神にフォローされて怯えています(7) エンターテイメントとビジネスはいつだって隣り合わせで、しかし水と油のような関係である。
書きたいものと売れるものはいつだって違う ものだ。もし同じなら、それは果てしなく幸運だろう。絶対に逃さない方がいい。大体の作家は編集の意向に添い、ある程度の要望を伝え、時には言われたことを自分のご機嫌をとりながら行い、売れるものを作り出すのだ。
しかし、このパワーバランスというのは往々にして偏っていることが多い。初めはどこか編集の顔色を窺っていた作家も、売れれば売れるほど編集が作家の顔色を窺うようになる。これがビジネスだ、仕方のないことかもしれない。
作家しかり、編集しかり。何かを作り出す人間はどこかこだわりを持っている。時に偏屈、変わった人、不思議ちゃんなどと呼ばれるのはそのためだろう。
そんな人々がお互い歩み寄って売れるものを作る。作家と編集の力関係が偏り過ぎれば、どちらかに多大なストレスを感じさせられることになりかねない。
だからこそ、仕事ができる編集ほど、作家へ常に心を配っているのだ。それは仕事を進めやすくするためか、それともより良い金のなる木を作り出すためか。結果は儲けることであることには変わらない。仕事とプライベートを混合させる人には、少しだけ酷な話だろう。
けれど、残念ながら人間は皆同じように仲良くすることはできない。
だからこそ、人間関係、つまり二人の相性というのはとても重要になってくるのだ。
仕事のことで話がある。
その日、ファウストはカフェに呼び出されていた。
街中、フィガロの務める会社近くの喫茶店。少しだけ奥ばった場所にあり、見つけるのに苦労した。
シャツにスラックスのシンプルな装いのファウストはゆっくりと息を吐き、赤い扉を開ける。カランコロンと音が鳴ると、奥に座るスーツ姿のフィガロがにこやかに手を上げた。
「すまない、遅くなった」
「まだ十分前なのに」
はい、と渡されたのは手書きの温もりのあるメニュー表だ。紅茶が有名なのだろうか、一ページ強ほどたくさんのお茶の名前が書かれている。
ちらりとフィガロを確認すれば、彼はコーヒーを頼んだらしい。こちらの視線に気付いたのか、彼は少しだけ眉を下げて笑った。
「緊張してる?」
「……まあ」
「大丈夫だよ」
何が大丈夫なのだろうか。ファウストは机の下で拳を握る。
普段、フィガロと会議をするときは専らオンライン会議ばかり。もちろん会って話すこともあったが、今回のように詳細を聞かされずの呼び出しは大層久しぶりだった。
この手の会議はあまりいい思い出がない。打ち切りだったり、編集が変わったり、シリーズ自体が潰れたり。その内半分ぐらいはこういう笑みを讃えるフィガロから告げられたものなのだ。警戒するに決まっている。
フィガロが白いカップでコーヒーを飲んでいる間に、ファウストはもう一度ドリンクメニューをペラペラとめくっていく。結局、一番最初に書かれていた季節のおすすめの冷たい紅茶を頼むことにした。
すぐに運ばれてきたアイスティーはどこかフルーティな香りが鼻をくすぐる。すっきりとした味わいは久しぶりの外出による疲れた身体に染み渡っていくようだ。
「外、そんなに暑かった?」
「引きこもりを舐めるなよ」
「あはは、そういう意味じゃないんだけど」
フィガロは笑いながら濃い茶色の鞄からパソコンとファイルを取り出す。中には何枚かプリントが挟まれており、それをそのままファウストの机の前に置かれた。
吉と出るか、凶と出るか。ファウストはどこか強張ったまま目の前の男を見つめる。
フィガロはにこりと笑った。
「おめでとう。企画、通ったよ」
「……!」
全身がゾワゾワと毛羽立つような感覚。脳内で反芻されるその言葉が胸の中に広がっていく。
大きな目をガッと見開いたファウストは徐々に力を緩め、ふぅと息を一つ吐いた。
「……よかった」
何度フィガロに作品を送ったのだろうか。フォルダに溜まっていく没案を眺め、悲しみにくれる辛い日々がやっと終わったのだ。ギリギリの追われる日々からやっと解放されたのだ。一人だったら、思わず叫ぶか、立ち上がるか、泣いてしまっていたかもしれない。
