メイズオブルージュ はっと目を開けたら、そこは、いつもの場所だった。
いつもの――あぁそれは、例えば、くるくる回るシーリングファンであったり、染みの一つ一つが模様に見えるような木目であったりする見慣れた天井の景色。そうして少しばかり目を横へ遣ったのなら、ベッドの横、ちょうど僕の目線の位置に当たる大きな窓の向こうは、紺色のグラデーションが橙色の世界を連れて、今まさに、世界の果てに沈もうとしているところであった。
――あれ……?
起き上がり、目を擦る……けれど、ぱちぱちと瞬いたところで世界は変わらない。その風景は、やはり、僕の中のそれとは全く噛み合わない。
確か。それは、朝だったはずだ。柔らかな光が差し込む朝。いつも通りに起き上がった僕は、ぐーっと伸びをして……窓の外を、蒼の世界を流れていく雲と、島々の向こうに見える大きな太陽と、その合間を飛んでいく雁の群れにしばし見とれていたはずだ。遙か向こうにはごま粒のような騎空艇の影が幾つも見えて、……あぁ今日もいつも通りの日が始まるなと、欠伸をかみ殺しながらそう思ったんだ。
それで、……騎空艇が島に着いて、皆思い思いに降りていって、僕は、誰かに捜し物を頼まれた……
――……うぅん……?
駄目だ。そこから先が、なんだか上手く思い出せない。思考の中に蜘蛛の巣でも張ってしまったかのようだ。振り払っても振り払っても、次から次に手に絡みついてくるような……肝心のものがどうにも見通せないような
コン、コン。
「!」
突然に響いたノックの音に、僕はびくりと身体を竦ませた。勢い止めてしまった呼吸が、臓腑の奥に塊ごとごくりと落ちていく。
そうして機械のように、関節をギシギシと軋ませながら首を向けた先、……様々な物に埋もれた扉の先に、人の気配を見る。それは確かにそこにいて、僕の返事を――反応を静かに待っているようにも思えた。
ああ。何故そう思うのか、僕にはよく分からない。分からないけれど。
「……あの、……はい、どうぞ」
そう言ったつもりなのに、声は掠れて喉に引っ掛かる。一度こほんと咽せて、――それでも扉の外の気配は動こうとしないので、多分聞こえていないのだろうと判断してそうっとベッドから足を伸ばした。いろいろな物で溢れる床を、その中で踏んでも大丈夫そうな場所を選んでそっと踏み込み、扉に駆け寄る。「開いてるよ」と呼び掛ければ、外の気配が多少、動いたような気がした。「何か、用……?」
「……」
聞こえたのは、ふ、と小さく笑う声。それは、僕にある人を――あるものを連想させ、何故か心臓がドキリと跳ねた。あぁ、だって、……だって、それは。
「具合は、どうだ?」
彼は、……そう言った。低く、耳に心地の良い声が静かに響く。具合……? と怪訝になる僕の思考を遮るように、ぽつりと落ちる。
「話したいことがある……ここを開けてくれないか」
「っ、……え……」
長身痩躯の、エルーンの青年――
恐らく……彼は、そこに、扉の向こうに立っている。頭頂部の大きな獣耳をふわりと揺らし、銀色の髪に覆われた冬の湖面のような双眸を穏やかに細めながら、艇内を緩やかに流れる風に茶褐色の外套の裾を遊ばせて。それは容易に想像出来ることであったし、本当にそうしているであろう妙な確信があった。だから僕は、ノブに手を掛けたままで――胸をドキドキと高鳴らせたままで、固まってしまっていた。
いや、……でも。なんで、……何で、彼がここに……?
