信と正義、目を覚ます 獣人族の片方が目を覚ましたのは、その日の夕暮れ前だった。先に目を覚ましたのは、髪の長い、氷船と歳の近そうなほうだ。
氷船と海晴とで包帯を換えているうちに、朱色の耳がぴぴっと震えて、かすかな呻き声が漏れる。
「……ぅ、あ……?」
薄く開いた瞼の下に、琥珀の瞳が見え隠れする。包帯を巻く都合で半分起こした若者の体を後ろから支えていた氷船は、海晴と顔を見合わせてから静かに彼を見守った。
何度か目をしばたいた若者は、周囲に視線を巡らせて海晴の姿を見つけると慌てた様子で跳ね起きる。氷船の手も払いのけた若者は、しかしすぐにまた呻いて筵の上に丸くなった。
その様子を見て、海晴が淡々と告げる。
「……手当はしたが、完治はまだ先だ。気をつけろ」
「て、あ……? 何故、」
「見捨てるほど外道ではない、我々は」
「…………」
海晴の声からも表情からも、目立った感情は見受けられない。海晴は静かに続けた。
「自分の名前は分かるか」
「……、信」
若者――信がそう答えると、海晴は小さく頷いた。
「そうか。受け答えはできるようで何よりだ。……僕は医者の海晴。患者がもう一人いるのだが、知り合いか? あちらの名前は分かるか」
そうして海晴が信の背後を指すと、信は素直に振り向いた。奥に寝ている顎髭の獣人を見た信の耳がぴゃっと立って、それから少し垂れる。信は答えた。
「この人は、正義さん、だ。……、治るのか」
「治すつもりでいるが、本人の体力にもよるから断言はできんな」
冷淡な海晴の言葉に、信の耳と尾がしんなり垂れる。それでも、信は海晴に向き直って手をつき、頭を下げた。
「……頼める立場じゃないのは分かってる。でも、もし治せるなら、どうか……」
「……偉そうに言っているところ悪いが、別に君も治っていない。まずは自分の治療に専念しろ」
「……」
ぱさり、とぼさぼさの尾が揺れる。それから、はいと小さく返事が聞こえた。海晴は少し息をついて、自分の隣に控えていた氷船をてのひらで示す。
「それから、彼は第一発見者……君たちの命の恩人、その一人だ。手当ても手伝ってくれている。感謝するんだな」
海晴の言葉に信が顔を上げて、そこで氷船と視線が合う。氷船は一度生唾を飲み込んでから言った。
「……、氷船だ。助かって、よかった」
「……」
信の双眸が揺れた。彼は、氷船にも深々と頭を下げてから、人間族の二人に向かって改めて叩頭した。
「……この度は」
静かな、けれどもどこか震えた声が、信の喉から押し出される。格式張った口調にもすぐ切り替えられるのは、もしかしたら獣人族の中でそれなりの立場にいた証なのかもしれない。氷船は埒もなく勝手な想像をしながら、信が続ける言葉に耳を傾けた。
「族長がこの場に居らぬ故、私が先んじて御詫び申し上げる。この度の、人間族への無礼と狼藉、生き残った我々が如何様にも処分を……」
「……、今はいい」
海晴がそれを遮り、立ち上がる。海晴は信を見下ろして言った。
「こちらも族長はこの場にいない。調書を取るのは医者の仕事ではない。――その言葉は族長が聞くし、その後の処断も族長に委ねる。僕は、次の患者があるので失礼する。この小屋の中は動いてもいいが、外には出ないように。……石を投げずにはいられない者も多いだろうからな」
「……」
信を厳しい目で見る海晴は声色こそ静かだが、矢継ぎ早の言葉はほとんどまくし立てるようだ。しかし信は、眉尻こそどんどん下がっていくものの目は逸らすことなく顔を上げ、じっとそれを聞いていた。
そして、失礼するという言葉通りに物置を出ていく海晴を追い、氷船も立ち上がる。そのとき、氷船の裾が遠慮がちに引っ張られた。
氷船が振り向くと、いかつい顔立ちに反して不安げに眉を歪めた信が口を開く。
「その……引き止めてすまない。あんたが、俺たちを見つけたんだよな。俺たちと一緒にもう二人、……それか一人と一頭、いなかったか。そいつらは……」