それぐらいファウストにとっては嬉しいことだった。
「詳しくは渡した資料を見てね。忙しくなるよ」
しかし、これは単なるはじまりにすぎない。フィガロの言葉によって冷静になり、ファウストは己の気を引き締めた。
今後の展開やスケジュールについては、フィガロ独自の方法でまとめられている。この資料はフィガロとの付き合いが長いファウストにとってはお馴染みのものだ。律儀に一つずつ丁寧に説明をしていくフィガロに、ファウストは真摯に耳を傾ける。
彼の言う通り、フィガロが作成したスケジュールは非常に効率的でスマートなものだった。フィガロも諸々の手続きを終え、会社から確実なゴーサインが出てからファウストに伝えたのだろう。広告やポスター、表紙の発注先などもすでにある程度決められており、ファウストはその用意周到さにただ頷くしかない。
ファウストができることはただ一つ。必ず期日までにフィガロが満足するものを書き上げ、仕事を完遂させることだけである。みっちり立てられたスケジュールには、次の刊を見据えた打ち合わせ等もすでに決められていた。
期待されている。絶対に失敗できない。全ての邪念を払って取り組まなければ。ファウストの表情がどんどんと強張っていく。
「顔、怖いよ」
フィガロは笑いながら、自らのカップをゆっくりと手に取る。そして、彼の目線はファウストの隣に置かれたままのグラスに注がれた。
カラン、とグラスの音が鳴る。アイスティーの氷の角は、運ばれてきた時よりもずいぶんと丸みを帯びた形になっていた。グラスはしっとりと水の汗をかいており、フィガロから机に備え付けられたペーパーを渡される。
「もちろんベストは尽くして欲しい。でもね、息抜きも必要だからね」
息抜きをするなら、きっと原稿を進めるだろう。残念ながら、己はそこまで器用ではない。息抜きをするほどファウストには余裕はないのだ。
フィガロは笑いながらファウストをひたすらに優しい眼で見つめていた。全てを受け入れるかのようなその目線はどこかくすぐったくて、なんだか己が弱い者のようで、どうも気持ちが落ち着かない。
「ほら、最近やってるSNSをするとか。せっかくフォロワー増えたんだし」
SNSは、おそらく更新速度はかなりゆっくりになるだろう。何度も言おう、そこまで器用ではないのだ。ファウストが怪訝な顔をすると、フィガロは不思議そうに首を傾げた。
「監視するなと言っているだろ、全く……。そういうあなたはやっているのか?」
それは本当に気ままな質問だった。自分よりも忙しいお前はやっているのかという当てつけでもあったかもしれない。
現代、スマホを使いこなす人であればSNSをやっていない人の方が珍しいぐらいである。明日は雨ですね、とか。そんな世間話程度のはずだったのだ。
「うん、やってるよ。これ」
見せられた画面には、ここ最近ファウストをずっと頭を悩ませ続けていたアイコンが映し出されていた。
「……は?」
地球儀のようなアイコン、一度聞いたら忘れられない特徴的な名前『ポッシデオ』。
「おい、嘘だよな。嘘だと言ってくれ」
「あはは、隠しているつもりはなかったんだけど。そろそろ言ってもいいかなって」
その軽い言葉に、ファウストは絶句した。
一体、どうやって、いつから。聞きたいことがたくさんあるのに、魚のように口をパクパクさせることしかできない。
もしかしたら、ファウストが有名になったのも、相談していたアンチがある日ごっそりいなくなったのも、全部全部。
全て手の内で踊らされていたのだろうか。背筋にスッと冷たい汗が流れていく。
「ファウスト。今度こそ、俺がきみを有名にしてみせるからね」
笑っているはずなのに、目の奥が笑っていない。けれども、どこか喜びにも似た重たい感情だけは伝わってくる。
それがどこか恐ろしくて、それなのにどうしようもなく嬉しくて、感情がめちゃくちゃになりそうだ。
フィガロは小さく笑い、ゆっくりとパソコンを閉じる。
彼は大層愛おしげに、目の前のファウストに微笑むのだった。