住処 昔々、まだ魔法使いでありながら魔法使いでなかったころ。
ファウストは、未来のためにがむしゃらに努力していた。
三日目の日が落ちるまでに帰っておいで。
そう言って、フィガロに北の森に放り込まれた。厳しい寒さといつか魔力が底を尽きる恐怖、慣れない土地。おまけに魔法動物とも遭遇してしまい、ファウストの身はボロボロだった。
そうして三日目、太陽が傾きかけるころ。言いつけ通り、ファウストは森を脱出し帰路についた。
「は……、はっ……」
命の危機には決して慣れることはない。むしろ、慣れてはいけないだろう。
けれど、ここ最近は何度も走馬灯を見る。
魔法動物に身体を引き裂かれたとき、寒さで凍え死にそうになったとき。ふと、生きることを諦めそうになる。その度に仲間や師匠の顔を思い出し、身体中に血が駆け巡っていく。
そして、自分が気絶していたことに気付くのだ。
命の儚さを知った。
雪景色の中、時折差し込む太陽の光で地面がきらりと光ることがある。その多くはマナ石であり、数刻も経てば降り注ぐ雪で埋められていくだろう。
北の国では力が全てである。力が無いものは無惨に死んでいくだけだ。同胞かそれとも敵か、人の死を幾度も繰り返し見てきた偉大なる師匠は当然のように言い切った。
北の大地で、常識は何度も塗り替えられていく。これが、魔法使いになるということなのだろう。
強くなった。けれど、もっと強くならなければ。焦燥感ばかり心に募っていく。
「くっ……」
風の流れに逆らう飛び方は体力を大いに消耗する。今日はとびきりの悪天候だった。
フィガロの邸宅への帰り方は、大きく二つの選択肢がある。
一つは近道、今のまま飛び続ければよい。逆風、視界不良の中似た景色が続き、迷う可能性もあるだろう。体力も消耗した疲れ切った身体では、途中で墜落する可能性もある。
けれど、このルートなら日が落ちるまでには帰ることができるのだ。命の危険はあるが、フィガロの言いつけを守ることはできる。
もう一つは、多少遠回りであるものの、何度か飛んだことのある穏やかな道のりだ。次の山を越えた辺りで曲がれば、色の違う地層や川が見えてくる。視界が多少悪くとも道に迷うことはない。
ただし、日が落ちるまでは間に合わない。
ファウストは迷わなかった。
「それで、きみはまっすぐに帰ってきたと」
「はい……」
もうすぐ日没になるころ、ファウストはフィガロの邸宅に着いた。
魔力切れで指はかじかみ、魔法で無理矢理抑えていた傷がじわじわと痛んでくる。服は戦闘や木々に引っかかったりでボロボロになっており、ファウストのくるりとした癖っ毛もぐしゃぐしゃと絡まりあっていた。
おまけにフィガロの姿を見てうっかり箒から手を離してしまい、さらに怪我を増やしている。
「強情だね、辛かっただろう。もっと合理的に考えてもいいんだよ」
じんわりと温かな魔力が身体を駆け巡っていく。諭されるようなその口調に、ファウストはゆるりと首を振った。
「いえ、帰ってくると決めたので」
頑固、強情、一度決めたことはやり切るまで気が済まない。フィガロを心の底から慕っていながら、時折聞く耳を持たない。
けれど、愚直にすら感じられる意志の強い瞳は、フィガロを信じてやまないものだ。
「ファウスト、魔法使いも人も生き返らないんだ」
「はい、分かっています。けれど、フィガロ様がいらっしゃいます」
いなくなったら、きみはどうする?
当たり前のように出てきた問いかけは、曖昧な微笑みで飲み込む。彼の光を翳らせることはしたくなかった。
意志の強さは、時に生きづらくなるものだ。けれど、そんな若さをフィガロは気に入っていた。
自分にないものを持っている彼が眩しい。目を逸らしたくなる。けれど、それ以上に愛しくて仕方がないのだ。
フィガロの魔法によって、ファウストの身体の傷はどんどん消えていく。頭を殴られたかのような全身の痛みも、いつの間にかすっかり鳴りを潜めていた。
「気分はどう?」
「ありがとうございます。いつもより身体が軽いぐらいです」
くるくると腕を回しながら、ファウストは深々と頭を下げる。彼の頭を撫でながら軽く髪を解かしたフィガロは、どこか申し訳なさげなファウストと目を合わせた。
「ずいぶんと魔力も消耗している。今日は休みなさい」
「はい。あ、でも……」
眉を下げ、ファウストはおずおずと立ち上がる。
少しだけ言いづらそうで、けれどファウストの目線はまっすぐに冬の海と榛の瞳を見つめていた。
「復習だけ、少しだけです。どうかやらせてください。忘れたくないんです」
ひどい怪我だった。すぐに休んで体力を回復させた方がいいに決まっている。
なぜ生き急ぐのだろうか。魔法使いの一生は気が遠くなるほどに長いのに。ファウストもちゃんと知っているはずなのだ。
けれど、人間が成長しやがて死んでいくように、魔法使いも少しずつ変わっていく。
今しかできないことの価値を、大切さを、フィガロはちゃんと分かっていた。
「……分かった。ただし、日付が変わるまでには寝るように」
丸い眼がぱちりと開かれ、ファウストは深々と礼をする。キラキラ光るその瞳は、優しげに笑うフィガロをしっかりと映していた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
闇に引きずり込まれるようなほど強い眠気がする。
身体中がひどく痛い。目を開けても視界は朧げで、夢が現かすら分からない。
それでも、確かな気配がそこにあった。
いつだって自分を慈しみ、優しく見守ってくれていた。強くて慈悲深い大魔法使いで、偉大なる師匠だった人。
「(あぁ……)」
きっと、きっと大丈夫だろう。
意識が沈む寸前、冷たい手が頬に当たる。
どこまでも優しい声が聞こえた気がした。