月へピクニック 部屋の扉をノックして、返事がないのは当たり前。
「ムル、入りますよ」
一応声をかけて扉を開けると、彼は床にかじりついて本を読んでいた。ページをめくるたび、揃えられた髪がふわりと揺れる。
床に散らばったトランプを拾い上げながら、シャイロックはため息をはく。今は話すことができないタイミングかもしれない。
再び扉に手をかけると、背後からバンと音がした。きっと、分厚くて重い本を閉じたのだろう。
「あれー、シャイロック? どうしたの? 俺と遊びたいの?」
呑気な声が聞こえ、シャイロックは再び部屋の主に目を向ける。こちらを楽しげに見つめている彼がすたっと立ち上がった。
「違いますよ、ムル。全く、あなたが私を呼びつけたのでしょう?」
「そうだった!」
にゃーん、と猫の鳴き真似をしたムルは、散らかった部屋の端の机からバスケットを持ってくる。
「月にピクニックに行こう!」
それからしばらくして、二人は月明かりが眩しい空を飛んでいた。ときおり虫の音が聞こえると、ムルは面白がって似ていないモノマネをする。
「やけに明るく感じますね」
「空は遮蔽物がないからね!」
にゃーん、とにっこり笑いながらムルは空中で箒を一回転させる。風は、シャイロックの髪の毛を軽く揺らめかせた。
「それで、どこに行くんですか?」
「あはは、シャイロックも楽しみ?」
「ええ」
ムルからの誘いに、シャイロックが乗るのは気まぐれだ。今日は、ちょうどそんな気分だった。ただ、それだけ。
いいですよ、と答えたらすぐに出発になった。ご機嫌なムルに手を引かれ、いつの間にか空にいる。どこに行くかも、何をするかも分からない。
それでも、シャイロックはあまり気にしていなかった。なにせ、よくあることなのだ。ふわり、パイプを嗜みながら、元気なムルを見失わないよう箒を進めていく。
「もうすくだよ!」
魔法舎の近くの森を抜けてしばらくすると、少し先に飛んでいたムルが空で大声を出す。シャイロックは、彼の指差す方向に目を向けた。
そこには、池があった。静かな水面は、大きな厄災をまるで鏡のように映し出している。
「なるほど」
ムルは指先で魔法を唱えると、持っていたバスケットからランチョンマットを取り出す。青白い月によく似合う黒色のそこに、細やかな花の模様が彫られた皿を広げていった。うっかり手を滑らせるには勿体ないそれに、シャイロックはゆっくりと目を細める。皿の上には卵がたっぷりと詰まったサンドウィッチが並べられた。
「ネロに作ってもらった! 俺ってすごい?」
「ええ、美味しそう」
最後にグラスが二つバスケットから飛び出し、ゆらゆらとワインが注がれていく。中央の市場でよく売られているそれは、手に取りやすい値段ながらも口当たりがよさから巷では人気の品だった。
即席で用意されたそれらはどれもバラバラで、どこかバランスが取れている。お互いの調和を崩しすぎないもの選びは、さすがといったところだろうか。
「じゃあ、シャイロック! 踊ろう!」
「おや、用意をしたのに?」
「じゃあ片付けちゃう!」
ムルの魔法一つで、しゅるりと広げられたランチョンマットたちは吸い込まれていく。ニコニコと笑うムルに、シャイロックは小さくため息をついた。
「あなたって人は……」
「あはは、あはは!」
月明かりを背に、ムルはくるりと回る。
ご機嫌な彼からのお誘いに、シャイロックはゆっくりと手を取った。