君はペテン師⑤ 三人の様子を眺めていたビリーだが、やがて大きく息を吐いた。
「まったく、お前らは手がかかるな」
「人の家を無料で、食事付きの常宿にしているのだ。多少の手間は快く提供して貰いたいものだな」
体を離しながら、カインは笑う。それは少しも悪びれない、それでいて妙に魅力的な微笑だった。
「多少、ねぇ……」
実のところ、ビリーも「こうすればカインを振り向かせられる」という確証があったわけではない。他にやりようがなかったし、グラントもカインの魂を道連れにすることは望まないだろう。そうである以上、カイン本来が持つ強さを信じるしかなかった。ほとんど賭けと言ってよかったが、それをロックとボックスに悟られるわけにはいかなかった。その辺りの苦労を、「多少の手間」で片付けられるのは、やはり、不本意であったに違いない。
サングラスの奥の瞳から、カインはそれを読み取ったらしい。悪戯っぽい笑みをビリー向ける。
「確かに、多少、というのは過小評価が過ぎるな。君の仕事が早く片付いて空腹でなかったなら、私はまだ二人に心配を掛けていただろう」
いつの間にか、カインの口許から笑みは消えて、真剣な面持ちになっている。
「ビリー・カーン、君に改めて礼を言おう。卵料理でも、酒でも、好きなだけ食べてくれ。無論、他に望む物があれば、出来る限り配慮しよう」
「最初の二つだけで十分だ。ギャラは多くても少なくても、後々面倒になるからな」
「……そうか」
カインは短く頷く。
「それで、お前、自分がこうなった原因に心当たりはあるのか?」
ビリーの問いに、ボックスも、ロックも、カインをじっと見つめる。
「次こそは」
二人のその決意を、カインは感じ取ったのだろう。ソファーに戻り、白い封筒を取り上げる。
「ああ。今回の原因は、これなのだ」
……他にどのような欠点があろうと、「怠惰」の二文字とは無縁のカインである。敵対勢力の襲撃や、表の事業でも何か不測の事態が起きるかも知れない。そのことを想定して三日分は先行して仕事を進めているのだが、ここ数日は平和であり、カインが勤勉で優秀な所為もあって、三日どころか一週間先まで片付けてしまった。久しぶりに紅茶を飲みながらゆっくり読書でもしようか。そう思い立ったカインは、ロックとボックスがティータイムの準備をしている間に、何冊か本を取りに行くことにした。きちんと整頓されていることもあり、目当ての本はすぐに見つかった。久しぶりに読むタイトルの懐かしさで、何とはなしに頁を捲る。その中に、この封筒が挟まっていたのだった。
「これは、グラントが私にくれた手紙なのだ」
グラントは寡黙な性格で、カインと二人きりであっても饒舌になることはなかった。だからカインが話し、グラントが聞く。それが二人の常だった。カインはそれで満足していたが、グラントの方は、いつも話してくれるカインに対し、いま少し何か伝えたいと思ったようであった。
「それでこれをくれたのだが……読んでみるか?」
三人に向けて封筒を差し出す。亡くなった後に勝手に手紙を見るなど、非礼の極みではないだろうか。そう思い、躊躇う彼らに、
「誰にでも、とは言わないが、君達になら見せても文句は言わないだろう。……いや、文句があるなら、言いに来たらいいのだ。そうだろう?」
ほんの僅か、紅い瞳に寂寥の色が浮かぶ。促されるまま、ボックスは封筒から、二つ折りになった白い紙片を取り出した。一瞬の間を置いて、便箋を開く。
「え……?」
三人は揃って驚きの表情を作る。それもそのはずで、開いた便箋の内側もまた、月のように真白であった。ひと文字も書かれていないその手紙を、カインは柔らかく見つめる。
「結局、何を書いていいか分からなかったそうだ。だから私は、この手紙がとても好きでね。グラントが、あの大きな体でこの小さな紙片と向き合い、その間ずっと私のことを考えていてくれたのだから」
敵の多いカインである。大切な手紙は、書斎や私室のデスクにしまっておけなかった。何かを漁るとしたら、真っ先にそこを調べるであろうから。それで愛読書の中に忍ばせておいたのだ。
「最近は仕事関連の本を読むことが多くてな。久しぶりにその手紙を目にしたら、無性に会いたいと、もう一度声が聞きたいと、そう思ってしまった。それで一緒に星を見たあのソファーに座って、これを持っていたら、見えなくとも側にいられる気がしたのだ」
カインの精神の強靭さを、三人は疑ってはいない。それでも、失うべきではない人を失ったその傷が、この短過ぎる時間で癒えるはずがなかった。特にビリーは、そのことを身をもって知っている。カインの行動を責められようはずがなかった。
「あの、カイン」
「どうした、ボックス」
「グラントはいつも俺の演奏褒めてくれてさ、それで、グラントの好きな曲を訊いたことがあったんだ。そしたら、音楽は聴かないって言ってて。でも嫌いなようには見えなかったから、何で聴かないか教えてもらったんだ」
「ほう。それは私も初耳だな」
「……音楽より、カインの話を聞いていたいって、そう言ってた」
グラントは、どのような音楽よりも、カインがあの声で語る二人の夢の話を、或いは、他愛ない話を聞くのが好きだった。二人きりの時は、表情もぐっと和らいで、カインは邪気のない笑顔を向けてくれた。自分にだけ見せてくれるその姿を、グラントは喩えようもなく貴重なものに思っていた。
