獣人族:靜の話(千紫万紅の乱) 文明が発達していない――と言われる獣人族だが、そんな種族の集落にも学び舎はある。学び舎、あるいは託児所、要するに幼い子どもたちを集めて面倒を見る場所だ。その学び舎の窓から、尻尾の毛をなびかせて縁が飛び出す。その縁を追って、少し年上らしい黒髪の少年も同じく窓から飛び出した。
「こら、縁様! 今日は手習いだって前から言ってただろうが!」
「字なんて書いててもつまんねぇよ! オレもにぃちゃんと一緒に行くー!」
簡素な家々の合間を抜ける小路を、縁が軽々と駆けていく。黒髪の少年――靜もまた縁を追い、少しずつ距離を詰めていった。その様子を振り返ってぎょっとした縁が速度を上げ、靜が伸ばした手は空を掻く。小さくなる縁の背中を見て、靜は歯を食い縛った。
「……ッ」
次いで、かひゅ、と喉が笛のような音を鳴らす。靜が息を詰まらせて膝を折りかけたとき、その背中をトンと叩いて誰かが駆け抜けた。
靜を追い抜いた誰かは、燃えるような赤毛をなびかせて一気に縁へ追いつく。
「――縁! 逃げ出すなんて、格好悪いことしてんじゃねえ」
「げえっ、信!」
仔猫のように襟首を捕まえられた縁は、逃げられないことを悟ってげんなり肩を落とした。種族の若者の中でも体格が良く、腕力も脚力も強い信――だからこそ族長が弟御のお目付け役に任命した――から逃げるのは、縁でなくとも至難の業だ。
信は、まだ幼く華奢な縁の肩まわりを小脇に抱え、脱力した彼を半ば引きずるようにしながら靜のもとまで戻ってくる。信の肩から縁の頭へ飛び降りた頼が、からかうように尻尾を揺らしてミャアミャアと鳴いた。
その声に、縁がハッとして頭上を見上げる。
「……あ!! さては頼が告げ口したな!?」
「ンニャア~~~??」
しかし、縁の頭に腰を下ろした頼は素知らぬ顔で前足の毛繕いを始めた。靜は、しゃがみ込んだ路上からそれを見上げて苦笑する。
このくらいは走れるはずだと思ったのに、結局縁を捕まえられなかった。悔しくて目線を落とすと、そこに大きな影が差す。
靜の前に膝をついた信が、ゼエゼエ喉を鳴らす靜の背をさすった。
「大丈夫か? 縁が世話かけたな。……縁」
「うっ……ご、ごめんなさい……」
信に一睨みされた縁が小さくなって、信と一緒に靜の背をさする。大丈夫だ、と、靜が途切れ途切れに言うと、大丈夫じゃねえよぉ~と縁のほうが泣きそうな声を出した。
その縁と靜とを見比べた信が、くるりと靜に背を向けてしゃがむ。
「……ほら、靜、負ぶさりな。縁も、もう逃げねえな?」
「うん……靜と、一緒に帰る」
「……、」
靜は辞退しようとしたが、その声すらうまく出ない。また苦笑した靜は、おずおず信の肩に手を伸ばして負ぶさった。
獣人族は身体能力が高いと言われるが、靜はそれに当てはまらない。生まれつき胸が悪く、すぐに息が切れてしまうのだ。同時に、獣人族には智慧がない、という一般論にも、靜は当てはまらない。靜は、獣人族の他の子どもたちと一緒に駆け回ることも、大人たちに交じって狩りに出ることもできない代わりに、学び舎の誰より書を読んで、様々な勉強をしている。学び舎で子どもたちに字を教えている志積が感心するほどだ。
その靜を負ぶって、信が学び舎へ着く頃には、靜の呼吸も整っていた。靜と信と、それから頼とも一緒に教室へ戻った縁は、おとなしく志積に文字と筆の扱いを学びながら、自分や家族・友人たちの名前、暦や便りの書き方を練習する。
先生の志積と助手の靜は卓の間を回って、子どもたちの書に改善点を教えたり、一緒に書いたりしながら授業を進めた。
「きみの名前は、字こそ少し難しいが、優しい願いのこもった名前だ。一緒に書いて練習しよう」
「筆は、こうやって持つのが書きやすいぜ。止め、撥ね、払いをしっかりな」
半刻ほどして授業が終わると、子どもたちは自分が文字を書いた半紙を見せびらかしながら帰っていく。縁もまた半紙を丸めて握り、しっかり志積と靜に挨拶をしてから、教室の端で授業を見学していた信と頼と一緒に家路を辿った。
しかし、学び舎を少し離れてから、縁の耳と尾がしょんぼり下がる。どうした、と信が顔を覗き込むと、縁は胸元に半紙を握り締めて顔をくしゃくしゃにしていた。
「靜のやつ、前より走れなくなってる。てっきり捕まると思ったのに……」
病気がもっと悪くなったのか?と、縁は目の端に涙を浮かべて信に問うた。信は縁の背を軽く叩き、前を向き直して明るい声色を作る。
「縁が大きくなって、走るのが速くなったからそう思うだけだ。靜は変わってねえよ」
