Who’s this どこか気まぐれに取った授業の課題で、博物館に行くことになった。
「はぁ……」
異常気象とも呼べる耐え難い暑さ。ファウストは真夏のコンクリートを一人ゆっくりと歩いていく。
時折すれ違う人々は日傘や帽子で灼熱の太陽を防御しながら、けれど皆首から一筋の汗が流れ落ちていく。ファウスト手のひらをパタパタと動かしながらも、なるべく日陰を探して進んでいった。
博物館といっても学校に併設されている施設の一つだ。一応外部からも見学に行くことはできるらしいものの、ここにくるのはよっぽどの物好きかうちを受験する予定の学生とその親ぐらいだろう。ファウストも存在は知っていたものの、自ら行こうと思ったことはなかった。
受付で学生証を見せ、係員に軽く頭を下げ中に入っていく。自動扉が開かれた瞬間、ひんやりとした空気が身体を包み込んだ。外との温度差で溢れるように出ていた汗が体温を奪っていく。寒暖差で身体が分かりやすく驚いた。
普段授業が行われている講義室よりもこじんまりとした広さ。壁は小さな棚が取り付けられていたり、部族のお面のようなものが吊り下げられている。触ることのできる展示品もあり、おそるおそる手を伸ばせばざらざらとした感触が指に残った。
そのまま奥に進んでいくと、部屋の角にポツンと一つガラスケースが置かれていた。手前の展示品の影になるように設置されたそれは青色の球のような何かが展示されている。
「……なんだ?」
土偶や民族のお面など、どちらかというと茶色い展示品が多い中、明らかに毛色が違う。ファウストがガラスケースに近づけばきらりと輝いた気がした。
「……うん?」
昔自宅にあった地球儀のような形をしているけれど、その地球部分がやけに澄んだ青色をしている。透明な台座に支えられているせいか、まるでふわふわと浮いているように見えた。
何に使うのか、どんなものか。さっぱり分からない。
けれど、とても綺麗だった。ゆらゆらと展示物を眺めていた視線がぴたりと止まるほどに惹きつけられてしまう。
けれど、同じぐらい不気味だった。展示ケースの中には『オーブ』と書かれた札が置かれていたけれど、それ以上の説明はない。球、宝珠、宝玉。検索をして、初めてそれらを総称する意味であることを知った。
じっと見つめていると、入り口の自動扉が開かれた音がする。女性の二人組がこちらを見て明らかに声のトーンを落とした。
なぜか、ここにいてはいけない気がして、ファウストはくるりとオーブに背を向ける。どこか気まずくなりながら、彼の足はそそくさと出口に向かっていく。
受付からのんびりとした挨拶に会釈をする。そのとき、やっと課題の資料集めをさっぱりやっていないことに気付いた。
「はぁ……」
静かなため息を吐き、ファウストは日差しをげんなりと見上げる。目に突き刺さるような光に自分の行いを非難されているような気がして、余計にうんざりした。
忘れられない。あと、課題を今度こそ終わらせるために。次の日、ファウストはもう一度博物館に訪れた。
暑い中歩き続けると、髪からも汗は流れ落ちていく。階段を下りながら真昼間にきたことを深く深く後悔した。
昨日とは違う受付の人に学生証を見せ、涼しい中に入っていく。
今度こそは課題をしなければならない。前半の展示物と説明のボードを写真に収め、ファウストはため息を吐いた。一応、これで課題は終わらせることはできるだろう。こんな簡単なことのために二度も校舎の端まで歩いてしまった。つくづく自分が嫌になる。
一応順々に展示物を見ていけば、ふと誰かの気配を感じた。
「……あ」
音になるか、ならないか。そんな小さな声。部屋の一角、入り口からは少しだけ見にくい場所。そんなオーブの前に人がいたのだ。いつからいたのだろうか。全く気配を感じることができなかった。
ファウストが見上げるほどの高身長。男は少しだけ腰を曲げながらも、どこかつまらなさそうにオーブを見つめている。
黒色のタートルネックに白シャツ、細身のパンツ。肩からは白衣のようなものを羽織っている。こんな真夏にずいぶんと着込んでいるものだ。
