君はペテン師③ ビリー・カーンが片手でサンドウィッチを齧りながら戻ってきたのは、二〇分近く経ってからのことだった。もう片手に三節棍を絡め、酒瓶の入ったバスケットを持っている。
「お前ら、メシは食ったのか?」
「食べてないよ。そんな気分じゃないし……」
「護衛がそんなんでどうするんだよ。空腹で力が出ないなんて、洒落にならねぇぞ」
返す言葉がないボックスに、バスケットから何かを取り出して押し付ける。見ればそれは、スライスしたゆで卵、ハムや野菜がぎっしり詰め込まれたバゲットサンドであった。ロックにも同じもの手渡すと、
「いいか、俺はカインのことは何とも思っちゃいねぇ。振り向かせるところまでは手伝ってやるが、その後はお前達の仕事だ。いいな?」
「自分達の仕事」という言葉に、ロックとボックスはハッとする。確かにそれは、自分達に課すべき役割だった。立場は違えど、ロックもボックスも、カインから随分と多くのものを与えられていた。それは平均水準以上の生活や、財産、或いは、報酬だけではない。到底返し切れるものではないが、それを望むのであれば、今でなくていつであろう。二人は背筋が伸びる思いだった。
ロックにとってカインは、存在感しないと思っていた両親以外の血縁だった。出会い方は決して良い形ではなかったが、カインに対する反発心は、そう長くは続かなかった。カインが用意したロックの私室は、この館で唯一モダンな内装で設えられていた。ロックの今までの生活を鑑みて、華美な調度品では落ち着かないと思ったのだろう。更に、モノトーンで統一された室内には、冷蔵庫とキッチンも備え付けられていて、ロックが望めばこの部屋から極力出なくていい造りになっていたのだ。
「明日の朝食はここで食べるかね?必要な食材があれば用意しよう。無論、シェフの料理を運ばせても構わない」
部屋に通されてその言葉を聞いた時、ロックは自分の行動を恥じた。確かに「キング・オブ・ファイターズ」関連のカインのやり方は回りくどかったが、自分が反発したのはテリーの元を離れる寂しさと不安があったからだ。実父には恵まれなくとも、母の愛、そして母を失ってからはテリーの愛情に包まれた、幸福で長い少年期を過ごしたと今は思う。それを断ち切られることが耐え難く、要因となった初対面の叔父に怒りをぶつけてしまったのだ。その時のロックは十七歳。もう、巣立ってもいい年齢だった。
「いや、一緒に食べるよ。……カイン」
意を決して、生まれて初めて叔父の名前を呼んだ。その時の、カインの表情を、ロックは今でも覚えている。そして、自分の選択の正しさに安堵した。
「……ここに来てから、俺は何の不安も心配もなく暮らしてきた。嫌な思いもしたことがねぇ。俺は、テリーには伝えたけど、カインにはまだ何も言えてない。いつも嬉しそうにしてくれるから、何か、言うのが照れ臭くて……でも、言わなきゃ伝わらないんだよな」
ロックは巻かれたラップを剥がすと、バゲットサンドにかぶりついた。
ボックスもまた、カインとの出会いを思い出していた。ロックよりも更に最悪で、カインを守るグラントに叩き伏せられた状態での対面だった。仰向けに転がされたボックスは、信じられないものを目にすることになる。何処にも熱源が無いにも関わらず、受けた胸部の傷のすぐ上に、紫の火球が出現したのだ。目を瞠るボックスの前でカインが指を鳴らす。火球は爆ぜて、傷口を焼いた。ボックスの悲鳴が室内に響き渡る。呼吸が整わない内に、今度は二つの火球が、それぞれ傷口の至近距離に現れる。……悲鳴は、先程の比ではなかった。次に現れた火球は五つ。先程よりも大きく、禍々しい輝きを放っている。ヒュー、ヒュー、と、情け無い呼吸が漏れていたが、最早去勢を張る余裕はボックスにはない。
「ボックス・リーパー、君はここで死ぬ。最後に依頼主の名前を言うが良い」
「アンタ、おかしいんじゃ、ないか……?そういうのは、さ……助けてやる、から、話せって言、うのが普通、だろ」
恐怖の中、痛みに途切れながら反論するボックスを、カインは口の端に微笑を閃かせて見下ろしている。類いを絶する美貌と相まって、ボックスに一層酷薄な印象を与えた。
「ボックス、お前に助かる価値はない」
音楽的な響きの声で、カインは冷たく宣言する。
「お前は何の為に命を刈り取る?」
「仕、事の、為、だ……」
「ふむ、仕事か。それで、その仕事の先には何がある?」
「何……?」
「お前が殺した結果、どの様な未来に繋がるか。お前は考えたことがあるか、ボックス・リーパー?」
「…………ない」
「だろうな。お前は、ただ、殺す為だけに殺している。お前には目的も、理想も在りはしないのだ。私が助命する価値があるとでも?」
見下ろすカインの紅い瞳が、朦朧とする自分の意識を、かろうじてこの世に繋ぎ止めている。それはカインの言葉と矛盾するが、ボックスは不思議とおかしいとは感じなかった。
「もう一度言おう。ボックス・リーパー、依頼主の名前を言え。私がお前の無為な人生に、価値を与えてやる。最後に、狼の役に立って死ぬが良い」
——そうか、俺は、この人の為に生まれてきたのか。
その考えは、自然とボックスの心に沁みて、かつてない幸福感が全身を包む。
「言う。言うよ。だから、ひとつだけ、頼みを聞いて……」