信の言葉に、にゃお、と頼の声も重なる。信の肩から縁の肩に跳び移った頼は、縁の頬をぺろぺろ舐めた。
しばらくされるままになっていた縁は、ぽそりと小声で呟く。
「……またそうやって、オレをごまかす……」
「んにゃー!?」
信には聞こえないほどの、ごくごく小さな呟きだったが、すぐそばの頼には聞こえたらしい。頼は、おれは真剣に縁を心配してるのにゃ!と言わんばかりにわーわー抗議して縁の髪をわしわし掘り返した。
「あで! いていて! 頼のことじゃねえよー!」
「ー!!」
「っふふ……。頼、ほどほどに、な」
収穫の時期も近い、山も畑も色づいてきた日差しの中。獣人族の集落に、賑やかな子どもたちの声と、見守る大人たちの眼差しが満ちていた。
ちょうどその頃。子どもたちが帰って静かになった学び舎の一室で、靜は薬湯を飲んでいた。志積が煎じてくれた薬湯を、噎せないように少しずつ流し込む。湯呑を空にして、靜は少し息をついた。
空の湯吞を引き取った志積が、靜の顔を覗き込んで諭す。
「自分の身体のこと、分かっているはずだ。無理をして走ってはいけないよ」
「ああ。すまねえ、先生……いけると、思ったんだけどな」
靜は、自分の胸をさすりながら苦笑交じりに答えた。背丈こそ伸びたが、うまく肉のつかない体は指先まで細い。薄っぺらい手で患部をさすって、靜はまた笑ってみせる。
「走って捕まえられねえなら……逃げられずに済む工夫を考えなきゃ、な」
「……そうだな。皆に楽しく学んでもらえれば、それが一番だ」
そうして二人は、元気の良い獣人族の子どもたちにどうやって学びを楽しんでもらうか案出しを始めた。日々走れなくなっていく靜をよそに、縁たち健やかな子どもはどんどん走るのが達者になっていく。知と並行してその力も伸ばすべく、靜は、病だけでない胸の痛みをこらえて志積に相槌を打った。
族長の結から靜へ、療養の打診があったのはそれからしばらくのことだ。この頃には、靜は走るどころか、床に伏せることも多くなっていた。
痛みとともに空咳を繰り返す靜の寝床に、志積と結がやってくる。体を起こそうとした靜を、そのままで、と止めた結は、横になった靜の顔に落ちた黒髪を除け、何度かその額を撫でた。
ほ、と靜が少し息をつくと、それを待ってくれていた結が口を開く。
「……鬼族が、食糧の融通と、子どもたちの治療も支援してくれると言っていてな。どうだろう、靜。お前の胸も、治してくれるかもしれねえ。行ってみるか?」
靜は、はたと結を見上げた。それから、師である志積のほうも見る。喋ると咳に邪魔されてしまう靜の意を汲み、志積が言った。
「靜くん一人だけを、よそへやるわけではないよ。ですね、結様?」
「もちろんだ。靜と一緒に、他にも何人か……この不作で弱っている子を、鬼族に託すつもりでいる。……少しでも生き延びてもらいたいからな」
不甲斐ない族長ですまねえ、と結はほろ苦く笑った。靜が首を左右に振ると、結の苦笑が深まる。
靜の黒髪を撫でながら、結は続けた。
「お前は賢い、靜。こんなところで潰えてほしくない。どうか元気になって、志積や正義のように族長を支えてくれ」
耳や髪、頭を撫でられながら、靜はこくりと頷いた。結の隣で、先代の族長に仕えていた志積が微笑んでいる。知らない場所――鬼族の里というものに、不安がないわけではない。だが、その不安を切り拓くのが知識と勉強なのだと、靜は志積に習っていた。
「結さま、おれ……」
かすれた声に、けはけはと小さく咳が乗る。靜は顔を背けて咳をやり過ごした後、結の手を握って答えた。
「鬼族のさとに、いってきます。結さまも、どうか、お元気で」
「ああ。俺たちも、靜が元気で帰ってくるのを待ってるからな」
結は靜の手を強く握り返し、鬼族が迎えに来る日取りを伝えた。
出発の日までは、鬼族が提供してくれたという食糧で精のつくものが食べられた。おかげで数日間は確かな栄養を得られたからか、靜は、出発の日には伏せらず自力で歩ける程度まで回復していた。
見送りに来た結が、靜の肩を叩いて久しぶりに明るく笑う。
「よかった、鬼族の里へ行く前にへばってちゃ、意味がねえもんな」
「ですね。それに、こうやって出発の前に結様や志積先生にちゃんと挨拶ができますよ」
靜も笑って、そして獣人族の弱った子どもたちは、鬼族が用意した馬車に乗って生まれ育った故郷を離れた。
それからは悪夢のようだった。長い移動の合間でも薄々感じていたものの、鬼族は獣人族と獣の区別がついていないのかしないのか、到着した子どもたちを檻に閉じ込めて代わる代わるに引っ張り出しては押し込め、出しては押し込め、幼子が泣くのも無視して無慈悲かつ事務的に扱った。
