師匠の寄り道 その日、フィガロはオズに愚痴を垂れていた。南の国の生徒たちにはこんな姿を見せたくないし、飲みの席の会話にしてはどうも刺激が足りない。しかし、壁に向かって話すのはどうも味気ない。
そんなとき、フィガロは決まってオズの部屋に押しかけるのだ。基本反応はないものの、時折眉がきゅっと動くだけで気が楽になる。
もちろんオズはいい顔をしないが、そんなことはフィガロにとってはどうでもいい。もちろん、力尽くで抵抗されれば諦めるが、彼がオズを訪ねるのは良い子が寝静まった夜更けだった。
平和な夜だった。北の国の魔法使いたちはみな任務へ、西の国の魔法使いたちはシャイロックのバーでパーティ。その他魔法使いたちは各々の部屋で過ごしているだろう。
パチパチはじける炎の音が、静かな部屋に響き渡る。ふわふわとした心地よさと肌に感じるピリピリとした刺激は、この温かな部屋と隣の世界最強の魔法使いからである。一応の手土産に持ってきたワインは、もう半分ほど空けてしまった。
「静かだな、本当に」
「……ああ」
しみじみした言葉に、オズからの短い相槌が飛んでくる。
昨日は魔法舎の屋根が吹っ飛んだし、その前は絵になった双子先生に絡まれた。こうしてゆっくり座っていられる夜は、本当に久しぶりだった。
二人の間にしばらくの沈黙が訪れる。
酒を入れ、一通り鬱憤を吐き切った。もう用事はない。フィガロは、ぐっと背筋を伸ばし、そのまま立ち上がる。オズは彼に目もくれない。本当にかわいくないな、と思う。
そのときだった。
強い魔法の気配がした。オズが杖を出す方が、フィガロがオーブを出すよりほんの少し早かい。しかし、気配はすぐに消え、辺りは再び平穏に包まれる。
真顔のまま、オズは杖を離さない。ただ、じっとフィガロを見つめ続ける。
「……なに?」
今も思考を巡らせるフィガロと比べ、オズはシンプルだ。だからこそ、彼は言葉にせず、ただ真っ直ぐにフィガロを見つめる。
「行かないのか」
その言葉だけで、彼の言わんとしていることを全て理解してしまう。
二人は気付いていた。強い魔力を発した場所が、一つ下の階であること。
シャイロックとムルは不在だ。そうなると、原因は一人しかいない。
「行くよ、行くけど。俺はその先まで考えているんだよ」
また怒らせてしまうかも。睨まれる可能性だってある。迷惑だ、なんて言われてしまうかも。そんな可能性を考え、オズの言葉で馬鹿馬鹿しくなった。
何かあったのだろう。まあ、一応。フィガロは酒瓶を机の上に置き、オーブをくるりと回す。
ファウストの部屋のある四階はしんと静まり返っていた。どうも居心地が悪い。
「ファウスト?」
ドアノブの結界に綻びが生じている。一応何度か声がけするが、返事はない。やっぱり、何かあったのだろう。
「……ははっ」
こうやって言い訳を綴らないと部屋に入ることができない。そんな己に笑えてきてしまう。自分はここまで臆病だったのだろうか。ファウスト相手だとどうも調子が狂ってしまう。
結界の魔法を解くと、バチっと火花が走る。呪い返しの類なのだろう。しかし、フィガロには子供用の玩具のようなものだ。かわいい魔法である。
「ファウスト、入るよ」
意味のない声がけをしながら、ファウストの部屋に入る。
相変わらず暗い部屋で、蝋燭の炎がメラメラと光っていた。至る所に飾られた鏡が、赤と黄を反射し、ぼんやりとした灯りを作り出す。
そんな部屋の端にあるベッドのへりに、ファウストはうずくまっていた。意識はあるのだろう。時折小さな呻くような声が聞こえてくる。
「おーい、ファウスト?」
おそらく呪い返しの類だろう。眼鏡を抑える彼の手に、黒いシミが出ていた。部屋を魔法で明るくすれば、それがまだらになりながら肌を覆いはじめていることが分かる。
「……っ」
ようやくフィガロが来たことに気づいたのだろう。ファウストは目を大きく見開き、そして苦悶の表序を浮かべた。
「ほら、手を出して」
困ったように笑いながら、フィガロは手を差し出した。
ファウストの腕に広がる痣は、強い魔法ではあるものの命に関わるものではない。それでも、苦しいことには変わりはないだろう。
しかし、ファウストはその手を取らなかった。拒むように、隠すように、腕を黒い袖で全て覆ってしまう。