「ほう、何かな?今更命乞いでもあるまい。言ってみたまえ」
興味深そうな視線を受けたボックスは、一度大きく咳き込むと、最後の力を振り絞ってカインを見上げた。
「カイン、あなたの焔で、俺を殺してください」
余程、予想外の答えだったのだろう。カインは長い睫毛を三回ほど瞬かせると、華麗な笑い声を立てた。
「なかなかどうして……。良かろう。君の願い、聞き届けた」
もう思い残すことはない。そう胸中で呟くと、途切れそうになる意識を奮い立たせ、パパスら旧幹部達の依頼であることをカインに告げた。カインとグラントは視線を交わし、頷き合う。
「良かった、俺、ちゃんと役に立ったんだ……」
無数の紫の火球が、ボックスの身体を取り囲む。それがボックスの最後に見た景色だった。二度と開くことのない瞼の暗闇に包まれ、手放しかけた意識の中、音楽的な響きが微かに聞こえた。
「……テナ……ト。ア……フ……ィダ…………ン」
優しい響きと、爆ぜる熱の中に、ボックスの心身は飲み込まれていった。
「あの時、俺は一度死んだんだ。ボックス・リーパーという武器をカインが壊してくれて、グラントが人間として生き返らせてくれた。……その恩を、俺は、まだ全然返せてない。そうだ、グラントと約束したんだ。カインを守る、ひとりにしないって。絶望してる場合じゃないな」
大きく息を吐くと、ボックスはバゲットサンドを口いっぱいに頬張る。
少年達の気持ちの良い食べっぷりに、ビリーは思わず笑みを浮かべる。「ギース様の忘れ形見」と「滅びの魔人唯一の弟子」に、沈んだ顔は似合わない。そうビリーは思う。
スプリングウォーターで最後のひとかけらを流し込むと、ボックスはペットボトルを眺めながら不満の声をあげた。
「俺、ソーダの方が好きなんだけどなぁ。カインと違って気が利かないよね、『バンダナ』の兄ちゃんは」
「ああ?持ってきてもらって文句言うんじゃねえよ」
「そういえば、ビリーって炭酸苦手だったか……?飲んでるところ、見たことない気がする」
ロックの問いに、ビリーは顎の髭を軽く撫でる。
「苦手ってことはねぇが、最近はアルコールが入ってねえのは飲まなくなったな」
「ふうん……カインも基本的に飲まねぇし、テリーが例外で大人ってそんな感じなのかな」
「確かに、グラントもほとんど水しか飲まなかったな。あ、年齢的に胃もたれするとかある?」
「っとにお前らは……!元気になったらなったでうるせぇな!」
「えー?ビリーが俺達にシャキッとしろって言ったのに。ちょっと酷くない?」
「黙れ!カインのとこに行くまで、さっきみたいな辛気くせえ顔してろ、ったく」
行くぞ、と声をかけて歩き出す。半歩遅れて、ロックとボックスが後に続く。少しだけ元気を取り戻した二人だが、ソファーに座るカインを目にすると、どうしても胸が締めつけられる。その姿はあまりにも儚く、このまま月光に溶けて消えてしまいそうに見えた。
ロックは、まるでこの世の存在ではないようなカインを見つめたまま、
「グラントが」
と、呟き、そこで言葉を止めてしまった。在りし日の思い出をどう言葉にするか、迷っているかのようであった。一〇秒程の沈黙の後、
「俺、グラントに訊いたことあるんだ。何つーかさ、カインって朝からこう、キレイっていうか、オーラ全開、みたいなとこあるだろ。最初はその内慣れるかなって思ったけど、全然慣れなくて……だから、グラントはどうなのかなって。そしたら、こう返ってきたんだ」
ロックの目の前に、あの時のグラントが甦る。身長は二〇一センチ、体重一〇五キログラムという偉丈夫が、仮面の下で明らかに困惑しているのが見て取れる。短い沈黙の後、溜め息混じりにこう言った。
「カインの美しさ、あれはこの世で最も性質の悪い詐術の様なものだ。悪魔でさえ欺かれるだろう。人の身で抗うなど到底出来るものではない。かえってその身を滅ぼすぞ」
その話を聞いて、今、ボックスは、当時のロックと同じくニヤニヤと笑っている。可笑しいわけではないが、笑うしかないといったところであろう。対照的にビリーは、
「詐術だとか悪魔だとか、親友を褒める時に出てくる言葉じゃねぇだろ……」
と、呆れて短く頭を振る。
「うん……言ってる意味はあんまり理解出来なかったけど、やっぱり俺は、そういうカインの方がカインらしいって思う」
「同感。カインには、好きなことを好きなようにやって欲しいんだよね。邪魔する奴は俺が全部排除するから。だから、もうそろそろ起きてもらわないと」
「ビリー」
「『バンダナ』の兄ちゃん」
「俺の叔父さんを」
「俺達のボスを」
そして、二人は同時に頭を下げた。
「助けてくれ」
言外にそういっているのが、ビリーに伝わる。ここに着いた時の二人とはまるで違う、やるべきことを理解している、そんな二人だった。ビリーは口の端に微笑を上らせた。
「頭上げろ。ったく、お前らは本当に極端だな。さっきも言ったろ、あいつを振り向かせるところまでは俺の仕事だ。そこでちゃんと見てろ」
顔を上げたロックとボックスの目に、ビリーの大きな背中が映る。それは、帝王ギース・ハワードの用心棒から側近へと登り詰め、その死後は、組織を守ることに尽力してきた男の背中だった。少年達の熱っぽい視線を感じながら、ビリーはカインの元へ歩みを進めた。