それに、話したいことって何だ。わざわざそんな宣言しなくったって、話したいならそのままそこで話せばいいじゃないか。僕と相対してまで言いたいことって、
「っ……!」
ガチャリ、と唐突にノブが動いた。
息を呑んだ僕は、勢い、ノブに手を置いたままで引っ張られる。視界にぱっと広がったのは橙色の光だ。それが、扉の外側から溢れてくる――
「わ……」
そこに割り込んだのは、大きな影だった。視界の端ではらりと舞ったのは、外套の裾だっただろうか。それとも、彼の太ももに括り付けられた、黄色のベルトの端だっただろうか……確認する間もなく、ぽふりと、引っ張られた身体が柔らかい何かの上に着地する。
ふわりと鼻先をくすぐったのは、硝煙の匂いだった。それから、微かなチョコレートの香り……はっと上げようとした顔が、けれど、何か――布のようなものに触れて、次いで、何かが背中に回って思い切り引き寄せられた。あ、もしかして抱き締められた、……と思った瞬間、頬にカッと熱が上がった。
「ようやく、捕まえた」
穏やかな声が耳を刺す。吐息すらもはっきり感じ取れそうなほど近い距離に……彼がいる。いるのだ。
何を、と出掛かった言葉はごくりと飲み込むしかない。所在なげに漂っていた腕を、びっしょりと濡れた掌を何とか握り込んで、……動揺を悟られないように懸命に呼吸を整える。その間にも何とか上げた僕の視線の先で、からかうように、彼の耳が揺れる。
「グラン、――俺はお前を」
ああ、聞こえたその言葉の先はどこだっただろうか。
耳朶に熱を感じつつも、僕は、……限界まで見開いた目の向こうで、彼の輪郭が橙色に彩られるのを、……ああ、綺麗だなぁ、なんてぼんやりと考えていた。
***
「団長さんっ、今、手が空いてたりする?」
美少女錬金術師カリオストロは、そう言って拳を口元に当てにっこりと笑った。背丈の低い彼女は、目線を合わせると当然上目遣いになる。くるりと緩く巻いた金色の髪に大きなブラウンの瞳とあどけない表情……男であるなら多分、くらりとしてしまうほどに可愛らしいものだ。
しかし、あいにくその正体が分かっているグランにしてみたのなら、ああ、何か面倒な頼み事があるな、くらいにしか思われない。その感情が如実に表情に出てしまったのか、カリオストロははぁ、と大きくため息を吐くと、驕った様子で腕を組んだ。
「おい、折角オレ様みたいな美少女が頼み事をしようとしてるんだ、少しは嬉しそうにしろよ」
「……そうは言ってもさぁ」
こういうあからさまな媚びモードで来るときは、その内容も大抵碌なものではない。確かに今、気を逸らすための何かを探しているのは事実だけれど――グランは思い、心の中で項垂れた――それが何も、カリオストロからの依頼でなくても良かったんじゃないか?
けれど、ここで断れないのもまた、グランである。次の瞬間には「で、何をすれば良いんだよ」と答えて、カリオストロは「そうこなくっちゃなぁ」とニヤニヤ笑った。
「まぁ、そんな面倒な事でも無い。ちょっと……探し物があってな」
「探し物……?」
「ああ」
それって、何。言い掛けたグランの目の前で、彼女はくるりとこちらに背を向けた。そうして顔だけを肩越しに振り向かせ「付いてこい。見れば分かる」とだけ言い残し、さっさと歩き出してしまう。グランは慌ててその足を急がせ、小さくなっていくその背中を追いかけるしかない。何を探せって言うんだ? ……人前じゃ言いづらいものなのか? そんな風に疑問符で思考を埋め尽くしたまま。
やがて二人の足は騎空艇を降り、町中を抜け、郊外にひっそりと建つ一軒のあばら屋の前で止まった。ようやく南天に至った太陽が、今にも崩れ落ちそうな漆喰の壁を白く輝かせている。
「えぇと……?」
戸惑うのは多分、無理もない。真意が測れず目を瞬くだけのグランに、カリオストロは、呆気にとられたようなその横顔を見上げながら、ふぅ、とひとつ息を吐いた。「擬態だ。本当にボロい訳じゃないから安心しろ」
「……擬態?」
「研究内容が盗られでもしたら大変だからな、こうやって自衛するのさ」
「はぁ……」
それでもおっかなびっくり、壁に大きく開いた穴から中を覗き込んでみたのなら、……成る程、カリオストロの言うこともあながち間違いではないらしい。
壁に掲げられた唯一のランプが橙色の光で以て照らし出す薄暗い室内。堆く積まれた分厚い本の山に、何に使うのか判別不能な植物の鉢植えの群れ。部屋のど真ん中に置かれた長机の上には、これまた妙な匂いの煙を吹き出し続ける試験管が揃っている。「息を止めろとまでは言わないが」思わず手を出そうとしたグランに、カリオストロはそう言って釘を刺す。「何が起こっても、責任は取らないかな」
「うっ……」
