蜘蛛の糸 いつも通り寝坊をすると、いつも通りミチルが起こしにきてくれる。パタパタと彼が部屋から出ていくと、扉から透けた白の布が舞う。フィガロが瞬きを一つすると、そこはいつも通りの一階の自分の部屋。なんだろうか、あの布は。
気のせいかと思った。昨日はうっかり夜遅くまで起きていたため、疲れが出てしまったかもしれない。そう安易に結論づけたフィガロは、ゆっくりとベッドから起き上がる。そのまま、少しはねた寝癖を直すべく、机の上に置いてある鏡を表に向けた。
「……」
後ろを、白が横切った。いや、正確には白い服を着た『誰か』だ。まるで楽しげに、柔らかな布たちは丸みを帯びながらフィガロの視線を奪い取っていく。
スルリ、と糸を引くような音が聞こえてくる。
「……まいったなあ」
弱すぎる魔力を感じながら、フィガロ肩をすくめる。小さなため息に、いつの間にか服に巻きついていた糸がふわりと舞う。
するりとそれを手に取ると、少しだけ粘度のある糸が指先に絡みついていく。くるくると、強めに回せばそれは千切れ、ゆるく宙を踊った。
「うーん……」
ミチルが連れてきてしまったのは間違いないだろう。魔法にしては面倒で、呪いにしては悪意を感じないそれは、まるで西の国で売られているパーティグッズのようだった。相手を驚かす以外には実用性のない、娯楽に極振りした品物。南の国には、きっとまだ早いものだ。
一体誰がこんなことを。魂が砕けた男の顔を思い出し、フィガロはゆるゆると首を振る。残念ながら証拠がない。
それでも、自分にも他人にも責任を取らないあの男を分からせるには、何が効果的なのだろうか。彼の保護者に聞いてみたいところだが、先日怒らせたばかりだった。
指先に絡みついた糸を丁寧にすくい、小瓶の中へ。他の糸は呪文一つで消え失せる。やっと動かしやすくなった腕をぐるぐると回しながら、採取した糸をゆっくりと目の高さまで持ち上げた。
フィガロへ不意打ちで襲うことのできる魔法使いは、わざわざこんなまどろっこしいことはしない。北であろうがなかろうが、弱ければドン、ボン、バンで淘汰されてしまうのだ。それ以外の魔法使いであれば、フィガロが気がつかないはずがない。
妖精の悪戯か、それか気がつかない何かか。あとで軽く聞き込みをすることを頭の片隅に入れながら、フィガロはくるくると小瓶を回す。
「うん……?」
目を離したのはほんの一瞬。瓶の中に入った糸は、透明の白い糸から色味を帯びていた。深い茶色に変わったそれは、まるで髪の毛のようである。
茶色の髪の毛に、白い布、そして『誰か』。
北の国の山のふもとに住んでいたあの子みたいだ。長くて、緩やかなウェーブがかかっていて、木の幹みたいな色だった。南で羊飼いをしていたあの子にも似ている。短くて、癖っ毛を一つでまとめていて、畑の土みたいな色だった。それとも、それとも。
扉やフィガロの後ろから見え隠れしたということは、おそらく室内なのだろう。そんな場所を、彼はそう易々と他人に許すことはない。
それでも、一人だけ思いつく。あれは、確か彼が初めて魔法陣を完璧に書けた日だった。
「……ははっ」
娯楽なら、もっと楽しくて、都合の良いものを見せてほしかった。瓶を握る指先が、やけに白くて寂しい。
後ろめたい願望じみた可能性ほど、虚しいものはないだろう。
フィガロは、ゆっくりと呪文を唱えた。