散歩 フィガロの元に弟子入りをしてしばらく経った、横殴りの雪が激しい日。
そんな悪天候のもと、ファウストは一人山道を歩いていた。
「うーん……」
目の前は白くて、ぼんやりとして、いつもなら見える先の風景がやけに霞んで見える。そこは、まるですりガラスのような世界だった。フィガロの城が周りの木々よりも小さければ、きっとファウストは迷子になっていただろう。それほどに、周りの景色の輪郭があやふやだ。
朝起きると、珍しく雪が止んでいた。今のうちに、明日の授業の予習用の薬草が取ってこよう。未だ眠っているであろうフィガロに書き置きを残し、ファウストは箒にまたがった。
そうしたら、これだ。山の天気は変わりやすい。そんな当たり前のことを忘れていたファウストは、重い身体を動かしながら城への道を進んでいた。
どうして近場の薬草を取って帰らなかったのだろう。昨日フィガロと一緒に訓練をしていたあの場所まで行かなければよかった。後悔ばかりが込み上げてきて、何度目かのため息を吐く。
箒で飛べないほどの強風に、身につけている防寒具がカサカサと音を立てる。魔法で風避けをしているものの、それでもファウストの身体には容赦なく風圧がかけられていた。ごおおお、と耳元で鳴り響く音はその強さを物語っているようである。
あとどれぐらい歩けばいいだろうか。細目のまま目の前を見つめると、ふと、妙な音が聞こえた。風にしては低く、先ほどとは明らかに違う不規則な音が連なる。慌てて辺りを見回すと、左奥に何かが見えた。
白い雪に同化するように真っ白な胴体、自分の背丈よりも遥かに高い身体、二足歩行の何かは、ゆらゆらと身体を揺らしている。見たことのない何かは不機嫌そうに近くの木に手を当てると、一瞬で木々たちは地面に倒れていく。
目の前の非日常な映像に、ファウストは冷や汗を流した。これは、まずい。
何かは、再び二本足で立ち上がるとぐるぐると大きな喉の音を鳴らす。そしてブンブンと首を振ると、揺れるような声の咆哮を繰り出した。あたりの雪がまるで波のようにうねりながら飛び散っていく。
「っ、《サティルクナート・ムルクリード》」
咄嗟に構えた防御は、大きすぎる何かの前では紙切れのようなものだ。周りの雪ごと遠くに飛ばされ、ファウストは背中から地面に激突する。機嫌の悪いそれは、運悪くもファウストの元にゆっくりと駆け寄っていく。きっと、それにとってはファウストが見えていても、見えていなくても、関係がないのだ。
雪の勢いは収まることはない。黒い影が近づいてくる。逃げなければいけないのに、身体がどうしても重い。まるで影を捕まえられたように動くことができないのだ。
視界は狭まった白の世界のまま。それなのに、風だけはびゅうびゅうと吹き続けている。それの姿すらよく見えないほどに、ファウストの目は霞んでしまっていた。
ぐるぐると喉を鳴らすような音が再び聞こえてくる。次、またあの咆哮がくるかもしれない。
純粋な恐怖、それでも、ファウストは妙に冷静だった。冷たすぎる空気を吸って、温かな空気を吐き出す。
魔法は心で使う。ここで挫けてはいけない。
地面が揺れる音に合わせ、ファウストは全身の防御を張った。絶対に帰る、帰ってみせる。その強い心だけを胸に誓って。
傷だらけの弟子は、恥ずかしそうに、申し訳なさげに事の顛末を語る。
「咆哮にあわせて防御をし続けて、そうしたら天気が晴れたので箒で帰ってきました」
「えぇ……?」
傷だらけになったファウストを治癒しながら、フィガロは呆れたような声を出す。二百年ぶりに現れた巨大な魔法動物とうっかり対峙してしまったファウストは、奇跡の連続を繰り返し無事にフィガロの元へ帰還した。
話を聞けば聞くほど、あり得ないことの連続だった。きっと、どれかが欠けていたら、もしかしたら、悲しい結末を迎えていたかもしれない。それほどに、ファウストの語る話は夢物語のようだった。嬉しいことに、彼は運命の神様に愛されているらしい。
「まあ、無事だったらいいんだけど……。次からは気をつけてね。少し休んだら訓練を開始しようか」
「はい!」
挨拶だけは元気な彼に、フィガロはゆっくりと微笑む。気まぐれに取った無鉄砲で純粋な弟子は、初めての感情をたくさん与えてくれる。
大きく頭を下げたファウストは、静かに扉を閉めた。フィガロは自身の魔道具を宙に浮かべる。
そしてにこやかな笑みを浮かべ、『散歩』へ出かけた。