冗談だよ。にやりと笑みを浮かべ、思わず固まってしまったグランを追い越して、カリオストロは壁際の本棚の前でその足を止めた。彼女の背丈のおおよそ三倍はあるだろう本棚は古今東西の様々な本で埋められており――中にはグランでさえ分からない文字のものもあった――、ようやく追いついたグランが見上げる横で、彼女は小さく肩を竦める。
「この工房のかつての持ち主が、ここにとあるレシピ本を仕舞ったようだが、どうにも見つからなくってな……」
確かに、……これだけの本の中に隠れているのなら、探すのだって一苦労だろう。それにどんなにカリオストロが頑張って背伸びをしたって、一番上の棚なんて絶対に届かないじゃないか。他に足場になりそうな場所もないことだし。
「後はオレ様の手が届かないところにあるんじゃないかと目星を付けたはいいが、頼めそうな相手がお前くらいしか思いつかなかったんだ」
それを聞きながらグランは、……正直ほっとしていた。この郊外のあばら屋は、人が積極的に寄りつく場所ではないし、みんなも、僕がここにいるだなんて思いもしないだろう。隠れるには絶好の場所だ。しかも、探し物という最高の暇つぶしまで付いてくる。面倒なことを頼まれるかと思っていたが、……これくらいなら逆に願ったり叶ったりだ。
「ところでそのレシピ本、ってどんな本なんだよ。錬金術の本とかなのか?」
「あー……まぁ、そんな感じの本だ。見りゃ分かる」
彼女にしては珍しく言い淀むので、グランは首を傾げつつ……けれど、その目の前で彼女はくるりと踵を返し、じゃ、頼んだぜ、と言ってそそくさと去って行こうとする。そうしてグランが何処にと声を上げようとする目の前、穴を潜ろうとしたところで、はたと動きを止めた。
「そうそう、応援は任せる。一番上の棚は、お前でも届かないだろうからさ」
「あ、……うん、そうする」
じゃあね、団長さん! 可愛い声でその言葉だけを残し、小柄な少女は、まるで逃げるかのように外の世界にふっと姿を溶かす。それを見送りながら――様子が変なのを少しおかしいと思いながらも、グランは、そうっとつま先立ちになって本棚の高さを確認した。
グランがユーステスを呼びに行ったのは、何も、妙な下心があったからではない。単に背の高い人物を考えたら、真っ先に思いついたのが彼だっただけだ。それ以上でもそれ以下でもなかった。
彼は、予想通り甲板にいた。縁に背を当てて座り、界隈を吹く微かな風に耳を揺らしながら、銃の手入れをしていた。その耳はグランが近付く前にピンと跳ね上がって、彼が名前を呼ぶより前に顔が上がった。銀色の髪の奥で、冬の湖面のような水色の目がすっと細くなる。
「どうした」
グランが、はっと足を止めたのは言うまでも無い。
ユーステスの足下。敷かれた外套の端に、小さな小箱が積まれている。遠目にもそれは、綺麗にラッピングされたプレゼントのように見えた。可愛く結ばれた赤いリボンの先端がひらひらしている。そうか、今日はバレンタインだった。ユーステスだって男なんだから、他の人から貰わないわけがないじゃないか――思いながらも胸がぎしりと軋んだのを、グランは、気のせいだなんて楽観的に片付けることが出来なかった。
無理に笑おうとして妙な表情になっている自覚があった。ユーステスが怪訝な顔をしたのもそのせいだろう。逃げ去ってしまいたい衝動を、声を掛けておいてその態度はないなと戒めつつ、……グランは小さく息を吸い「ちょっと、頼みたいことがあってさ」と切り出した。
「その、……君じゃないと背が届かないところがあって。……手が空いてなければ、別に良いんだけど」
他の人を当たってみるから、とぽつんと付け加えてから……我ながら酷い言い方をしたと思った。折角君を頼ったのに、という未練がましさが言葉の端々に出ている気がする。思わず項垂れるグランの手前、ユーステスは――その胸中を知ってか知らずか、ふぅ、とひとつ息を吐いた。手早く散らばった部品を纏め始める。
「分かった」
言うなり銃を肩に担ぎ足早に歩き出すので、……「ちょ、ちょっと待ってよ」と驚いたグランはその背を追いかけ、小走りになる必要があった。ようやく追いついたときには、ユーステスの足は、既に騎空艇のタラップの上にある。
「郊外にある、あばら屋なんだ。あっ、……でも見た目はボロボロだけど、中身はそうでもなくって、えぇと……」早口でそう言いつつ――自分でも何を言ってるんだろうと思いつつ――グランは、大股に彼の隣に並ぶ。「カリオストロがレシピを探しているらしくて、本棚の上の方にあるかもしれないって言われたんだ。だから、……」
「そうか」
