君はペテン師④ 地上のタイルから接する水上の小島に、危なげない足取りでビリーは渡る。シュロの木と南国風の植物が植えられており、星空を眺める為の赤いソファーの左右には白い花が揺れている。おそらく、蘭の一種だろうが、それ以上のことはビリーにはわからない。彼が理解しているのは、満点の星空を見上げているカインの心を、冥界から現世へと引き戻す扉を作らねばならない——そのことだった。
わざと音を立てて、乱暴にソファーに腰かける。音も衝撃も伝わっているはずなのに、カインは何の反応も示さなかった。晴れ渡る夜空には無数の星が輝き、月は柔らかな光を地上へと投げかけている。銀色の光を浴びるカインの姿に、ビリーはかつてギースと共に鑑賞した『ジゼル』というクラシックバレエの演目を思い出していた。
行く前は事前に調べたストーリーに、本気で腹を立てていたビリーである。ジゼルがアルブレヒトという貴族の男に裏切られ、命を絶って尚、その男を許すなど、妹のいるビリーには理解し難いことこの上なかった。もし妹が同じ目に遭ったらと思うと、はらわたが煮えくり返る思いである。
しかし、実際の舞台を観たビリーは、衝撃を受けることになる。ストーリーはやはり納得がいかなかったが、乙女のまま亡くなり精霊となったジゼルは、舞台の上で見事に消えて見せたのだ。人の目には見えない精霊のジゼルと踊る、許しを乞うアルブレヒト。ダンサーは確かにいるはずなのに、日が沈む直前の夕陽のように精霊にエネルギーはなく、ただ美しく揺らめいて、消えた。
隣りに座るカインもまた、生命を感じさせない美しさでそこに在る。だが、あの舞台のジゼルのように消えさせるわけにはいかなかった。ビジネス上の理由もあるが、ロックとボックスの信頼を裏切りたくはなかった。そして何より、つまらないではないか!
「悪のカリスマ」と呼ばれたギースとは異なり、カインにはそもそも「善悪」という概念が希薄であるように、ビリーには見える。自分を取り巻く人々に対しては温厚で無害だが、敵と認識すれば命を奪うことに一切の躊躇いがない。しかしそれは、あくまで目的の為の手段に過ぎず、取り立てて残虐性を有しているわけではなかった。カインの視野は広く、その射程は遠い。その経路上にある邪魔な小石を取り除く。その程度の感覚であろう。その一方で、認めた相手は敵であっても素直に讃える少年めいた純粋さもあり、そうかと思えば、高い知能と広い度量で年少者を導く姿は、実際の年齢よりも大人びて見えた。
絶妙のバランスで混ざり合う幾つもの矛盾を、ビリーは結構気に入っている。だからこそ、今のカインに対しては、心配というよりも苛立ちを覚えるのだ。
軽く舌打ちすると、右手でカインの形の良い顎を掴み、顔を強引に自分の方へ向けさせた。揺れる白金色の頭髪を、月の光が滑り落ちて輝かせる。ビリーは、魂が抜けて紅玉めいた瞳を睨みつけるように覗き込んだ。
「俺様が見えるか、カイン・R・ハインライン」
数瞬の沈黙の後、長い睫毛が僅かに揺れて、紅い瞳にぼんやりと光が灯る。
「……ビリー、カーン……何故、君がここに……」
とても完全な覚醒とは言えないが、カインの意識の先端に、ビリーは自分の手が触れたことを理解する。同時に、今触れているその細い糸を、絶対に手放してはいけないということも。
内心の緊張を完璧に押し殺し、ビリーは籐で編まれたバスケットから、ワインの瓶を取り出した。
「見えてんならいい。一杯付き合え」
その瓶を見た瞬間、虚ろだったカインの瞳が大きく見開かれた。向き合っているビリーが驚く程に、カインの意識が、急激に鮮明になっていく。
「ビリー・カーン、何故、これを君が持っている」
「……厨房の冷蔵庫に、一本だけあったから持ってきたんだが、マズかったか?」
「厨房?君は、一体何の用があってそんな場所に?ゲストが立ち入る場所ではないと思うが」
今までに見たことがない程動揺するカインに、ビリーも困惑の度合いを深めていく。一体、そこまでこだわる理由が、このワインにあるのだろうか……?