言葉を選び選びという様子でおずおず訊ねてくる信に、氷船は、昼間のうちに七雲と見たものを思い返しながら答えた。
「……いた。黒髪のと、黒い毛皮のと」
ぴくりと信の耳が揺れる。獣人族は激情家とも聞く。氷船もまた慎重に言葉を選んで続けた。
「ただ、もう息がなかったのと……そこの、正義?という人が、埋めるための穴を掘っていたようだから……俺たちで続きを掘って、埋めた。……あんたも、治ったら行ってみるといい」
氷船は簡単に場所と状況を伝えた。彼らが倒れていた場所とさほど離れていないこと、正義の手がぼろぼろであること、おそらくその手や掘り当てた石で穴を掘っていたのだろうこと。氷船と七雲で埋葬したので、獣人族の作法とは違うかもしれないこと。
それらを聞いた信は、へにょりと耳を伏せてうつむいた。
「……、そうか」
氷船は思わず身構えたが、信は、ほ、と息をついて繰り返す。
「そうか、……すまない、ありがとう……」
信が激昂しないことに氷船も安堵して、筵の上で背中を丸めてうずくまる信にそっと声をかけた。
「仲間なんだな。獣のほうも」
信の動きがふっと止まり、ぴ、と信の耳が震える。何か失言だっただろうかと氷船が視線を泳がせると、信がうずくまったまま、静かに声を押し出した。
「……最初から、あの姿だったわけじゃない。鬼族が、そうさせた。あいつも、俺たちと同じ獣人族で、同じ姿だったんだ」
思いも寄らぬ言葉に、氷船は瞬きをして信を見つめた。信が顔を上げる。
「だから……あんたらも、鬼族には注意してくれ。俺たちは、鬼族に利用されて使い捨てられた。鬼族は……自分たちの力を示すためなら、何だってやる」
俺たちはそれを見破ることすらできなかったんだ、と、信は奥歯を噛み締めて言葉を押し出した。
憔悴した様子の信にはもう少し寝ているよう言って、氷船も今度こそ物置を出た。すると、閉めた戸の横に海晴がいることに気づく。
「海晴先生? ……、待たせちまったか」
「元々、一人にするつもりはなかったから気にするな。彼らの疑いはまだ晴れていない」
物置の壁にもたれて氷船を待っていたらしい海晴は、飛び込む必要がなくて良かった、と肩をすくめた。海晴は、信に引き留められた氷船に何かあればすぐに飛び込む心積もりで様子を窺っていたそうだ。有難いことだというのは氷船も分かっているが、その一方で、そんなに警戒が必要な相手なのか、と他人事のような感想も浮かぶ。
海晴は、その氷船と一緒に物置から簡易診療所まで歩き出しながらこぼした。
「言葉は通じるようでありがたいな。……しかし、鬼族か……」
病み上がりの信の声はそこまで大きくなかったが、物置の密閉性も大したものではない。信と氷船の会話は、海晴にも聞こえていたようだ。氷船もまた、信の言葉に思いを馳せる。
鬼族が起こした乱の話は、長老たちが文を出すのと前後して氷船たちの村にも届いていた。これは蒼生様からの返答も遅れるかもしれぬ、と村長が渋い顔をしてぼやいていたのを氷船も知っている。だが、獣人族と鬼族の関係については、何も正確な情報がなかった。
氷船たち民衆が何も知らないだけなのか、蒼生たち中枢部も知らないのか。信は獣人族の中のどんな立場で、何をどこまで知っているのか。
氷船と同じく、海晴もじっと考え込みかけていたが、彼はすぐに頭を振って前を向き直した。
「……蒼生様の求める情報や証拠を、あの二人が握っているといいんだがな。僕らは、怪我人と手当てのことだけ考えよう」
「ああ。それが適材適所ってもんだと、信じることにするぜ」
氷船もまた海晴に倣う。目を覚ました信に対し、海晴はやや風当たりが強かった。村を襲われたことに、どうしてもわだかまりがあるのだろう。その上で、今はまだ責め立てずに、あるいは責め立ててしまう前に、医者としてのやりとりだけ済ませてその場を離れる選択は、海晴の適材ぶりを示している。氷船は、山道と木々の合間から覗く村の焼け跡を横目に、海晴の後を追った。