「……くる、な」
ああ、これがフィガロの身を案じての言葉ならどれだけ良かったのだろうか。その必要はないものの、誰かからの気遣いは嬉しいものだ。
しかし、ファウストのそれは明らかに意地だった。フィガロには見せない、頼らない。そんな意をありありと感じる。
「……はぁ、はぁ」
玉のような汗が額から流れていく。苦しそうな表情を浮かべながら、ファウストはフィガロに背を向けた。
可愛げのない体制に、フィガロはため息を一つ吐く。
「きみって、本当に頑固だよね」
フィガロはゆっくりと部屋の中を歩く。じろじろと物色するかのように見渡せば、おのずと原因が見えてきた。
蝋燭の炎の近くにある手紙を手に取れば、ファウストから強い視線を向けられる。やめろ、と声が聞こえてきそうな顔だ。
残念ながら、すっかりいじけたフィガロには効果はない。
「……これ、きみ宛じゃないね」
ヒースクリフの名を読み上げれば、ファウストのメガネがかしゃんと落ちる。体制を崩し、苦しみながらもフィガロに近づこうとしたのだ。
フィガロは手紙を読みながら、分かりやすく呆れた表情をした。
「大変だね、美人っていうのはさ」
呪いの権化である手紙には、ヒースクリフへの愛や執着が永遠と綴られていた。それは決して綺麗なものではないのは、最後に綴られた赤黒い文字の羅列で一目瞭然だ。こんなものを浴びれば、繊細な彼には致命傷だろう。ファウストが数時間で回復する傷も、魔力の劣る彼には数日、いや数十日かかるかもしれない。
おそらく、ファウストは自らこの手紙を読み、呪いを受けた。ヒースクリフを庇ってのだろう。
フィガロはうずくまるファウストの前に立ち、ゆっくりとしゃがみ込む。
「ファウスト。こうするんだよ」
間違えてしまった生徒に正しい方法を教えるかのように。傷つかないよう、うんと優しい声で。
フィガロはにこやかに笑いながら手紙を炎で塵に、無に変えていく。途中、女性の叫び声が聞こえ、嫌な気持ちになった。
黒くなった手紙は、暗い部屋に溶けていく。ファウストのアザも徐々に薄くなっていき、次第に彼の瞳がとろんと下がっていった。
呪いによって体力精神力共に磨耗したのだろう。ファウストは、最後までフィガロを見つめ、そしてゆっくりと目を閉じる。
「全く……」
倒れ込むファウストを、フィガロはゆっくりと起き上がらせる。腕の傷は引いたものの、身体が明らかに熱い。安静にした方がいいだろう。
華奢で骨ばった身体は、薄っぺらくどうも心配になる。人間でも、魔法使いでも、おそらく痩せすぎに分類されるだろう。もっと食べた方がいいのに。まるで診察をしている気分になり、フィガロは一人笑う。
額に手を当て、治癒の魔法をかける。診療所でお馴染みの最後のおまじないだ。しばらくすると、すぅ、すぅと短い息が聞こえてくる。
「ゆっくり休んで」
厄災の傷、空間がゆらめきはじめる前に、フィガロは部屋を出る。
最後、白い雪景色が見えた気がした。
人里離れた小屋。月が輝く時間、女の魔法使いが奇声を上げていた。
「ああああああああ」
好きな人がいる。愛しい人がいる。国一つ落とせそうなぐらいの宝石のような人。いくら手紙を送っても、返事をくれないシャイな人。
だから、魔法をかけてみた。たっぷりのラブを注いだ手紙、どうか受け取って欲しい。
女の身体には黒い斑が広がっていた。染めた金髪と瞳の色を変えた碧眼の美貌。そんな彼女の白い肌に、どんどんとシミは広がっていく。
「ああああああああ」
女には理由が分からなかった。否、分かりたくはなかった。美麗な彼は、必ず己の気持ちに応えてくれると思ったからだ。
身体中が熱くて寒くて堪らない。芯から針に突き刺されているようで、どんな体勢になっても痛い。痛くて、痛くて、喉が枯れるほどに叫び続けている。
そのときだった。
窓がコツコツと叩かれる。やがてぎぃと開かれたそこには、長身の魔法使いが微笑んでいた。ゆっくりと部屋に入ってきた彼は、女を見下ろして、優しい声をかける。
「やあ」
月夜、榛の瞳が光った。男は目を細めながら笑い、そっと手を差し伸べる。
月の光に、命の欠片が反射する。
とても静かで、綺麗な夜だった。