「だから俺、グラントがカインの隣りで息を引き取ったって聞いた時、思ったんだ。ああ、グラントは幸せな旅立ち方をしたんだな、って」
敬愛してやまない師匠の最期が幸福に満ちていた。ただそれだけのことが、ボックスには嬉しい。だからこそ、ボックスはカインに伝えなければならないことがあった。
「カイン、俺は多分、今からとても失礼なことを言うよ。だから、気に入らなかったら殺していいから」
「随分と物騒だな。言ってみたまえ」
「うん……。カイン。カインはもう、幸せになってもいいんじゃない?」
ボックスの言おうとしていることを、カインは正確に察知した。セカンドサウスの完全独立化、その夢は成就した。そうである以上、後はゆっくりと長過ぎる余生を過ごしてもいいのではないか。ボックスはそう問うているのだ。
「ファミリーの皆が、まだ入ったばかりの頃に教えてくれたんだ。カインが、八歳でこの世界に入ってから、どれだけ苦労してきたか。カインだからつい簡単そうに見えるけど、本当は、あなたは誰よりも努力して、傷ついて、それでも前だけ向いて……。いつも一番キツい選択肢を選ぶカインは俺達の誇りだけど、もう、十分だよ。……どうか、幸せになってください、ボス」
深みのあるグリーンの瞳が、涙に滲んでいる。命をかけてでも伝えたい、ボックスのその願いが、カインの心に温かな波紋となって広がっていく。
「そうだな。ボックス、お前の言うことが正しいのだろう。だが私は、こういう生き方しか出来ぬのだ。赦せ」
そう言ってカインは、ボックスの頭を撫でた。
「……いいよ、カインがそれを望むなら。俺はもう、カインの側を離れないから」
「そうか。では私も、お前の忠誠に相応しいボスであるとしよう。最後までついて来るがいい」
「オーケー、カイン。……あのさ、もうそろそろ撫でるのやめてもらっていい?」
「ああ、済まない。グラントが言っていた通り、丸くて可愛いと思ってな」
「え?」
「まんまるだな、お前の頭は」
最後に軽くポンと叩くと、カインは満足気に笑う。ボックスは口の中で何か呟いたようだったが、誰の耳にも届くことはなかった。それを見ていたロックは、どこか拗ねたような表情を浮かべる。
「何だよ、撫でられるなら誰でもいいんじゃねぇか」
「ええと、ロック君、君は撫でられたくないのだと思っていたが、違うのか?」
「……ロック」
「何……?」
「ロックって呼べよ。……わかってるよ、マフィアのボスって威厳?とか、そういうのが大事なんだって。でもここには俺達しかいないだろ。二人きりの時だけじゃなくて、もうちょっと、こう、何て言うか……クソッ、よくわかんねぇけど、カインは俺達を舐めすぎなんだよ!」
「え?待ってくれ、ロッ、ク……私、いや、俺は君達を馬鹿にしたことなどないよ」
「馬鹿にしてるとか、そういう意味じゃなくて。その、ビリーは違うって言うかもだけど、少なくとも俺とボックスはどんなカインでも、その、ええと、だから、何て言うか……」
耳まで赤く染めて言い淀むロックを、ボックスが混ぜっ返す。
「ええ〜?ロックくんさぁ、肝心なとこ言えないってナシじゃない?」
「しょ、しょうがねぇだろ。苦手なんだよ、こういうの」
仲良く応酬を続ける二人を見て、カインは笑い、ビリーは呆れて頭を振る。
「ったく、アイツら見てると、ここがマフィアの邸宅ってこと忘れそうになるぜ」
「うん……本当は、ボックスの方こそ、ロックと同じ世界に行った方がいいと思ってたのだけど。ああ言われてしまったらね。ちゃんと面倒見るしかないな」
今までとは異なる口調に、ビリーは思わずカインに視線を送る。
「お前、素はそんなカンジなんだな……。まあ、お前の見た目でその口調だと、今よりも舐められるか」
一度でも戦えばその強さは理解出来るが、優美過ぎる容姿が、それを完全に覆い隠している。それがこの世界において不利に働くことを嫌ってのことだろう。ビリーがそう判断したのは無理はない。だが。
「それもあるけど、そうだね、ビリー・カーン、ちょっと耳を」
「何だよ」
カインは耳元で何事かを囁いた。すると、ビリーの顔色がみるみる変わっていく。耐えかねたように、カインの背中を思い切り叩いた。
「いった……何で叩く」
「うるせぇ!その顔で何つー言葉喋ってんだお前は!」
「顔は関係ないだろ……」
「余計タチ悪ィんだよ!」
「言ってる意味がわからないな。とにかく、普通に話すとうっかりああいうスラングが出てきそうになるから、気をつけて話しているのだよ」
いつも通りの口調に戻ると、カインはにこやかに微笑んでみせた。グラントに向けるものとは異なり、明らかに計算した笑顔である。そのことはビリーにも、嫌という程わかっていた。今にして思えば、先程の口調も本当にカイン本来のものか甚だ怪しい。ロックの発言でそう思ってしまったが、根拠となるべきものは何もなかった。メリットなどなくとも、単なる悪戯でやりかねない男である。忌々しげにカインを見やると、胸中で
「相変わらずイカれたクソガキだな」
と呟き、この夜で最も大きな溜め息を吐いた。