それでも、不作に苦しんでいた獣人族の集落と違い、空腹で苦しむことはない。だが、日々配られる雑穀の握り飯は、時々鉄臭かったり薬臭かったり、よく分からないモノが具になったり混ぜ込まれたりしていた。病人向けだとかそういう食文化だとかいうより、何か様々なモノを食わせて反応や血液・体調の変化を見ているだけなのではないかと靜は思っている。そう思っていても、生き延びるためには出されたものを食うほかない。
靜は、鬼族の看守が檻の中に置いていった握り飯を一つ取ると、檻の隅で固まっている仔猫たちのそばで一口ぶんずつほぐしてやった。
「勇、食えるか? 烈は? ……紅葉、飯だぞ、目を覚ませ……」
鬼族たちは獣人の子を数えているのかいないのか、握り飯の数はいつも同じで、そして獣人の子は増えたり減ったりする。靜は仔猫たちが食べやすいように握り飯をほぐして手に乗せ、彼らの口元まで持って行ってやるが、飯を食う元気のある者は、日に日に少なくなっていった。
動かなくなった子どもは、鬼族がどこかへ連れて行く。数日後、紅葉がそうして連れて行かれるのを、靜は長い前髪の下から睨んだ。
療養のために訪れたはずなのに、気がつけば仲間は減り、減ったと思えば新たな獣人の子が投入される。もうやめてくれ、獣人の子を鬼族に渡してはいけない、……などと結に伝える術は、靜にはない。文を書いたところで誰も届けてはくれないだろうし、脱走は、既に失敗して見張りが増やされていた。
靜は額の傷跡をがりがりと引っ掻く。脱走の隙を作ろうと見張りに飛び掛かったときにできた傷だ。額の右端が大きく裂け、どくどくと血を流していたはずが、翌朝には既に皮膚で塞がった傷跡になっていた。その治りの早さが、靜はひどく不気味だった。
靜が無意識に傷を掻き続けていると、心配したのか仔猫が膝に乗ってくる。靜が視線を落とすと、膝の上から勇と烈が見上げてきていた。
「みぃ」
「ピャア~……」
「ん、ああ……。そうか、また掻いてたか。血が出る前にやめねえとな……」
薄く苦笑した靜は、傷を掻くのをやめて仔猫たちの背中を撫でた。どちらも、靜とは違う集落から来た子どもだ。檻へ連れてこられた頃はもっと骨張っていた。それでも、先にいた靜が何くれと世話を焼くうちに、いくらかは肉がついて人の膝へ自分で登れるようになったのだ。鬼族の飯あってだと思うと悔しいが、二人に少しでも体力がついたのは喜ばしいことだ。
靜は勇と烈を撫でながら言った。
「肩まで登って来られるか? まだ難しいか……」
「みー!」
そんなことない、と言いたげな勇が、胴を伸ばして靜の衣に爪を立てる。負けじと烈も靜の服をよじ登り始めて、靜は彼らが力尽きても落ちないように手を添えながらくつくつ笑った。それから、胸元まで頑張ったもののずり落ち始めた仔猫たちを肩まで押し上げ、それぞれと鼻先を合わせる挨拶をする。
両肩に仔猫を乗せた靜は、少し前の信も、仔猫の縁と頼を両肩に乗せていたなと懐かしい気持ちになった。
「いつか、みんなで帰ろうな……」
「ぴゃ!」
思わずこぼれ出た靜の言葉に、烈が頷いて返事をする。澄み切ったその返事に、靜は無性に泣きたくなって、両肩の仔猫の毛並みをくしゅくしゅと掻き回した。
悪夢の終わりは、突然に訪れた。
俄かに檻の外が騒がしくなり、見張りたちが浮足立ってどこかへ去っていく。獣人族の耳で漏れ聞くところによると、どうやら鬼人族の次の族長が決まるとか決まらないとかで鬼族の話題は持ち切りらしい。
そして誰かが、檻の鍵を開ける。
「――縁様!?」
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・学び舎
獣人族なので()たいしたことはやってないんだけど……漢字で名前がついてるっぽいので字の勉強はしているんでしょう、おそらく。あとは獣人族の生活に密着した最低限の知識とか?調子乗って遠くまで来ちゃったときの帰り方、食べられる野草と食べられない野草、食べちゃったときの応急処置とか……???
・志積の助手としての靜
現代人に例えたときの年齢感としては、高校生(靜)が幼・小~中学生の勉強を見てるくらい。助手として働いているが、靜自身もしっかり子どもの範囲。
靜が持病で走れないことをみんな知っているので、走らなくても生きていける仕事を…と協議の結果、志積の後継として修業中。他の同年代たちは親に狩りを習ったりしている。