幻影 その日、フィガロは珍しくファウストへの晩酌の誘いに成功した。ネロからファウストの気に入りそうな酒を聞き出し、節度ある距離感でしばらく接し、発言にも充分に気をつけた。そうしてようやく、ようやくその切符を手に入れたのだ。
軽食と共に部屋にやってきたファウストは、部屋に用意された丸いテーブルにバスケットを置く。中には酒のつまみになりそうな料理が小分けにつめられており、フィガロは感嘆の声をもらす。
「ははっ、どれも美味しそうだね。ありがとう、ファウスト」
「……礼ならネロに言ってくれ。ぼくは渡されたものを持ってきただけだ」
帽子をつばを下げるファウストに、フィガロはゆるゆると首を振る。どうやら同じ国の彼とはずいぶんと仲が良いらしい。小さな寂しさをフィガロは笑顔で飲み込む。
そうして、お互い妙に緊張しながらも今夜の晩酌ははじまった。
ファウストは飲んだ。失言を恐れ普段より話さないフィガロと、もともと口数が少ないファウストではどうしても無言の時間ができてしまう。そんな妙な間を埋めるべく、ファウストはグラスを手に取り、酒はどんどんと減っていった。
しばらくすると、彼はふわふわと笑うようになった。滑舌が少し弱くなり、妙に素直になる。話の途中でうつらうつらとすることも時間と共に増えてきた。
お開きにしようか、その言葉を言えたらどれだけよかっただろう。しかし、苦労して手に入れたこの機会をフィガロはみすみすに手放したくなかった。あと少し、あと少しが知らず知らずのうちに重なっていく。
残り少ないボトルの酒を注いだファウストは、眠たげに眼を擦る。丸いサングラスはいつの間にか外していたようで、テーブルの隅にちょこんと置かれていた。
「まえに、」
酔っ払い特有の座った目で、ファウストはフィガロを見る。こっそりと自分の酒を水に変えていたフィガロは、誤魔化すように微笑んだ。
ファウストは背もたれに背中をつけ、ぼんやりと宙を見つめる。酔いが回った人特有の長い溜めの時間のあと、彼はゆっくりと口を開いた。
「おまえを呪ってほしいと、言われたことがあった」
「へえ?」
意外だった。思い当たる節はたくさんありすぎて分からないが、呪い返しのリスクを考えないとんだ命知らずなのだろう。顔が見てみたいものだ。
「言わないぞ」
「ははっ、何も言ってないって。それで、おれのこと、呪ってみた?」
ファウストは分かりやすく不機嫌な顔をしながら、しっかりとした手つきでグラスを口に運ぶ。いつもよりも幼げな表情は、ひそめた眉の奥ではどこか寂しそうで、悲しそうにも見えた。
「呪うわけないだろう。だって、あなたは……」
ゆるゆると首を振るファウストはふぁ、と大きなあくびをする。眠たげなその仕草に、フィガロはピクリと眉を動かす。
ファウストはそのまま腕を組み、背もたれにもたれながら項垂れる。そして、ゆっくりと目を閉じた。
「え、うそ、寝ちゃった……?」
フィガロが立ち上がるが、目の前の彼は小さな寝息を立てるだけだ。顔にかかったふわふわの髪の毛がさらりと頬から離れていく。一人残されたフィガロは、分かりやすくため息を吐いた。
瞬間、茶と緑の素朴な空間に、熱さを感じない炎が部屋中に広がっていく。赤と黄と白、そして黒の景色の先には、いつの間にか現れた銀髪の青年が恨めしげにこちらを見つめていた。
「ねえ、そんな目で見ないでよ」
幻影に話しかけても、何も変わらない。途端にどこか虚しくなり、フィガロは先ほどよりも大きなため息を吐いた。
向けられた視線は自分へではない。そのはずなのに、やけにざわざわと心が揺さぶられるのだ。
景色は次第に明瞭になり、かつてのファウストの仲間やレノックス、それにフィガロの姿も浮かび上がってくる。
「あぁ……」
自分とそっくりな幻影に安堵する自分が、フィガロは堪らなく嫌だった。