月下 結界を踏み越えてきた生徒は、目の前の光景に息を呑む。
森の中、木々が開けた場所。周りには見たことのない呪具の数々。どれも怪しい光を帯びているものの、持ち主の性格からか几帳面にまっすぐ並べられている。
そんな月明かりの下、ファウストがいた。
彼の目の前には魔法で作られた人の形の何かがある。それはぐにゃぐにゃと動いており、柔らかな素材であることが分かった。
ファウストは魔道具である鏡を力強く掲げる。
「《サティルクナート・ムルクリード》」
青白い光が鏡から発せられる。瞬間、人型の何かの首が弾け飛んだ。
「……!?」
ファウストはもう一度呪文を唱えた。すると鏡は再び怪しく光り、目の前の何かに向かって光が照射される。
その瞬間、目の前の物体が身体の真ん中でぐるんとねじ曲がった。生命があれば確実に死に至るであろうその行為により、上は首元であった場所から勢いよく液体を吐き出される。下はぱつぱつに膨れ上がっており、身体の形が変形し今にも破裂しそうな状態だ。
「《サティルクナート・ムルクリード》」
鏡を空に掲げたまま、ファウストは力強く呪文を唱える。
その瞬間、人型の何かは上下でプツンと真っ二つになった。月光の下、体液に似た何かを撒き散らしながら弾け飛んでいく。しかし、近くにいたファウストには一滴たりともかかっていない。
木陰からシノは全てを静かに見守っていた。ファウストはすぐに辺りを浄化をすれば、辺りを濡らした水分たちは姿を消す。次に彼は帽子やケープを正し、くるりと後ろを向く。
シノはゆっくりと立ち上がった。
「おい」
「なに?」
いつもと変わらない返事をして、ファウストは声の方へ顔を向ける。どこか不機嫌そうに見える顔は、実は大して怒っていない。
シノはちゃんと知っている。
「何をしていたんだ」
「……まず結界に無断で入ったことを謝るべきじゃないのか」
「あんたの森じゃない」
「それはそうだな」
ふっと息を吐いたファウストは、パチンと指を鳴らす。周り一面に並べられている禍々しいものたちはファウストの片手で持てる小さな袋に吸い込まれていく。
途端、シノの目が輝いた。
「かっこいい、オレにも教えてくれ」
「何を?」
「さっき、小さな袋に吸い込んだ魔法だ」
ファウストは目をぱちぱちと動かし、ふっと息を吐く。どこかいたずらっぽく微笑みながら、彼は親指と人差し指でくるりと捻るポーズをした。
「あっちじゃなくていいのか」
「……」
シノはどこか悔しそうな顔をして、小さく俯く。
「ただ相手を攻撃するだけじゃない。何か、魔法を使っていた気がする」
彼はそう言い切ったあと、拳をぎゅっと握りしめる。手が少しだけ赤みを帯びた。
「……全然わからなかった」
「まあ、そうだろうな」
ファウストは静かに目を閉じ、息を吐く。
もう一度魔法を教えてもらえるようになったとき、フィガロからどんな技術を学びたいかを聞かれた。
生徒たちを守りたい。強くなりたい。けれど、時間がない。だからこそ、ファウストはより実践的な学びを所望した。
その一つが、相手の首を吹き飛ばし、体を捻じ曲げ弾けさせる魔法。急所を狙っても不死身のように生き返るやつには、重要な神経や内臓を徹底的に破壊しておいた方がいい。淡々と言われたその言葉に、身がすくんだのは記憶に新しい。
できるかと聞かれ、できると答えた。もう一度本当にできるかと聞かれ、力強く頷いた。
人の六割は水でできている。ファウストは水と、形を保つためのいくつかの薬液を混ぜ使い人形を作り上げた。
相手はおそらく動物か、魔法使い。ただ壊すだけでなく、神経や細胞、精神に対しても魔法を重ねがけしながら相手を攻撃する必要がある。実践に近づけるため、たとえ練習でも高度な魔法の練習は欠かさなかった。
先週フィガロにまだまだと言われたことが悔しくて、ここ数日ずっと結界を貼り、夜に自主練をしていたのだ。
やっと少しずつ形になってきた。そんなとき、結界の中に入ってきたシノに見つかったのだ。だからこそ、シノの言葉を聞いて少しだけの安堵と、焦りを感じた。
できれば生徒には教えたくない。けれど、使うときがくるかもしれない。
シノはサングラス越しのファウストの瞳をじっと見つめている。いつものどこか図々しくて仏頂面のまま、彼は口を開いた。
「でも、袋に詰める方はなんとなく分かる気がする。教えてくれ」
真っ直ぐな赤色の瞳にファウストはすっと目を細める。
「まだ早い」
その一言だけ告げ、ファウストは魔道具をゆっくりと撫でる。どこか神妙な顔をした彼と、明らかに不服そうなシノの顔が鏡面に映った。
「何をすればいい?」
「何が?」
「まだ早いって言ったから」
「勉強熱心だな」
ファウストはもう一度指を鳴らせば、分厚い同じ本が二冊現れる。途端シノは嫌な顔をして、一歩後ろに下がった。
「なんだ、暗かったか」
どこか楽しそうにしながら、ファウストは魔法でランタンを取り出す。二人の間にそれを浮かせれば、小さくて難しい文字がずいぶんと読みやすくなった。
「おまえ、意地が悪いぞ」
「そうかもな」
ほら、と辞書のような教科書を渡され、シノは草っ原の上にあぐらをかく。それでも、彼は頭をかきながら本を開いた。ファウストはランタンを彼の元に寄せてやる。
けれど、シノはすぐに顔を上げ、ファウストへ不服げな顔を向けた。
「ファウスト」
「なに」
「一行目から習ってない、分からないから教えてくれ」
素直すぎる告白にファウストはサングラスを上げた。
「だから早いと言ったんだ」
「わかるかもしれない」
「それなら魔法舎で。ここでは暗すぎる」
「やった」
小さく喜ぶシノに、ファウストは小さく笑う。前はあれだけ実技以外は嫌な顔をしていたのに、ずいぶんと心変わりがあったものだ。
強くなるには知識と力が必要だ。けれど、知識があるものは力を軽視し、力があるものは知識を軽視する。どちらも必要だと気付くのはとても難しい。
教え子の成長を喜ばしく思う。けれど、彼の成長は痛みや悲しみを帯びた鞭で叩かれ無理矢理伸ばされたものだ。
健やかに。
けれど、それだけでは育たないことをファウストは身を持って知っている。
「……あぁ」
けれど、自分のように。
目を閉じて、開けたら十数年経つような。百年経つまで調子が戻らないような。そんな経験は彼に、彼らにはさせたくない。
どうか、そのためにも。
先に歩き出したシノはくるりと後ろを振り向く。期待に満ちたその顔に、ファウストはゆっくりと頷いた。