違再度 夜空のような暗いカーテンが引かれた隙間から溢れる青い光。びっちりと締められているはずなのに細い隙間があるのは風の悪戯だろう。正確には、問題が分からないとドアを叩き勢いよく入ってきた昼間のシノのせいである。
静かにしろと宥めつつ、その行為はきっと意味をなさない。同じ階の住民はきっと騒音すら楽しむ愉快な人たちなのだ。この注意は、世間一般の不安定で流動的なマナーのようなものだろうか。
勇ましく入ってきた彼の思考の絡まりをゆっくりと解いていけば、どこか気難しい顔が徐々に晴れやかになっていく。
分からないところ、もう一度、ゆっくり、丁寧に。そうすれば彼は礼を言いバタバタと部屋を出ていった。
全く、忙しないものだ。けれど悪くないと思う自分もいる。それだけ絆されているのだろうか。久しぶりの感覚だ。
棚から取り出した本をしまいながら、ふぅと息を吐く。若くて、勢いがあって、どこかもどかしい気持ちを抱えていて。彼には少しだけ、自分を重ねてしまうところがある。
けれど、自分は魔法を教えてもらう師の扉を勢いよく叩くことはできなかっただろう。美しい装飾が彫られた分厚い扉の前で、いつだってまずは息をゆっくりと吐いていた。小刻みに震える拳でコンコンと音を鳴らし、己の心を奮い立たせるよう張りの良い声を出す。そこから扉が開かれるまでは、息の仕方を忘れてしまったかのように固まってしまう。緊張と、畏怖と、感謝と、どこか後ろめたさ。押しかけておいて今さらと思いながらも、それ以上を望む自分の浅ましさを恥じる瞬間は苦しくて仕方がない。
けれど師匠は、フィガロ様は、いつだって笑顔で出迎えた。廊下よりも暖かな部屋に向かい入れ、寒くはないかと聞き、白いストールをそっと近くに置いてくれる。こざっぱり片付けられたテーブルに角が丸くなった本とノートを置けば、フィガロ様はいつだってどこかゆるりと目を細めていた。
うまく紙がめくれないときも、頭が真っ白になったときも、フィガロ様は何も言わなかった。隣に腰掛け、口をぱくぱくとする情けない自分をじっと見つめているだけだ。
分からないところは上手く口に出せないときがある。けれど不思議だ。フィガロ様に教えてもらっているうちにいつの間にか自然と言語化できるようになっていく。
分からないところが分からない。そんな状態でも、フィガロ様は短い間に作られた理解への一本道へ僕を乗せてくれる。それがどれほど難しいことか、教える立場になってやっと実感した。
もっと強くなりたい。自分が教える立場であるからこそ、自分が足りないところが次々と露呈している実感があるのだ。力不足で負わせてしまった怪我を思い出し、眉を寄せる夜は幾度となく過ごした。
これ以上、自分のせいで誰かが苦しむ姿は見たくない。そのためにできることは、自分が強くなるしかない。
分からないところに紙を挟み、本をそっと閉じる。紙とペンと、あとはお酒。これはシャイロックから貰ったものだ。
部屋中に映る鏡は青色の寝巻き姿の自分。不敬だろうかといつもの服装に着替える。癖で帽子を深く被り直している自分の姿が鏡に映った。
荷物を全て持ち、もう一度ぐるりと部屋中を見回す。明らかに強張った顔の自分にいっそ笑えてくるものだ。少し前までは非礼に程がある態度を取り続けていた己の思い切りの良さに一人ため息を吐く。
今まで、自分はどんな気持ちで、どんな顔で、魔法を聞きにいっていたのだろうか。遠い昔の記憶を遡るものの、恥ずかしいことばかり思い出してしまう。若気の至りか、若者の勢いか。年月は残酷で、残念ながら今の自分には真似できないだろう。
静かに扉を閉め、そのまま階段へ。カツカツと靴音が静かな廊下に響き渡る。幸い魔法使いとは誰ともすれ違うことはなかった。
一階まで降りて、フィガロ様の部屋の前でゆっくりと息を吐く。一階は若い魔法使いも多く、加えて気まぐれなミスラもいる。人通りも他の階に比べて多いだろう。あまり扉の前で立ち続けるのは得策ではない。
持ち上げた拳を一度下ろして、そしてまた持ち上げて。それから弱々しく木製の扉を叩いた。はぁいと気の抜けた返事が聞こえた瞬間、さああと感覚が過敏になる。今なら身体を巡る血液の音まで聞こえてきそうだ。
扉を開いたフィガロ様はどこか楽しそうな顔をしていた。どうやら機嫌は良いらしい。
彼は手元に持った本たちと酒を見て、少しだけ眉を上げた。
「あはは、勉強でも酒でもさ。どっちも大歓迎だよ」
そんな冗談めいたことを言いながら、フィガロ様の後に続いていく。
厄災が輝く夜。帽子を取り、深く頭を下げる。
懐かしき日々と同じように、あなたは僕の名前を呼び、そしてにこやかに笑った。