気配が蘇った。あの夏の熱を、声援を、終わらない試合を、どうして忘れることが出来ようか。
(だが手塚、きっとお前には出来るんだろうな)
もちろん跡部とて、あの試合で歩みを止めるつもりはない。全国大会に出られることが決まった後は、次の戦いに真正面から向き合い全力を尽くした。けれど、いつだって跡部の胸の奥は関東大会でのあの試合に支配されていた。
テニスを愛する心とは別に存在するそれは、確かに恋であった。
相手との想いの違いからこれが恋だと知るなんて、そんな酷いことはない。初めからこちらの片想いが決まっているようなものなのだから。
けれど、それを自覚したからこそ決断できたこともあった。
合宿所で最初に手塚を見かけたとき、彼は青学テニス部の仲間を引き連れていた。その姿は夏の大会で見たときと同じ、青学テニス部の部長、手塚国光そのものであった。
(だが、それは違うだろ?)
手塚の青学への想いは、とっくに思い知らされている。だが、青学も、氷帝も、この合宿所では大差ない。中学生は皆でチームだ。手塚が責任を背負って導かなくても青学の彼らはやっていけるだろうし、跡部はチームとしてそれを支えることもできる。ならば、手塚が今するべきことは"部長"ではないはずだ。
「ドイツ行きたいんだろ? 」
背中を押すのが随分と遅くなってしまった。きっかけが跡部自身でないのも少々癪だ。とにかく手塚を、跡部が恋してやまないこの男を、ここから送り出さねばなるまい。
そうして、胸の奥にある苦い感情を押し込めることも、発露させることもせずに、跡部はただそれを受け入れた。唯一無二の宿敵として彼の門出を祝うために。
※
初めて合宿所を訪れたあの日に目が合ったのは、きっと勘違いではなかったと思う。
跡部景吾、彼もまたこの合宿に呼ばれたのかと、手塚はただそれだけを思った。それだけを思って、やめた。
探して見つけて、それきり。声をかけるわけでも、避けるわけでもない。思い返せば合宿が始まってから、手塚は何故か無意味なそれを繰り返していたように思う。
乗り込んだドイツ行きの飛行機の窓から外を覗く。広がる空の色は、彼の持つ瞳のあの青より少し白くぼやけていた。
部長としての役目はもう終わったのだと悟った時、手塚の背中を押したのは跡部だった。不二や大石とは将来について少し話したこともある。だが手塚は、まさか跡部に己の心の迷いを言い当てられるとは思ってもみなかった。
(跡部は、初めから俺の迷いに気がついていたのだろうか)
また彼とテニスがしたいと、そう思った。テニスをして、正面からぶつかり合って、あの青を、見たい。
「……」
手塚はそこまでで一度考えるのをやめた。
跡部はすぐに追いつくと言っていた。それならば、感傷に浸るよりも自分もこれからすべきことについて考えようと、そう思ったのだ。
飛行機の窓のシェードを閉じれば、もう青は見えなくなった。