彼らはやがて、件のあばら屋の前に辿り着く。立ち止まり、辺りを見渡すユーステスの前に割り込むと、グランは、壁に開いた大きな穴から中へと入り込んだ。途端、埃っぽい空気が鼻を突く。
かの工房は、やはり取っ散らかったままでひっそりとそこに在った。心なしか空気がひんやりしているように感じ、グランは思わず両腕を身体に巻き付ける。その横にぬっと突っ立った影は、周囲をぐるりと見回した後、壁に沿って設置された本棚のひとつに足早に近付いた。これか、とぽつりと呟きつつ、最上段に手を伸ばす。
やはり、彼のような長身であればこのくらいのことなど造作も無い。褐色の手袋が分厚い本を掴み、引っ張りだし、パラパラとめくる。アッシュグレイの髪の向こうで、伏し目を彩る睫毛は頬に影を落として、すっきりと通った鼻梁を、ランプの明かりが橙色に象っていた。その姿は精緻な美術品とはまではいかないけれど、グランでさえ――同性の自分でさえ格好いいなぁと感嘆のため息を吐いてしまうほどだった。
おそらく、……いや、多分確実に。自分はユーステスのことが好きなのだろうと、グランはそう思っている。今だって、この、二人きりであるという状況が妙に落ち着かなくて、そわそわしてしまっているのだから。
ユーステスはきっとこのことを知らないだろうし、気付いてもいないだろうし、だからこそ……敢えて言う必要もないと、そうも思っている。確かに、もうひとつ上の――例えば恋人のような――関係にも多少の憧れはあるけれど、それは叶わないことだと、叶えようもないことだと心得ている。今の、団長といち組織のエージェント……その関係性に特に不満があるわけでもないし……
でも。
……でも。
はぁ、と大きく吐息を落として、グランはすごすごと彼の隣から離れる。同じ所にいたって仕方が無い、四方の壁をぐるりと取り巻く本棚のどこにあるかも分からないのだから、効率を考えたら離れた方がいい、そう思うのに、せめて今だけは彼の隣にいたいと思う自分がいるのだって、確かなのだ。女々しい奴め、最悪だ……そう思いながら、唇を噛んで別の本棚の前で足を止めた。そっと見上げる。
他と比べても多少の隙間のあるこの棚には、本の他に大きな硝子瓶や試験管、丸底フラスコなどが飾られていた。中には液体がたっぷりと入っているものも確かにあるので、敢えて触らない方が良いだろうと――変に触ってひっくり返しでもしたら大変だと、他の物から手を付けることにする。それは例えば、皮革の表紙の本であったり、謎の分厚い書類であったり、とにかく手当たり次第、ぱらぱらとはぐってみたりしてみる。
「おい」
急に呼び掛けられたのはまさに、羊皮紙の巻物を手に取ったときだった。紐を解こうとした手がびくりと震えて、落としそうになってしまうので慌てて持ち直して、けれどそれを極力表に出さないようにしながら「な、……何」と平静を装い肩越しに振り向く。その先、……薄暗闇の中にいるエルーンの青年は、ふ、と小さく笑んで――否、グランにはそのように見えた――パタンと持っていた本を閉じた。
「何故、逃げ回っている」
「え……?」
どきり、とした。
それは突然話しかけられたからでも、いきなり意味の分からないことを言われたからでもない。何で分かったんだ、どうしてそれを知っているんだという、焦りにも似た動揺の歪みだった。
勿論すぐに応えられる訳もない。少しだけ、小さく息を吸って「な、何言ってるんだよ」と震える声を必死に張って笑った。「僕が、逃げ回ってるって……?」
「俺の気のせいであればいい」
ユーステスはぼそりとそう言って、こちらをじっと見つめる薄蒼の双眸を僅かに眇めた。
「だが、ルリアやサラがお前を探して、朝から艇の中を駆け回っていたと聞く。だから、……少し、気になっていた」
「う……」
……バレンタイン。
意中の人に愛を告白したり、感謝を込めてチョコレートを贈る日とされている。この時期はどこもかしこも甘い匂いに包まれ、女の子たちが――多分一部の男子も――そわそわとし出す。それは、このグランサイファーに於いても例外ではない。
自覚がなければ、多分、こんな風に逃げ回る必要もなかった。いつも通り、彼女たちからの想いのこもったチョコレートを、有り難うって満面の笑みで受け取るくらい……何でもないことだ。でも、グランは、自覚してしまった。
「っ、……別に、ユーステスには関係ないだろ」
咎めるような視線に、グランは思わずそう言い放ち、ぷいとそっぽを向いた。向いてから、しまった、別に怒ることでも何でもなかったのに、と思ったが、今更訂正できるはずもない。「それもそうか」と穏やかな声が――グランはそこでどきんとしたが、とても確認することなんて出来なかった――背中の向こうで聞こえて、それきり世界はしんと押し黙った。長机の上の試験管が、ぷしゅうと妙な色の煙を噴き上げる音だけが微かに響く。