それから次は三日経って、今度は顎髭の獣人が目を覚ました。先に信が言っていた通り、正義と呼ばれて返事をするその獣人は、しかしまだ起き上がることまではできないようだった。
その日、海晴と氷船が物置小屋までやってくると、中から話し声が聞こえていた。もう片方の獣人が目を覚ましたのか、と二人は一瞬目配せをして、数回戸を叩いてから慎重に開ける。倒れた獣人たちを見つけたとき、顎髭の獣人に襲われたことは記憶に新しい。
身構えながら戸を開けると、大きな尾を揺らして信が振り向く。
「! 見てくれ、正義さんが目を覚ましたんだ」
そう言って信が場所を譲ると、横たわった獣人の様子が人間たちにもよく見えるようになる。信の言葉通り、そこに寝かされている正義は確かに目を開いていた。まだ動けないのか、正義は寝たまま、首だけ動かして氷船たちに視線を向ける。海晴は硬い声色ながら、寝たままで良いと先に言った。
かたじけない、とかすれかけた声で返事をした正義は、既に信から話を聞いていたのか、海晴と氷船の二人を見て目を細める。
「……あんたたちが、助けてくれたのか。ありがとうな」
正義のその様子に、物置の戸口で氷船を制して立ったままの海晴は眉をしかめた。
「…………僕らのこと、覚えていないのか? まあいいが。極限状態の記憶がないのは、よくあることだ」
「? ええと……?」
心当たりのなさそうな正義と険しい顔の海晴をしばし見比べて、信がすすすと氷船に寄ってくる。
「……? 正義さんと先生、何かあったのか」
「あー……俺たちが最初に見つけて近づいたとき、物凄く、警戒されて。……お前たちを守るためだとは思うが、攻撃されたのは事実だから……海晴先生も、慎重になってる」
「……そうか。それなら確かに、どっちもそうなるな」
問われた氷船が説明すると、信はしばし状況を思い返す様子を挟んでからあっさり頷いた。すかさず海晴が信に尋ねる。
「理解が得られたなら安全確認だ。そいつに戦意は?」
「ない。もしあっても俺が盾になって、あんたたちの安全を保障する」
信も間を置かずに答え、物置小屋に一拍の沈黙が流れる。正義が寝床から口を開いた。
「その……迷惑をかけたんだな。申し訳ない」
「正気に戻ったのなら治療の甲斐がある。今後で挽回しろ」
海晴はやっと戸口から動いて正義に歩み寄った。氷船も助手として海晴の後を追い、信もそれに続く。氷船は一声かけてから正義の体を起こして支え、少し考えてから、信に要点を教えて支え役を交代した。
信が正義の体を支えると、正義の表情からいくらか緊張が薄れて見える。氷船に包帯の交換を、海晴に診察をされながら、正義は尋ねた。
「挽回……というと」
「四日後、蒼生様の視察がある。蒼生様に真実をお伝えして、その処断に従え」
海晴の厳しい声色に、正義の耳がぴっと揺れる。三角の耳がそのまま周囲の様子を窺い続ける傍らで、正義本人はむしろほっとしたようだった。
「……そうか。その名は確か、人間族側の族長候補の御方だったな……お目通り叶うのなら、獣人族としてもありがたい。俺たちに起こったことを、確かに伝えよう」
「……」
海晴の目がしんと細まる。しかし彼は何も言わずに、淡々と診療を続けた。
診療を終えて正義を再び寝かせた後、蒼生の訪問まで何をすれば、と信が言うので、氷船は針と糸、それから端切れを出してやった。獣の爪や牙でぼろぼろになっていた獣人族の衣服は手当てのついでに脱がせ、とりあえず洗って乾かすまでは済んでいたが、補修までは手つかずだったのだ。
やり方は分かると信が言ったので氷船は診療所に戻り、しばらく診療所の手伝いをしてから、昼飯がてら猪肉の握り飯を持って物置小屋に戻った。猪肉は昨日に七雲たち猟師が撃ったもの、握り飯は、無事だった村に分けてもらった雑穀飯だ。
