知らないお味 一緒にご飯でもどうかな。そんなお誘いに気まぐれに頷いてみた。
学校が休みの日、夕方。
高級住宅街が立ち並ぶ駅に降りた瞬間から嫌な予感はしていた。
けれど、ファウストのような学生を連れて行くのだから。そう、どこか彼の良心を信じていた。
しかし、高い塀と外車が停められている家が立ち並ぶ道を悠々と歩いていくにつれ不安な気持ちが募っていく。
「ああ、ここかな」
曲がり角の奥、艶やかな黒の佇まい。どう見ても高そうな店。
「……本気か?」
「うん?」
不思議そうな顔で見つめられ、何も言えなくなる。ファウストのとまどいはどうやら彼には伝わっていないらしい。
そういえばフィガロは少し変わった人生を過ごしていた人だった。
生まれや育ちを否定するつもりはない。けれど、どこか浮世離れした提案をされ困っていた日々を今さら思い出してしまい、フィガロへのやるせない気持ちが募っていく。
ちゃんと言っておけばよかった。いや、まずどうして断らなかったのだろうか。
ファウストはため息を吐き、そんなフィガロをギロリと睨み返す。
「払えないぞ」
「きみに払わせる気なんてないよ?」
ごく当たり前のように言い切るフィガロは、あろうことかファウストに対してどこか心配そうな顔で見つめてくる。まるで自分の頭を疑われているようなその動作に、ファウストは静かに舌打ちをした。
「……こんな、かなりカジュアルな格好なんだが」
「大丈夫、ここは気軽に入れる方だよ」
何が気軽なのだろうか。絶対に違う。
ファウストの気軽とは、一人席が用意され、どこか形式的な接客をするチェーン店のことだ。こんな、どう考えても個人経営で、立地も静かな高級住宅街にひっそり佇んでおり、値段の書いた看板を出していない店のことではない。
ここは絶対に気軽に来る場所ではない。正直ご縁がない限りは一生近づかない場所だ。
「えっと、気に入らなかったかい?」
フィガロは申し訳なさげに眉を下げる。
「違う。今日の僕は、その、こういう店にふさわしくないと言っているんだ」
家のハンガーにかけてあったシャツにカーゴパンツ、黒のキャップに歩きやすい少しつま先が汚れたスニーカー。Tシャツを着ていないだけマシではあるが、こういう店はもっとちゃんとした格好で来るべきだろう。
フィガロは仕事帰りのため今日はスーツを着ていた。ズルい。ファウストだって知っていればちゃんとした服を用意したのに。
「ファウスト、ふさわしいとかふさわしくないとか関係ないんだよ。きみを僕が連れて行きたかった。ただそれだけさ」
フィガロは笑いながらファウストの髪の毛をわしゃわしゃと撫でる。嫌がってはないことは伝わったらしいが、それが彼の行動を思い直すことには繋がらない。
彼の気持ちを無碍にはしたくない。けれど、どうしても申し訳なさや場違いによる遠慮で萎縮してしまう。
「うん、とりあえず入ろうか」
スマートに笑うフィガロは扉を開け、一人で中に入っていく。
ファウストは、ただ彼の後をついていくしかなかった。
店に入れば、入り口に感謝の言葉。今年初めてミシュランで星を獲得したらしい。
文面を理解した瞬間、うっかり漏らしそうになった声は全力で抑える。想像を絶するちゃんとした場所で冷や汗が止まらない。
「ファウスト?」
「あ、ああ……」
頼りない返事をしながら、ファウストはフィガロの元へ近づいていく。
モダンな雰囲気の店にはテーブルが二つ。けれど、今日は貸切らしい。シェフと和やかな会話を楽しむフィガロの後ろで、ファウストはひたすらに肩を縮ませていた。
そうして案内された黒いテーブルに着席すると、恭しく頭を下げる店員がやってくる。
食事のメニューはコースのみ。共に渡された小さなメニューにはお酒を含むドリンクがたくさん載っている。
「どれにする?」
ドリンクはほとんどが一杯千円スタート。高い店あるあるの知らない名前ばかり。分かりやすく困った顔をすれば、フィガロは小さく笑う。
「きみ、酸っぱいのは苦手でしょ。それなら、上から二番目のは? ちょっと苦いかもだけど、甘くはないし」
「じゃあ、それで……」
フィガロはメニュー表をゆっくりとめくりながら穏やかにオーダーをしていく。そんな彼を横目に、ファウストは拳を膝に乗せ、ただ静かにしていることしかできない。最後にチラリとドリンクの値段を確認すれば、ソフトドリンクの中で一番高いものを選んでいたことに気付いてしまった。
フィガロはいつも通り、いや、いつもよりも少しだけリラックスしているようにすら思える。優しい笑みを浮かべながら、ゆったりとファウストに話しかけ、それにいつもより辿々しく返事をして。そんな緩やかな時間が過ぎていく。
「あはは、緊張してる?」
「まあ……」
「うーん、そっか」
困ったように笑うフィガロに、ファウストはゆるりと首を振る。
「その、初めてなんだ。こういう店は」
一般家庭に育ち、おそらく皆が進むであろう進路をそのまま進んできた。貧乏でも、裕福でもない。普通の家だ。
ファウストの正直な気持ちに、フィガロはゆっくりと頷く。
「そっか、初めてか、うん、そうだよね」
「……なぜ、笑うんだ?」
にこりと笑みを深めるフィガロに、ファウストは怪訝な顔をする。
「うん、こう、いいなと思ってね」
何がいいのだろうか。よく分からない。
けれど、フィガロはどこかご機嫌にファウストを見つめるのだ。
ドリンクが運ばれてくる。二人とも赤色で、ファウストには黒色のストローが差してあった。
「乾杯」
「……ああ、乾杯」
ゆっくりとグラスを上げ、カランと上品な音を鳴らす。
気の利いた会話すら振ることができない学生に、本当に彼は満足してくれているのだろうか。
「うん、美味しい」
口元からグラスを外し、フィガロは緩やかにファウストへ微笑んだ。
己が抱く不安など馬鹿らしくなるほどの眼差しの温かさ。どこかくすぐったくて、優しく包まれているようで落ち着かない。
けれど、寂しさも感じてしまうのはなぜだろうか。
「……ああ」
どこか苦味のある大人な味のドリンクは、知らない味がして、大層美味しかった。