……彼女たちの想いは多分、叶うはずがない。僕が、こうしてユーステスのことを好きでいる間は、ずっと。
確かに、彼女たちのくれる想いの中には友愛の情もあるかもしれない。けれど、そこに含まれるであろう友愛を超えた愛情に、応えられる自信がなかった。彼女たちが数日を掛けて準備をしているのだって当然知っている。知っているからこそ、……差し出されたら断る事なんて出来なくて、足が、勝手に逃げ出してしまっただけだ。こんなことしても、何の解決にならないことだって、知っているのに。
……はぁ。
特大のため息を吐いて、グランは、本棚の端に手を掛けた。いや、今はそんなことよりも、カリオストロの言うレシピとやらを探さなくちゃ……カリオストロがいつ戻ってくるかも分からないんだし……そう思い、ふっと視線を上げた、そのときだった。
それは隣の本棚の中程――沢山のフラスコや試験管が立ち並ぶ一角に、ぽんと無造作に置いてあった。そっと近付いて見れば、手帳サイズの小さな本のようだ。背表紙には金色の箔押しがしてあって、美味しいお菓子の作り方――そう書いてある。
成る程、カリオストロが言っていたものは、この『レシピ』なのかもしれない。グランは得心する。バレンタインだから、彼女も誰かにチョコレートを作ろうとしたのだろう。それがあんな場所に仕舞われたのなら、見つからないのも無理はない。
けれどその位置は、グランにとっても、背伸びだけでは到底足りない。何とか頑張れば届かないこともないが、近くにある足場と言えば積み上げた本と今にも崩れそうなほどに朽ちた小さな台だけだ。ちらりとユーステスを見たが、……彼はこちらに背を向けている。先ほどあんなことを言ってしまった手前、話しかけるなんて到底出来なくて、……グランは、そうっと、積み上げた本の上に足を乗せた。
分厚い本はそれだけで足場の代わりになろうが、如何せん足を乗せる場所が狭く、安定性もよろしくない。表紙はつるつるとしているので、一冊、二冊と上っていくうちに、どんどん滑ってずれていくような気がする。けれど、あと少し。あと少しだ。あと一冊分上って背伸びをすれば、本の端に何とか手が届く。わざわざユーステスの手を借りなくたって、僕ひとりで何とでもなる。
ああでも……今思えばその見立て自体が甘かった。
「う、わッ……」
そんな小さな悲鳴が聞こえるより前に、反射的に動いた身体が、伸ばした腕が、傾いて崩れようとする少年の手首を掴み、思い切り引き寄せた。彼を受け止め、勢い、後ろに倒れ込むような形にはなったが、その目前で、ものすごい物音と埃を立てて崩れ落ちる本棚の下敷きになるよりはずっとましだろう。
少年の頭から上半身にかけては何らかの液体を被ったらしくぐっしょりと濡れそぼっていたが、その他、特に目立った怪我はない。ふぅ、と安堵の息を吐いて「おい、グラン」とユーステスは、腕の中の少年に静かに声を掛けた。「大丈夫か」
「う、……うん……」
その声は、顔が衣服に埋もれているからか、妙に活気がないように聞こえた。けれど、背中に回された手に微かに力が籠もるので、……怪訝に思ったユーステスが何か言おうと口を開き掛けた直後だった。
「あの、……もう少し、このままで……」
「……?」
まさか……直接当たったのではないにしろ、どこかを思い切り打ち付けてしまったのか。目に見える範囲では、特に身体の動きにも支障がないようだが……?
「どこか、痛むのか。それとも、動きにくい箇所があるのか?」
「あ、……えぇと、そういうことじゃないんだ、ただ……」
少年は――グランは、そこでゆっくりと顔を上げた。揺れるランプの明かりが、彼の、まだ幼さの残る顔を橙色に照らしている。水に濡れた前髪はぺったりと額に貼り付いて、したたる水滴が頬に筋を描く……その中で少年然とした、凛とした光を宿すブラウンの瞳がこちらをじっと見つめていた。
何故か妙な胸騒ぎを覚えて、ユーステスは目を細める。何だろう、何かがおかしい。けれど、その何がおかしいのか的確に言い当てることが出来ない。
「僕……」
戸惑うユーステスの前で、グランは、それでもしっかりと彼の目を見据え、口を開く。
「ユーステスのことが、好きなんだ」
「……は……?」
時間にして僅か数秒。放たれた言葉の意味を計りかねて何も返せず、妙な表情になるユーステスに、グランはただいつも通りに、本当にいつも通りに真っ直ぐに「君のことが、……大好き!」と告げた。告げてから……急に恥ずかしくなったのか、むず痒いような変な表情をしてこちらにぎゅっと抱きついてきた。胸に顔を埋め、ぐりぐりと額を押しつけられる。
……いや。
……今、彼は、何を……?
