庇護 賢者の魔法使いの役務を全うすればするほど、大いなる厄災による犠牲者を目の当たりにすることは多い。
人々は嘆き悲しみ、また月を憎んだ。そして、魔法使いたちもときにその怒りの矛先を向けられることがある。賢者はその度に弁解をするが、言葉で心を鎮められるのはほんのごく一部だ。
みんな狂ってしまっている。精神も、心も、身体も。
東の国の辺境、今は二人きり、目の前には川、後ろには森。緩やかに日が落ちていき、涼しい風に髪がなびいた。耳にかきあげた毛先はくるりとはね、指先からするりと抜けていく。
ファウストは川のほとりで帽子を取り、静かに目を閉じていた。
「ほんと、きみは変わらないね」
「は?」
うっかり出てしまった強めの一言。ファウストは静かに謝罪する。
「別にいいのに」
これは本音だ。少し前に比べてフィガロへの言葉遣いは敬意が込められたものになった。けれど、時折あのころのファウストが懐かしくなっていたのも事実。口に出せば複雑そうな顔をされるため今は言うつもりはない。
魔法生物が暴れ出し、川が氾濫。家を守るために避難をしなかった村人たちが流され行方不明。もう一週間も帰ってきていないらしい。依頼を受け賢者率いる魔法使いが訪れたものの、人々の対応はひどく冷たかった。
「あんなにも無茶苦茶なことを言われたのにさ。それでもきみは弔っているんだ」
「……眠っている人々は、何も悪くありません」
人々は狂っていた。飛び出した暴言に繊細なヒースクリフは顔を青くし、シノは飛びかかろうとし、ネロはそんな彼をなだめつつも青筋を立てていた。
話を聞かず、ここまで怒りを露わにされるのは珍しい。賢者は狼狽え、見かねたファウストが表に出たのだ。
今思えば、その選択がすでに間違いだったのかもしれない。
狂人に成り果てた人々は話に耳を貸さず、ひたすらに否定をし続けた。しまいには、氾濫が起こったのは賢者の魔法使いにせいだと言い出す始末である。
あまりに事実無根、言葉を失うとはこういうことだろう。
もちろんファウストも黙っていなかった。けれど、極めて冷静に正論を返したところものの見事に相手は逆上。結局、事態はより悪化してしまったのだ。
両者手が出る寸前、それを止めたのがフィガロだった。
どちらの立場も下げず、上げず。穏やかに話をまとめ、彼は村人たちの昂りすぎたお門違いの熱を四散させていった。
「俺が来なかったらどうしていたのさ」
「……感謝しております」
言葉とは裏腹にファウストは不服そうな顔をする。少し拗ねたようなそんな反応にフィガロはクスリと笑った。
口に出してしまった言葉は消すことができない。特に、言われた方はよくよく覚えているものだ。
幸い、厄災に関する嫌な気配も感じられない。それだけは一応告げて、魔法使いたちは山の上にある村を後にした。
けれど、ファウストは今ここにいる。
皆、命は尽きていた。ある程度の力を持つ魔法使いならすぐに分かっただろう。
誰もファウストが残ることを止めなかった。世話焼きの一部から早く帰ってくるようにと言われたぐらいだ。
ファウストに倣うように、フィガロも目を閉じ胸に手を当てる。どくどくと生きている音がした。
「きみに祈ってもらうなんて、ずいぶんと贅沢だね」
「……」
「冗談だよ、そんな顔しないで」
帽子をちょんと触れば、ファウストは少しだけ嫌な顔をした。けれど何も言わない。あの日から許された距離だ。
「フィガロ様は、僕の祈りなどいらないでしょう」
「まあね。虚しくなりそうだ」
「……そうですか」
ため息を吐くと、川からごぼごぼと嫌な音がした。ファウストの紫の瞳がスッと細められる。
ファウストがこの地に残ったのは、弔いのためだけではない。賢者の魔法使いの仕事を全うするためだ。
「……きた」
フィガロが青く光るオーブを掲げれば、穏やかだった川はさらに荒れていく。
やがて水に大きな影が見え始め、やがて勢いよく飛び跳ねた。それはフィガロやファウストよりも何倍も大きな体格の怪魚である。
哀れな魔法生物だ、より強い力を求めたのだろう。それが身の程知らずだと気付けば、どれだけよかっただろうか。
地面の色を容赦なく変えていく水は二人にかかることはない。
澄んだ青は眩い白の光を放つ。どこまでも穏やかな笑みを浮かべたフィガロは、力強く呪文を唱えた。
「《ポッシデオ》」
その瞬間、魚の身体はみるみる膨れ上がっていく。原型が分からないほど伸ばされた体は、やがてパンと大きな音を鳴らして内側から弾け飛んだ。
どこか鬱憤を晴らすような荒々しいやり方にファウストは静かにため息を吐く。どうやフィガロもほどほどに怒っていたらしい。
パラパラと空からマナ石が降ってくる。ファウストはどこか鬱陶しげにそれらを払いのけながら、小さく眉をひそめた。
「……僕が、やろうとしていました」
「あはは、早い者勝ちさ」
フィガロは大きなマナ石を拾い上げる。彼はファウストへ無邪気に笑いかけながら、大きく口を開いた。
長い指で持ち上げた鋭いマナ石は、伸ばされた舌の上に乗せられる。ゴリ、と大きな音がして、ざらざらと粉のような感触が舌に残った。
渋い顔をしたフィガロは同じく石を持ち上げるファウストに小さく首を振る。
「やめた方がいい、まずいよ」
命の欠片を蹴飛ばしながら、フィガロはにこやかに笑った。