氷船が戸を叩くと信が中から開けてくれて、氷船の周囲を見て耳をひらめかせる。
「珍しいな。一人か」
「海晴先生は渋っていたが……先生も忙しいからな。そろそろ一人でも平気だと俺が押し切ってきた」
「……そうか。信用してくれたのだとしたら、嬉しい」
ぴろ、と信の耳が揺れて、氷船を物置に招き入れる。それから戸を閉めた信は、氷船の盆に飯が三人分あるのを見て正義の肩を揺すった。
「正義さん、起きられるか」
「……、ああ……」
かすれた呻き声とともに正義が身じろぎをする。物置の箱類を少し動かして背もたれを作ってやると楽そうだった。物に支えられてようやく身を起こした正義の手と指が包帯でぐるぐる巻きなのを見て、氷船は訊ねてみる。
「匙と箸を両方持ってはきたんだが……粥のほうが良い、か? どのくらい食べられそうだ」
「それなら……匙を貰うよ。ゆっくり食べれば、粥でなくとも大丈夫だろう」
正義がそう言うので、氷船は、傷病者用に取り急ぎ枝を削ってこしらえた匙と、同じく急遽木材を薄く削った経木で包んだ握り飯とを正義に渡した。正義は、包帯だらけの手で慎重に匙を扱い、経木の上で握り飯を崩して飯と具をすくって食べる。
氷船が持ち運ぶ分には握り飯のほうが楽なのだが、正義が食べやすいかどうかならば握るより椀に盛ったほうが良さそうだ。椀に余剰はあっただろうか、なければ作るか、と思案しながら氷船も握り飯を齧る。そうしていると、横から信が声をかけてきた。
「……足りていないなら、椀や匙も作ろう。繕い物も終わった」
「終わったのか? 早いな」
氷船が驚いて顔を上げると、信は心なしか胸を張って成果を見せてきた。
「獣人族にだって、技がある。こういう技を工芸と呼ぶのだと、志積さんや靜が言っていた」
信の言う、志積や靜というのがどんな人物かは氷船には分からないが、信が繕った衣は、縫い目も丁寧で端切れの柄も遊び心ある並びだった。氷船はそれらを手に取って見せてもらいながら感心する。
「その爪で、器用なもんだ」
「当然、自分の爪には慣れているさ。それに、獣人族は獣の姿で生まれるんだ。子どもたちの爪が開けた穴や引っかけた裂け目は、大人が直してやらないとな」
大人、という言葉に、氷船は思わず信の顔を見直す。さほど歳も変わらないように見えるが案外年上なのか、それとも言葉の綾なのか。氷船が意を決して尋ねる前に、だから獣人族は針仕事も達者なんだと信は話を締め括った。尋ねる機会を見失った氷船が信の衣を畳んで返すと、それは寝床の枕元にちょこんと置かれる。
確かに、着るなら傷がちゃんと塞がってからでないと、せっかく洗って繕った服にまた血がついてしまう。今は信も正義も、上半身は包帯だけだった。
その姿を見て、氷船はぽつりと呟く。
「……早く治さねえと、これから冬に向けて寒くなるぞ」
同時に、氷船は自分の冬支度のことも考えた。村は焼けて、布類も焼けた。家はすぐには建たないし、今あるものだけで冬の寒さを凌ぐ方策を考えなければならない。猟師たちは取り急ぎ食糧のために獣を狩っているが、その毛皮を防寒に回すとして、どのくらいの量になるだろうか。
氷船がつい黙り込んでいると、握り飯を匙で食べながら正義が微笑む。
「獣人族は体温が高いから、もうしばらく平気だよ。その間に、きっと傷も癒えるだろう。心配してくれてありがとうな」
「…………ああ」
その穏やかな様子を見て、氷船の返事が大幅に遅れる。今の正義の様子は、初めて遭遇したときの殺気立った様子とも、村を襲って火をつけたと言われて想像する獣人族の様子とも結びつかない。どれが本当の正義なのだろう、と氷船は思わず疑ってしまう。
薬と包帯まみれの手で慎重に匙を動かしながら、美味いなあとやけにしみじみ呟いた正義の声は、何故か氷船の耳から離れなかった。