意味が分からない訳じゃない。だが、……何故急に今、そんなことを言い出したのかが分からない。まさか、……何らかの薬品を被ってしまったとでも……?
そういえば、とユーステスはグランをそのままに考えを巡らせる。ここは錬金術師の工房だと聞く。なら、妙な薬が――グランに心にもないことを言わせてしまう薬があってもおかしくはない。例えば、惚れ薬のような……
惚れ薬。
思い至ったその単語は妙にしっくりと来る。しかし、本当にそれを被ったかどうか、それでおかしくなっているかどうかまでは確定ではない。どちらにしろこの工房の主であるカリオストロに聞いてみなくては……思い、とにかくまずはグランを引き剥がそうと彼の肩に手を掛けた、そのとき。
「ちょっとちょっとぉ、カリオストロを放っておいてイチャイチャしてるなんて、酷いなぁ……」
呆れたような声が、ため息に混じって聞こえる。
ユーステスの耳はそれを拾い上げ、ピンと立ち上がった。くるりと視界を回せば、その向こうに、大量の荷物を抱えた一人の少女の姿を見る。風になびく金色の髪、大きなリボンの付いた赤い外套、すらりと細い足を包む黒の靴下と丈の短いスカート――それは間違いなく、自称美少女錬金術師カリオストロ、その人だった。
***
粉砂糖のかかった小さなブラウニー。ココアがたっぷりと塗された生チョコ。ベリーの装飾が愛らしいガトーショコラに、色とりどりのマカロン。サンプルとして可愛くデコレートされているフォンダンショコラからは、とろりとしたガナッシュがシズルたっぷりに零れ出ていた。
「あ、いらっしゃいませ」
フリルのエプロンを身につけた店員が、ショーケースの前で足を止めたエルーンの青年に気付き、にこにこと声を掛ける。長身痩躯で、褐色の肌にアッシュグレイの髪……そこから覗く大きな獣耳は狼のようで、店員の声に反応して、一瞬だけふわりと揺れた。
――やだ……このお兄さん、凄いイケメン……!
眼光こそ鋭く、近寄りがたいような威圧的な雰囲気ではあったけれど、顔の作りは端整で、美丈夫と言い換えても差し支えないくらいだった。それが、僅かに首をかがめて、ショーケースをじっと覗き込んでいる様はなんだか可愛らしく、非常に興味をそそる。
――自分用に買っていくのかしら、それとも彼女にプレゼントとして? わー、こんなイケメンの彼女なんて羨ましい……!
心の中で大興奮しながらも、店員も一応、プロである。業務用のスマイルをばっちり貼り付けたまま、ショーケースの中をじっくり吟味する青年に「お決まりでしたらお声がけ下さい」と言葉を掛けた。青年の耳がピンと立ち上がって、小さく息を吐き、……彼は不意に顔を上げる。あら、もう決まったのかしら、と店員がトングに手を持ったとき、カランカランと涼やかなドアベルの音を響かせて、蝶番がギィと軋んだ。
「ごめんっ、お待たせ!」
外の空気と共に飛び込んできたのは、一人の少年である。年の頃なら十代半ばくらいの、なかなかに可愛い顔をしている男の子。よほど急いでいたのだろう、頬を紅潮させ、青いパーカーに包まれた肩を上下させながら、かのエルーンの青年へと歩み寄っていく。
「……」
あ、笑うんだ――と思ったのは多分、青年がずっと仏頂面だったせいもあるだろう。それは微かな表情の変化ではあったけれど、彼の纏う氷のような雰囲気が一気に氷解したように感じた。もしかして親しいお友達か何かかしら、と訝る店員の目の前で、少年はショーケースに気付いたように、あ、と小さく声を上げて隣のエルーンの青年を見上げた。
「あれ、君……甘い物好きだったっけ?」
青年は微笑んだままで答えない。答えないけれど、少年はにやっと笑って「じゃあ僕からバレンタインってことで、……大好きな君にあげるよ」とこちらにくるりと向き直った。それがあまりにさらっとした言葉だったし、青年も特に反応しなかったので――僅かに表情を曇らせたが気付かなかった――チョコを贈り合うなんて可愛い関係だなぁ、とにこにこしながら店員は「はい、どちらになさいますか?」と聞いた。
「えぇと……このバレンタインセット、っていうのをひとつ!」