男はこちらの視線に気付いたのか、ゆるく頭を下げてにこりと笑った。
「……学生さん?」
「は、はい……」
「そっか」
突然話しかけられ、返事が裏返りそうになる。けれど、どこか安心するような声だった。
聞き方から察するに、どうやら相手は学生ではないらしい。博物館の職員か、それか教授か。どこか懐かしい気はするものの、残念ながらファウストの記憶にはない。
「見るのは初めて?」
「いや、前に一度」
「そう……」
誰もいないとはいえ、堂々と話すのは憚られる。どこか小声の言葉足らずの会話は決して弾んでいるとは言えない。
第一相手は初対面のよく分からない男なのだ。うっすらと疑念は持ちながらも、温和な笑みについ絆されていく自分もいる。
「綺麗、ですね」
ガラスケースは磨かれているけれど、他の展示物のように設計された美しいライティングがされているわけではない。
まるで追いやられたような場所に置かれていて。けれど、何もかも飲み込んでいきそうな、そんな澄んだ青が美しく輝いている。
初めて見たときから、どこか目が離せなかった。物珍しいものは他にはたくさんあるけれど、何故か引き寄せられてしまったのだ。
キラキラしていたからだろうか。それならまるでカラスみたいである。ずいぶんと滑稽だ。
「うん、そうだね」
ファウストの言葉に男は嬉しそうに笑った。目をゆるりと細く閉じながら、じっとオーブを見つめ続ける。
優しげな眼差しをすれば、男の整った顔の頬にほんのりと紅が差される。ずいぶんと白い肌だ。
もう一度彼を見上げて、首元にかけられた聴診器に気付いた。銅色のそれは室内の照明を反射して鈍く光っている。
ファウストと男、彼ら遥かに多い展示物の数々。二人だけには広く、けれど狭い展示室は緩やかな時が流れている。
会話はほとんどないけれど、どこか心が繋がっているような感覚。不思議な心地よさ。
反射するガラスケースに映る男は、ゆるりと微笑んでいる。どうして、そんなに優しそうに笑っているのだろうか。ファウストには分からない。
しばらくそこにいれば、講義が終わるチャイムが校内に鳴り響く。男は頭上の時計を見て、は笑いながらひらひらと手を振った。
「またおいで」
どこか子供扱いされたような言葉。けれど、不思議と胸が暖かくなる。警戒心が人一倍あるファウストには大層珍しいことだ。
男は動く様子はない。まだここにいるつもりなのだろうか。訝しげな目を向ければ、彼は横目でオーブを見て、そしてどこか困ったように再び笑う。
ファウストは静かに頭を下げ、男に背を向ける。どこか名残惜しいような気持ちになりながらも博物館を後にした。
次の日、どこか心落ち着かず。ファウストの足は再び博物館へ向かっていた。
三日も続けて通うなんて馬鹿げている。自分の行動にどこか呆れつつも、タイミングよく休講になった授業が悪いとすぐに責任転嫁させておく。
けれど、その日、博物館はやっていなかった。
近くの壁を見れば臨時休業の張り紙が貼られている。どうやら今日から季節ごとの展示物の入れ替えらしい。
それならと一週間に訪れれば、今度はガラスケースの中からオーブが消えていた。
サイトに公開されている収蔵リストを見ても載っていない。どうしても気になり受付の女性に聞けば、彼女はどこか不思議そうな顔をされてしまう。
女性は自分は学生のバイトであると前置きをしつつ、青色のオーブという名の展示物は見たことがないと言い切った。
もともと端のガラスケースに展示物は飾られていない。奥に座っていた職員らしき人が検索をしてくれたけれど、ここにオーブという名の作品は収蔵されていない。
ファウストと同じように受付の女性たちも困った顔のままだ。どこか居心地が悪くなり、彼は逃げるようにその場を後にした。
人生でおばけなんて見たことはない。不思議な体験も、変な姿も声も聞こえたことはない。
肌から流れ落ちる汗。暑いはずなのに心がどんどん冷えていく。心臓がバクバクとうるさい。
彼は、あの人は、オーブは、一体何だったのだろうか。
騒がしい蝉の音だけが、やけに耳に鳴り響いていた。