ねじれて、絡まる 4浅い眠りの淵で聞いていた。
まるで泣いてるような声だった。
誰がこいつを泣かせてるんだって腹が立って仕方なかったのに、泣かせているのは他ならぬ自分だった。
「私を好きになって……」
その言葉に応えて好きだと言えたらどんなによかったか。
応えられず口をつぐんだまま寝たふりをして、結局俺はまた彼女から逃げてしまう——。
最低最悪のダメ男だ。
ねじれて、絡まる 4
だいぶ遅くなっちまった。
今週は事件続きだった。緊急の仕事がない限り全員顔見せ程度には出席を、と言われた飲み会を欠席するわけにもいかず、後回しにしてしまったデスクワークをなんとかキリのいいところまで片付けて職場を出ると結構な時間になってしまっていた。
小走りに……というわけにも行かず、杖を突きつつも気持ち足早に飲み会の席へと向かう。
あの店か、と思って脚を止めたちょうどその時、よく見知った紺色のスーツの後ろ姿と、髪をお団子に結った女の顔が見えた。
あぁ、高明と由衣か。
そう思って声をかけようと近寄って気付いた。
由衣が泣いていることに。
驚きと動揺で立ち止まる敢助の数メートル先で、泣いている由衣の肩に手を置いた高明が由衣に顔を寄せたのが見えた。
その瞬間、湧き上がってきたのは怒りだった。
気付いたら杖を放り投げ駆け出していた。
もつれる左足を強引に前に出す。痛みも違和感も感じないのはひどく焦っているからだ。
「何してんだよっ!」
声を上げながら高明の胸ぐらに掴みかかると、怒りに任せて思い切り頬を殴りつけた。
「きゃっ!」
由衣はびっくりしたように小さく叫び、殴り飛ばされて地面に手を付く高明のそばにしゃがみ込んだ。
「随分とタイミングがいいですね?」
「てめぇ! 上原になにしやがる……っ!」
もう一度殴ってやろうかと拳を振りかぶると、由衣はそれを止めるように敢助と高明の前に割って入って両手を開いた。
その顔は涙に濡れてぐしゃぐしゃのままで、急に冷静になって出しかけた手をぐっと止めた。
敢助には目もくれず立ち上がった高明はポケットからハンカチを取り出して一度中表に折り返してから由衣に差し出す。
「一度使ったもので申し訳ありませんが、先ほど君が落としたものよりマシでしょう? 使ってください」
由衣は頷いてハンカチを受け取ると、くるりと背中を向けて頰の涙を拭った。
何で由衣は泣いていて、高明はこいつにキスしたんだ——?
湧き上がる怒りと醜い嫉妬心に叫び出しそうな気持ちを何とか押し込めるためにぐっと手を握り込む。爪が手のひらに食い込むのも構わずに。
「上原はなんで泣いてるんだ……?」
後ろを向いてしまった由衣の泣き顔は敢助からはもう見えない。
一瞬だけ見たその涙に濡れた顔が胸に刺さったまま敢助の心を揺さぶっている。
思えばずっと泣きそうな顔ばかり見ていた気がした。
自分とそういう関係になってから由衣の表情はいつだって儚げで、何かを我慢しているような顔だった。
いっそ泣いてくれた方がいいのにと思ってしまった自分にも腹が立った。
由衣をそうさせているのは紛れもなく自分の所為なのに。
だから何もかも忘れさせるくらい酷く抱いたこともあった。
熱に浮かされているその時だけは、何にも囚われることなくただ自分だけを求めてくれるからと——。
「何故かって? 君がそれを言うんですか?」
高明の声が冷たく響いた。
「高明くんやめて! 敢ちゃんには関係ないから!」
由衣が振り返って叫んだ。
涙は止まっているけれど、目元は赤く腫れている。
関係ない——?
関係ないわけないだろう!