かくて真っ赤なリボンを巻いた小箱は可愛らしい紙袋に入れられて、嬉しそうに笑う少年の胸元に収まった。あれはこの店の主力商品で、柑橘類をアクセントにしたトリュフチョコレートが四つ入っている。味の方も勿論、折り紙付きだ。
「有り難うございました、またおいで下さいませ」
深々と頭を下げて見送ったなら、その向こうで、二人の影がゆっくりと近付いたのを見る。少年は嬉しそうに青年と手を繋ぎ、青年はそれを邪険にするでもなく満更でもなさそうに耳を揺らしている。二人の間に漂う仄かに甘い雰囲気に、あれ、あの子たちもしかして……? と店員が首を傾げる頃には、彼らの姿は人波の中へと溶け込んでしまっていた。
――何故、こんなことになったのだろう。
歩きながら、ユーステスは胸中で呟き大きくため息を吐く。傍らの……弾んで歩くグランは、多分、気付いていないだろう。時折こちらを見上げてくる満面の笑顔は一点の曇りもない。
大通りは人波に溢れ、歩きづらいことこの上ない。しかもこの時期だ、至る所で男女が楽しげに笑い合ったり、仲睦まじそうに話したりしているのが嫌でも目に入る――繋いだ手の先で、その様子をちらちらと気にしているグランのこともまた。
好きか、嫌いか。
そう聞かれたなら、おそらく、好きだと答えるだろう。隣にいたのならこれほど落ち着く存在もない――心地の良い場所を見つけたときのような、懐かしい故郷に戻ったときのような、ほっと安堵する感覚。しばらく忘れていたそれを思い出させてくれたのは他でもない、……彼だ。
叶うのなら、ずっと傍にいて欲しいと……共にありたいと思ったのも、初めてではない。その感情を世間では恋と呼ぶことだって、もう随分前から気付いている。気付いていながら、ずっと知らないふりをしている。もう自分も子どもと言える年代ではない。これは永遠に叶うことのない――叶えてはいけない願いだということだって十分に分かっているつもりだ。
――いや、……分かっているつもり、だった。
グランから『好きだ』と告げられたとき――それが例え薬で妙な感情になっているからこそ出た言葉であっても、どきりと胸が軋んだ。今まで絶対に手に入らなかった、入るはずもなかった高嶺の花が、自らこちらに飛び込んできたようだった。嬉しいとさえ感じた。でも……それは全てまやかしだと、全て嘘で塗り固められたものだと、すぐに拒絶した。壁を張って、これからのどんな出来事も内部まで通さないようにと強く拒否した。
……だが。
実際はどうだ。今のこの――雪解けの街を二人きりで歩いている状況でさえ、酷く心を揺さぶられている。デートだと無邪気に喜び、嬉しそうに手を引くグランをきっぱりと拒絶することも出来ず、今もこうして往来を行くに至る。雑貨屋のショーウィンドウにへばりつき、可愛いもこもことした犬のぬいぐるみを指さしながら、あれ凄く可愛いね、ルリアへのお土産にどうかな? と屈託のない笑いを浮かべるグランを、どうして邪険に出来ようか。
――惚れ薬……?
カリオストロの素っ頓狂な声が、唐突に耳元を過ぎる。
――あぁ……あの棚がひっくり返ったのか。まぁ確かに、惚れ薬もあるにはあるが……如何せん、何を被ったか分からない限り中和剤も作れないからな……。
出来るだけ急いでくれ。平常心を保ちながら使った言葉ではあったが、カリオストロの変な表情から、おそらく、動揺を隠しきれていなかったのだろう。酷く驚いたように、あ、あぁ、分かったよ、と言いつつキョロキョロと辺りを見回し、それから彼女は、ぼそりと声を潜めた。
――取り敢えずグランを連れて街へ行ってくれ。用意できたら追いかける。
何故、と言った気がする。そんなことより、ここへグランを置いていった方が互いのためになるのではないかと。だが、……美少女錬金術師は、ふぅと息を吐いてこう告げた。
――あのな。惚れ薬だとしたら、グランは今、お前に惚れ込んでいる状態だ。それこそ、自分の命と同等くらいに大切に想っている。そんなお前にひとりぼっちで置いて行かれたら、絶望から命を絶ちかねないぜ?
それに、と続ける彼女の目の色が、こちらを見据えて一層深くなった。
――お前も、グランを助けるときにあの薬に触れただろ? オレ様の作る薬は、例え少量でも絶大な効果が出る。『間違い』がないようにしたいのなら、町中で衆人環視に晒されていた方が安全だとは思わないか……?
