あの人は 電車の窓から見えたどんよりと暗い曇り空は、改札を出る頃にはしとしとと涙を流し始めていた。
幸い折り畳み傘は予めリュックサックに忍ばせている。しかし、せっかちなこの男にとっては背負ったリュックサックを下ろして、口を開いて、取り出したその小さく畳まれた傘を開くその作業は随分なタイムロスに思えた。
(浪速のスピードスターにかかればこれくらいの雨、大したことあらへんわ)
実際、以前同じ姓をもつ従兄弟に唆されて、彼は傘を差さずに雨の中を駆け抜けたことがある。常人と比べればほとんどの雨を潜り抜けることができたが、それでも濡れたことに変わりはなかったので、彼は母親にこっ酷く叱られた。
(傘、使うか……)
浪速のスピードスターとて、母親には勝てまい。大人しく傘を取り出そうとリュックサックを肩から下ろしている時に、彼、忍足謙也はある人影に気づいた。
「白石……?」
駅の改札を出た屋根の辺りで呆然と立ち尽くす後ろ姿。傘を持っていなかったのだろうということは、誰の目から見ても明らかであった。けれど、その悲しげな背中が背負っているのは単に傘を忘れたという不運だけではないように思える。それは謙也にとって白石が大切な友人であるからこそ分かることだったのかもしれない。
「あ、ケンヤ」
名前を呼ばれて、白石は振り向いた。それから彼は笑顔を作りかけて……たぶん、失敗したのだ。端正な顔がくしゃりと歪むのを見て、謙也は思わず彼に駆け寄った。
「白石、無理せんでええ」
「なんや、藪から棒に。けったいな奴やな」
「白石」
尚も取り繕おうとした彼の目を見て、もう一度その名を呼ぶ。すると、白石はようやくその顔に悲痛な表情を浮かべた。
「ケンヤ、俺、ホンマ、何しとるんやろうな……」
謙也は白石の弱った姿を殆ど見たことがなかった。元々、彼は歳のわりに随分としっかりしている上に、何かと格好つけるきらいがある。そこからさらに彼の所属していたテニス部で部長を務めていたその責任感も伴ってか、他人に弱みを見せるのが本当に下手くそだった。今だって、謙也相手に迷わず平気なフリをするつもりだったのだから。
(まったく、あの人は何しとるんや——)
謙也は無意識にある男の顔を思い浮かべる。
何かと強がる白石の性格を、それでも謙也はこれといって心配していなかった。彼には種ヶ島という恋人ができたからだ。
以前に2人の非公式の試合でのダブルスを見たことがあるからだろうか。種ヶ島が白石の隣にいるのだと思うと、何故だかそれなら安心だと思えたのだ。
謙也はあまり種ヶ島について詳しいわけではない。けれど、こんなふうに恋人を弱らせて、放っておくような人ではないはずだ。
「っくしゅ」
考え込んでいるうちに、横から小さなくしゃみが聞こえた。見れば白石は季節のわりに随分と薄着である。
「上着、置いてきてもうて」
腕を摩りながら、白石は呟くようにその格好のワケを話した。
「あ、えっと……とりあえず傘入る?」
「ごめん、頼んでもええ?」
「当たり前やん。困ったときはお互い様っちゅー話や」
白石が遠慮してしまわないように、とびきり明るい声で謙也は答えた。
先輩、声デカいっすわ。
謙也に文句を言う生意気なその台詞が聞こえてくるような気がした。白石の隣を共に走っていたあの頃が、今は少しばかり恋しい。
※
実のところ、駅から自宅までの距離は謙也も白石も殆ど変わらない。けれど、謙也はまっすぐに彼の自宅へと向かうことを選んだ。
「俺んち、寄ってくやろ? 」
「ええの?」
「ええって、ええって!オカンも白石に会いたがっとたし、せっかくやからちょっと話そうや」
「ケンヤ、おおきにな」
すぐ隣で、白石が微笑んだ。
その微笑みを見て、謙也の脳裏にある日の出来事か浮かぶ。
謙也は前に一度、白石はこんなに"綺麗"だっただろうかと驚いたことがあった。
元々、彼が整った顔をしていることは謙也も承知していた。形の良い鼻筋に、切れ長の瞳、そして勇ましい眉。四天宝寺においては致命的であるはずの彼のギャグセンスの無さを差し引いても余りあるくらいに、そのルックスは多くの女子生徒を魅了した。
だがしかし、謙也が白石のことを綺麗だと思ったのはあの日が初めてだったのだ。
『俺な、種ヶ島先輩と付き合うことになった』
謙也は初めて聞くその事実にそれはもう驚いたが、白石の緊張した面持ちから真剣さも痛いほどに伝わった。後から聞けば、そのことを直接打ち明けたのは謙也が初めてであったらしい。
『お、おめでとう! ……めでたいよな?』
『何で聞き直すん?』
『いや、白石が種ヶ島さんのことどう思っとるんかとか全然知らんし』
『あー、そらそうやな』
白石は少し困ったように視線を彷徨わせた後、照れ臭さを誤魔化すように笑いながら胸の内を明かした。
『ホンマはな、オーストラリアから帰る頃には先輩のこと、好きだったんやと思う。せやから、うん。めでたいのかもしれん』
困ったように、けれどとても幸せそうに笑う白石は、綺麗だった。とても。