思わずそう声を荒げたくなって思い止どまる。
「俺には関係ない……?」
「敢ちゃん、何でもないから気にしないで」
「何でもない訳ないだろ。お前……俺の前では泣いたりなんかしないくせに……何で高明の前で泣くんだよ!」
抑えていたはずの声は上ずって責め立てるように強く響いた。
「だって敢ちゃんの前では絶対泣きたくないから……」
眉間に寄ったシワ。意思の強そうな瞳がまっすぐ俺を見つめて言った。
「……迷惑に、なるから……」
迷惑——?
迷惑なんて思う訳ないのに。
でもそれが伝わっていないなら、意味なんかない。
本当は笑った顔が見たかった。
それなのに、俺はもうどうやって彼女を笑顔にさせたらいいか分からなかった。
自分の気持ちを言うこともできず、由衣の気持ちも受け取れず、これ以上どうやってこの関係を続けていけばいいのだろうか。
潮時なのだろうか。
手放すしかないのか——。
「……それで、今度は高明を選ぶのか?」
「高明君を……?」
こんなことを言いたかった訳じゃないのに、口から出た言葉は由衣を責めるような台詞だった。
由衣の視線が高明に移る。
それすらも許せないほど苛立つのにどうしてそんな事を問えるのか自分で自分が分からなかった。
「とんだ茶番ですね。いい加減にしてください」
高明が蔑みの滲む顔で敢助にそう吐き捨てた。
「君たちの関係のこと、由衣さんから聞きました」
「は……な、んで……」
「あんな中途半端なことをしておいて、今さら僕が由衣さんにキスをしたからといって君が怒れる立場ですか? そして由衣さんが僕の前で泣いていることに何故君はそんなにショックを受けるのですか?」
答えられずに口をつぐむと高明は敢助の胸を握った拳でぐっと押した。
「答えは出ているはずなのに、言葉にしないのは卑怯です。もし察してほしいと思っているのならそれはただの甘えた馬鹿野郎だ。失望させないでください。そして由衣さんをこれ以上傷付けるというのなら、僕は本気で君から由衣さんを奪います」
そう言った高明の両眼は敢助をしっかりと見つめて揺るぎなかった。
なんだよ、こんなの……。
俺が由衣だったら、こんな情けない男なんて捨てるだろうな。
こいつの方がよっぽど——。
キスをしないのも、名前を呼ばないのも、自分の感情を伝えないのだって、全部いつか彼女を手放すためだった。
幼馴染で物心ついた頃からそばにいた由衣は、恋愛感情を抜きにしても大事な存在だった。
大事すぎて見守ることが当たり前になりすぎていて、迂闊に手なんか出せなくなってた。
敢ちゃん敢ちゃんって俺の背を追って、6歳差を飛び越えてついには同じ刑事になった。
そばにいるのが当たり前になりすぎていて、幼馴染で上司と部下なんて関係のままこれからもずっと楽しく暮らしていけるんだろうなんて甘い考えのまま過ごしていた。
けれど未宝岳で俺が犯人を追って怪我をして意識不明になっている間に、由衣は結婚して、自分は左目と時間を失っていた。
怪我した足も治るとは言われたけれど、完全に元通りになるわけじゃない。
野辺山の事件の時も、俺の巻き添えを食らって由衣は危険に晒された。雪山で杖なんて突く俺を懸命に支えて怯む顔なんて全然見せず、俺を庇おうとさえした。
その時感じたのは恐怖だった。大事なものを失うかもしれない事がこんなにも恐ろしいとは思わなかった。
不足ばかりの自分ではいつか大事なものを取りこぼしてしまう。恐怖は後から後から湧いてきて消えなかった。
移動台車の上から自分目掛けて飛び込んできた由衣を必死に抱き止めた時、自分とは違う頼りない体の細さと命の重みに、違えることなく受け止めたはずの両腕は後からどんどん震えてしまった。だから受け止めてからしばらくはきつく抱きしめていた。
あの時抱きしめた体を忘れることが出来ず、気付いたらこんなに中途半端な自分で由衣に触れてしまっていた。
