ワルプルギスの夜 それは初めて口にしたはずなのに、どこか妙に馴染みのある言葉だった。
「ワルプルギスの夜って知ってる?」
酒盛りをして暑くなって、二人でベランダに出て。ふわふわとした意識のまま、フィガロはテレビで耳にしたことを話した。
ファウストが家賃を下げるために選んだ、駅から遠くて静かなアパートの一室。フィガロの住むタワマンよりもはるかに地面との距離は近く、空は遠い。
どこか閑散とした住宅街で、街灯も少ない。ベランダから見える窓のほとんどは電気が消えており、また一つ遠くの住宅が黒くなった。夜更けに出歩く人々もおらず、プラスチックのコップを持った男二人を見ているものなどいない。
フィガロの言葉に、ファウストは目を大きく見開いた。思わずコップを落としそうになり、どこか年季の入ったTシャツに水が溢れる。幸いほとんど中には入っていなかっため、小さなシミがいくつかできた。
「すまない、手が滑った」
「いや、いいよ。結構飲んだもんね」
「まだいける」
いつもの澄ました顔から不機嫌に眉を寄せたファウストの頭を、フィガロはわしゃわしゃと撫でる。彼はどこか鬱陶しげに手を振り払うと、丸メガネのブリッジを上げた。
「なんかね、魔女のお祭りらしいよ。俺も詳しくは知らないけど」
「そうか……」
月が綺麗な夜だった。
丸くはないけれど、半月から少しだけ膨らんだ形。青白い光は暗い空を照らしている。
ファウストはどこか心あらずの返事をして、ぼんやりと月を見上げていた。少しだけ目を細めたのは、眠いのか、それとも何か違う理由があるのか。フィガロには分からない。
いつもなら平気な沈黙が、今はどうしようもなく気まずい。フィガロは静かに月を見つめ続けるファウストに再び声をかけた。
「魔女のお祭りって何をするんだろうね」
「そうだな……」
月から目線を外したファウストは、隣に立つフィガロの方を向く。
「きっといろんな屋台とかがあると思う。ほら、夏祭りみたいな」
「ははっ、まるで人間みたいだ」
「魔法使いも人間も大して変わらないよ」
「そうなの?」
「多分な」
ファウストはどこか楽しげに笑いながら、空のコップを指先でつまむ。コツコツと時折ベランダのヘリに当てながらも、彼はゆらゆららと動かし続けた。
「あとは、そうだな。偉い魔法使いにみんなが挨拶しにくるんだ。フィガロ様、昨年度はありがとうございました。今年度もどうかご贔屓にしてくださいって。深々と頭を下げられながら、お願い事を聞かされるんだよ」
突然出てきた自分の名前に、フィガロはケラケラと笑う。
「えー、俺? 流石にフィガロ様は言われたことがないよ」
「例えばの話だ」
仕事の立場的に、フィガロはいつだって頭を下げられている。そんなお願いはどれも大変で面倒なことばかりで、思い出すだけでどこかげんなりしてしまう。
「もっとファンシーな例えがよかったな。流れ星を降らせるとか」
「ははっ、それはかわいいな」
どこかからかいを含むように笑われ、フィガロはファウストの頭をもう一度ぐしゃぐしゃにする。彼も少しは悪いと思ったのだろうか。今度は手をどけることもせず、ただ乱れゆく髪を軽く手櫛で整えただけだった。
「……きっと服も豪華だ。大きめのローブに、とんがり帽子なんかも被っているんじゃないか」
「あはは、本当に魔女みたい。杖も持ってそうだね」
「杖はないな」
「えぇ?」
どうやらファウストは杖アンチらしい。急にスンとした顔で否定した彼に、フィガロは楽しそうに笑う。
「何だか面白いね」
「そうか?」
「そう」
フィガロは一歩ファウストへ近寄ると、彼の身体に少しだけ身体をもたれかかる。
「……重い」
「いいじゃん。少しだけ」
分かりやすいため息を吐いたきり、ファウストは何も言わない。ただ、手持ち無沙汰にコップをくるくると回し、ぼんやりと月を眺めている。
あるはずのない空想の世界の話を、ファウストがここまで付き合ってくれることも珍しい。案外現実主義な隣の彼は、フィガロの戯言をバッサリと切ることがほとんどだった。
よほど酔っているか、それとも興味のある話題だったのだろう。いつもとは違うファウストの様子に、心が妙に揺れる。
特に、今日のファウストは月ばかり見つめ続けている。そんなにも特別なのだろうか。月なんて、いつだって空にあるのに。
それがどこかつまらなくて、フィガロはもたれかかる力を少しだけ加えた。
「おい、重い」
「考え事?」
「違う」
やっとフィガロを見つめた目は、困惑と少しの怒り。これ以上は本当にファウストの機嫌を損ねてしまうかもしれない。力を抜いたフィガロを、ファウストは少しだけ力を込めて押し返した。
「言いたいことがあるなら言え。その、僕はあまり察しが良くないんだ」
目を伏せたまま、どこか悲しげに。そんなファウストに、フィガロは少しだけ罪悪感を覚える。どこか大人気ない態度を、まだ就職すらしていない学生に向けてしまった。
こころが狭い自分が、どこか嫌になる。
「……だって、今日は静かだから。久しぶりに会ったのに」
しまった、と思ったころには口から言葉が出た後だった。しばらくフィガロを見つめていたファウストは、小さな声を出す。
「なんだ、寂しいのか」
「……」
無言は肯定だった。
声を殺したように笑ったファウストは、ちらりと月を見て、そのままフィガロの頭を撫でる。
「おまえ、何にでも嫉妬するんだな」
「うーん、そうでもないけど」
酔いは一気に冷め、子供じみた嫉妬と執着を見せたことへの後悔が押し寄せてくる。ファウストはどこかご機嫌のまま、フィガロの髪をわさわさと撫で続けた。
「別に。ちゃんとおまえのことを考えていたよ」
「えー、本当?」
「本当だ、約束したっていい」
優しい言葉をかけながら、ファウストはフィガロからそっと手を離す。
あまりにも綺麗に笑う彼は、確かにフィガロを見つめていた。