「確かに、行儀がいいとは言えねぇな。ただ今日は仕事が忙しくてな。ランチの後は何も食ってなかったんだよ。食堂で待ってるより、その場で食う方が早いだろ。それでまあ、コイツを見つけて、セラーまで探しにいく手間が省けていいと思ってな。大事なヤツなら悪かった」
カインの手に、持っていた瓶を返してやる。受け取ってカインは、どこかホッとしたような表情を浮かべた。
その瓶は本来の持ち主よりも大分可憐で、瓶本体に直接装飾が施されていた。その銘柄は「ドルンレースヒェン」。ドイツ最大のワインの生産地・ラインヘッセンの醸造所で作られた甘口の赤ワインで、ドイツ語で「眠り姫」の名を冠するに相応しく、その上下を淡いピンクの薔薇が、金色の蔓と共に華やかに彩っている。
「……これは、サカンドサウスの完全独立化が成ったら飲もうと、グラントと約束していたものでな」
「それは、何というか……悪かった。勝手に持ち出して」
「いや、構わない。取り立てて高級という訳でもないしな。寧ろ安価な物だが、ビリー・カーン、これにはヴィンテージの表記が無いだろう?何故か解るか?」
「いや……」
「醸造所曰く、眠り姫は歳を取らないから、だそうだ。それが私とグラントの友誼が悠久である事と、重なって見えたのだ。それにグラントは、ああ見えて甘口が好きだった。だからこれをと思ったのだが」
手にした約束のワインを見つめ、カインは愛おしそうに笑った。
「そうか、他は全て叶えてくれたのに、これだけは果たして行かなかったのだな……」
親友以上の友、半身である男が困惑する姿を、カインはそこに見出しているかのようだった。
「まだだ」
と、ビリーは思う。意識は現世に戻って来たが、カインの目に映るのは懐かしい過去だった。口調は優しく、声色も温かい。それだけにビリーの心は穏やかではいられない。カインの最大の魅力は、現在を通り越して未来を見つめる強さと、自信と活力に満ちた、腹立たしいまでに華麗な微笑である。それを取り戻すのは、やはり、自分ではないだろう。
「カイン、お前にとってグラントが大事なのはわかる。俺のギース様への忠誠は、今でも変わらねぇからな。だけどよ、お前にとって大事なのはグラントだけじゃねぇだろ?ガキ共がお前を心配してるぞ」
弾かれたようにカインは顔を上げる。狭窄に陥っていた視界が、急速に広がっていく。同時に、夢の中のような靄が晴れて、クリアになった彼の世界に、二人の少年の姿が飛び込んで来た。この世でたった一人の甥であるロック・ハワードと、アベルから託されたもう一人の「グラント」ボックス・リーパー。……どうして、彼らが見えなくなってしまっていたのだろうか。それがどれ程彼らを悲しませるか、今なら考える必要もないことだった。手にしていた瓶と白い封筒を、丁寧にソファーに置いて立ち上がる。ビリーの前を通り過ぎて、小島から地上のタイルへと足を踏み入れた。それはまるで、冥界から抜け出したオルフェウスの歩みに見えた。
「ロック。ボックス」
名前を呼ぶと、優しく二人の少年を抱き寄せた。
「済まなかった。心配を掛けたな」
耳元で淡く溶ける音楽的な響きと、背に伝わる温もりは、二人の少年の胸を詰まらせた。伝えたいと思っていた言葉は沢山あるのに、どうしてか、「カイン」と名前を呼ぶのが精一杯だった。年若い叔父の、主君の背を、抱き返す。もしかしたら、若干力を込めすぎたかも知れない。カインの愉快そうな笑い声が耳をくすぐる。今のロックとボックスには、それさえも心地良かった。