君はペテン師② 当時、ボックスの存在を知っているのはグラント唯ひとり——の、はずであった。表向きには。ボスであるカイン暗殺の実行犯を、よりにもよってグラントが匿い、育てているなど、決してあってはならない——はずであった。
グラントがボックスを弟子としたのと時を同じくして、カインの態度に明らかな変化があった。不快感や苛立ちの類いではない。今まで気まぐれに訪れていたカインが、訪問前に必ず「これから行ってもいいか」と連絡をしてくるようになったのだ。ボックスの存在への配慮であることは明らかだったが、何と言っていいかグラントには判別がつかず、短く「ああ」と答えるのが常だった。食事に関しても、成長期の少年に必要であろう分量が加えられたし、届けられるタオルや衣類などもグラントひとりの量ではなかった。
カインの影として、護衛、補佐、そしてファミリーの守護者までも、完璧なまでに務めるグラントである。しかし、隠しごととなると、どうやらそうはいかないらしい。ましてや、相手は明晰な頭脳と鋭い観察眼を持つ親友である。完全に見抜かれていることは明白だったし、カインの方でもボックスを忌避してはいないようだった。だからといって、今の段階でカインに引き合わせるのは、いささか時期尚早であるとグラントは思う。現在は違うとはいえ、ボックスは確かにカインを狙う暗殺者であった。そのことは組織の全員が知っている。単純な好悪の念で赦していい問題ではない。その為には実力と忠誠心を示し、ボスであるカインに認めさせなければならない。その程度の禊が出来ないのであれば、自分の弟子は務められても、狼の友とはなれないだろう……。
ボックスは、師の想いに十二分に応えつつある。グラントの修行は厳しく、辛いものであったが、それでも奥底に揺蕩う優しさを、ボックスは常に感じ取っていた。他人から見れば地獄のような日々でさえ、ボックスには温かなものであったのだ。——そして、あの日が訪れた。
修行の合間、短い休憩を取っていたボックスの頬を、僅かに揺れる空気が撫でる。一流の暗殺者として研ぎ澄まされた感覚でさえ、見逃すような存在感の無さ。以前であれば死に直結したであろう。背筋を氷塊が滑り落ちる。咄嗟に振り向いたボックスは、一瞬前とは異なる驚きに支配された。彼の目に映るのは、高級そうな白いスーツと、白金色の頭髪。カインの背が遠ざかっていくところだった。慌てて物陰に身を潜めたが、カインは全く気に留めていないようだった。その足取りに生気はなく、歩くというより漂うと言った方が近い。かつて自分を尋問した、美しいまでの恐ろしさは微塵も感じられなかった。グラントと言葉を二、三言交わすと、二人はそのまま地面に座り込み、グラントの大きな肩に寄りかかってカインは目を閉じる。眠っているのか、そうしているだけなのか、ボックスにはわからない。ただ、邪魔をしてはいけない、それだけは理解出来た。物陰で気配を消してじっと待つ。
……どれだけの時間、そうしていたのだろうか。再び空気が揺れるのをボックスは感じ、そして、次の瞬間。
空間に、輝くばかりのエネルギーが急速に満ちてていく。肌が粟立つような感覚に、グリーンの瞳が淡く滲んだ。立ち上がる、ただそれだけの動作が、これほど美しく、生命に満ちて輝くものなのか!「生きる」という言葉の意味を初めて知った気さえした。胸が震えて、頬を銀色の雫が伝う。
グラントの声で我に返った時、カインの姿は既になかった。袖で涙を拭うボックスの背をグラントは優しく叩く。
「極稀にだが、カインはそう、電池切れとでも言うか、ああいう状態になる事がある」
「……わかった。その時は、どうすればいい?俺に出来ることはある?」
「ただ、側に居れば良い」
「側に……」
「ああ。ひとりにしないでやってくれ。頼む」
「わかったよ、グラント。俺はカインの側を離れないから」
頷くボックスの頭を、混ぜるように大きな手が撫でる。少しの気恥ずかしさと、それを凌駕する温かさ。この日のことを、ボックスは生涯忘れることはなかった。
「俺は約束したのに……カインをひとりにしないって。なのに……俺が紅茶なんか淹れに行ったせいだ。適当に水でも出しておけば、こんなことにならなかったのに」
「それは違うだろ」
「ボックスだけのせいじゃねぇよ。俺も、アップルパイなんか焼かなきゃよかった。似た感じの菓子パンでも買っておけばよかったんだ」
「お前らな、水と菓子パンは流石に可哀想だろ!」
「そんなことないよ。な、ロック」
「ああ。ボックスが注いだ水と、俺が買ってきた菓子パン。カインは絶対喜ぶ」
「仮にもマフィアのボスだぞ、お手軽すぎるだろ……」
そう答えてはみるものの、どことなく嬉しそうに水を飲みながら菓子パンを口に運ぶカインの姿が、ビリーの脳裏にありありと浮かぶ。サングラスを抑えて目を閉じ、空想を振り払う。
「で、何でお前らはこんなとこに突っ立ってんだ?ひとりにしたくねぇなら、隣りに行って座ってやれよ」
「もう行ったよ。でも、何の反応もなくて……」
ボックスはそれ以上、言葉を紡ぐことが出来なかった。師であるグラントであれば、カインの異変に気づくか、あの日のようにカインから頼って来たに違いない。代わりになれないことは分かりきっているが、それにしても、余りにも情けないではないか。ボックスは何かに耐えるように、唇を噛み締めている。見ればロックも似たような表情を浮かべていた。不甲斐ない自分達に出来ることは、最早、死者との対話を見守ることしかない……そう思っているようであった。
「ハァ……お前らが、カインを大好きだってのはわかった」
「ビリー、そういう言い方は……!」
ロックは、怒りと傷心が混ざった視線をビリーに向ける。それを受け止めて、ビリーは軽く頭を掻いた。
「別に揶揄ったワケじゃねぇよ。要はアレだろ。お前らの声が届かねえのが問題ってことだ」
「え?まあ、そういうことになるのかな……」
「ったく、お前らは揃って手がかかるな。ちょっとそこで待ってろ」
三節棍で磨き上げられたタイルを軽く打つ。乾いた音が消え去る前に、屋内へとビリーは歩き出す。その腕を、ボックスが素早く掴んで引き留めた。
「待って、何の用で来たのか聞いてない」
見据える視線に幾分か力が宿る。要件の不明な来客は、誰であっても通すわけにはいかない。それがカインの護衛の矜持である。
「ハッ、少しは護衛らしい顔になったな。メシだよ、メシ。今日はこの近くで仕事だったからな。イーストに帰って食うより、こっちの方が近いんだよ」
「カインに連絡は?一定時間経ったら俺に転送される設定だけど、来てないよ」
「今更カタイこと言うんじゃねーよ。俺はここの卵料理を気に入ってんだよ」
「別に来るなとは言わないけど、よその家に来る時は連絡するのが礼儀なんじゃない?」
ボックスの正論に、ビリーは思わず舌打ちをする。
「ああ、わかったよ。お前のボスがちゃんと起きたら、アポがいるかどうか確認する。それでいいだろ?」
「……わかった」
不承不承といった体でボックスは引き下がる。三節棍を斜めに担いで、ビリーは屋内へ続く階段を上って行く。少しずつ遠ざかる、他組織のボスの背中を、ロックとボックスはそれぞれの表情で見送り続けた。