いくら抱いても満たされることのない醜い独占欲が、絶対に由衣を離したくないと叫ぶのに、理性は不足だらけの自分になにができるのかと責め立てて、手放せと抗うのだ。
もっとちゃんとした心も体もまともな男と一緒になれば、きっと由衣は幸せになれるはずなのに——
高明を見つめていた由衣の視線がゆっくりとこちらに移った。
引き結ばれた唇は震えているのに、それでも強く敢助を見つめている。
「言葉にしないのが卑怯なら、私だってそうよ。どんな関係でもいいからそばにいたくて間違えたの。そうして手に入ったものを二度と手放したくない子供みたいに力一杯握りしめて……大事なのに壊したのはきっと私のほう……」
そんなわけあるか——。
大事にしたいと、大切にしたいと思っていたのに、由衣との関係を壊して心まで傷付けているのは自分の方なのに。
「君たちは……単純な事をどうしてそんなにぐちゃぐちゃにしてしまうんですか?」
高明が静かに声を上げた。
「何もかも抜きにして一番大事な言葉だけを伝えたら、意外と簡単にほどけてしまうはずなのに」
高明は険しかった表情を少しだけ崩した。
「僕は戻りますのであとはご自由に。由衣さん……」
「高明くん……」
「その馬鹿を殴りたくなったら呼んでください。それと……勝手にキスしてすみませんでした」
それだけ言うと、あとはくるりと踵を返して店の方へ戻っていった。
取り残された二人にしばらく沈黙が漂っていたけれど、敢助がそれを破った。
一歩二歩と足を進め距離を詰め、由衣の目の前に立つ。
見下ろした瞳に涙の膜が張っていて、街灯に照らされてオレンジ色に揺れていた。
一番大事な言葉はどれかと頭を巡らせる。
言い訳みたいな言葉ばかり浮かんでは消して、ぐちゃぐちゃの気持ちから一つだけ取り出した。
「好きだ」
由衣の目が見開かれて、その拍子にまた涙が溢れた。
「お前『私を好きになって』って言ってたけど、とっくの昔から好きだった。小さいころの純粋な好きも、兄貴みたいに家族へ向ける好きも、幼馴染を大事に想う好きも、背中を預けられる同僚を想う好きも全部持ってる」
由衣の瞳から次から次へと涙が溢れて、それを高明のハンカチで拭おうとしたのに微かにイラついて由衣の顔を自分の胸元に押し付ける。
「ただの男としての好きだけをくだらない自分のプライドが否定してた。もっとお前にふさわしいやつがいるって、こんな俺が向けていい感情じゃないって」
胸元が涙で濡れていく。その湿った温かささえも愛しかった。
「そのくせ二人きりの部屋でお前に見つめられて身を寄せられた時、湧き上がってきた衝動も興奮も抑えきれずに抱いちまった。あの時ちゃんと言葉にすればよかった。言葉に出す余裕なんてないほどあせって焦がれて、夢中だった。あの時あの状況で初めて、自分がどれだけお前のことを欲しかったのか気付いたんだ。気付いたら止まれなかった」
「あの時……私も、そうだった……。野辺山の移動台車の上から飛び降りた時みたいに、なりふり構わず必死だった。背中を抱きしめた手を離したらもう二度と掴めないような気がして、私は私の体を使って敢ちゃんを繋ぎとめようとしてた」
ほとんど言葉もない夜だったのに、触れた肌の質感も、唇から溢れる息遣いも、必死に見つめてくる瞳も、何もかも鮮明に覚えている。
「私のことが好きなら、どんな好きでもいいから、ずっとそばにいて。触れなくてもいいから、もうどこにもいかないで。体だけじゃなくて、ずっと心が欲しかったの。敢ちゃんが私を好きならどんな好きでも泣きたくなるほど嬉しいよ」
そう言った由衣の体を目一杯抱きしめた。
由衣も負けないくらい必死に背中を抱きしめ返してくれている。
それだけのことなのに、今まで何度抱き合っても得られなかった温かく満たされる想いが胸の奥に広がっていた。