「ユーステス!」
「……!」
突然聞こえた声に、意識がふっと覚醒する。音のした方へ視線を動かせば、グランが、こちらの手を握ったままぷくりと頬を膨らませていた。
「もう、何ぼうっとしてるんだよ」そう言いながら、ぐいぐいと手を引かれる。「まさか、僕以外の誰かのこと、……考えてたわけじゃないよな?」
当たらずといえども遠からず――けれどそれをおくびも出さず、ユーステスは唇をぐっと噛むとさっさと歩みを早めた。勢い引っ張られるようになったグランが、うわ、と後ろで小さく悲鳴を上げた。
決してそれが、正しかったとは言い切れない。
手の中の温もりを――平時は自分が先導し常に確認しているそれを、けれど今は随分と意味合いが違うと歯噛みしながら、ユーステスは大きく息を吐いた。
騒々しいのは得意ではない。人混みなら尚更だ。だが、……今はその騒々しさが、思考の沼にはまり込もうとする自分を無理矢理にでも引き上げてくれる。
「ちょっ……、待っ、待ってよユーステス! 答えをまだ、聞いてないったら!」
そんな青年の後ろを殆ど引きずられるようにしてついて行く少年は、そんな風に抗議の声を上げながらも……幸せそうににこにこと笑っているのだった。
休憩がてら大通りに面するカフェに入ったのは、昼を回り、灰色の空からちらちらと雪が舞い始めた頃のことだった。そういえば艇を出る前に空を眺めていたラカムから、今日は雪が降りそうだな――と言われたことをふと思い出す。今はこれだけ晴れちゃあいるが、まぁ……積もるほどじゃないだろ。気をつけて行ってこい。そう言って豪快に笑っていたのも。
店の中は既に人でいっぱいで、給仕の女性に案内されて出たのは外のテラス席だった。辺りは吐く息が白く立ち上るくらいに冷え込んではいたが、天幕の外側に降る雪のおかげもあり、そこまで寒いとは思えなかった。陶器のマグカップに指を這わせ、湯気を立てる温かなラテを一口、こくりと飲み込む。
グランは。
それでも嬉しそうにしながら、両手で頬杖を突いて目の前のユーステスをじっと見つめていた。「冷めるぞ」と言っても「うん、分かってる」とだけ答えて、目線を外そうともしない。グランの、凛とした真っ直ぐな目はこちらの心の奥底まで読み取ろうとしているかのようだったから、ユーステスは思わず目を伏せ、静かに視線を逸らした。
テラス席には自分たち以外にも数人の客がいた。そのどれもが若いカップルであって、ロマンチックだね、と雪を指さしてはしゃいでいたり、見て見て、これ美味しそう! とメニューを見ながら笑い合ったりしている。こんな歪な関係でもなければあんな風になれたのだろうか、せめて、あの恋人たちのように……そんなことを思った。
「……、僕といるとつまらない?」
ぽつりと、声がした。
耳がぴくりと動き、ユーステスは緩やかにその面を上げる。その先でグランは、小さくふっと息を吐くと、手元のマグカップに視線を落とした。その微笑みは……先ほどまでの楽しげなものとは打って変わって、随分と寂しげなものだった。
「なんか君、今日ずっとぶすっとしてるから」
「……そんなことは」
ない――と言い掛けて、止まる。ずきりと胸が軋むのを感じる。変な感情を抱かれようがいまいが、目の前にいるのはグラン、その人なのだ。偽物なんかではない。傷ついたような表情をされれば、こちらとしてもそれなりに堪える。
そんな顔をさせているのは他でもない、……自分なのだから。
「……」
言葉に詰まり、思わず黙り込んだなら、……グランはけれど、その先でにやっと笑った。怪訝な顔をするユーステスの前で「なんてねっ」と茶目っ気たっぷりにぱちんと片目を瞑る。「冗談だよ、君があんまりにも思い詰めた顔してるから、ちょっとからかってみたくなっただけ」
――悪趣味な奴だ。
普段であれば苦笑と共に飛び出る文句が、喉の奥に消えた。そうか、と呟いた声は掠れていた。グランは、……えへへ、と笑ってはいたけれど、その瞳の奥には寂寞の思いが見え隠れしている。無理をしているな、と即座に感じる。寂しいなら寂しいと言えば良いのに――思い、ユーステスは小さく自嘲する。全く、どの口がそれを言う。惚れ薬の影響だと、彼の好意の全てを拒絶していた癖に……
「僕は、……楽しかったよ」
そんなユーステスの胸中を知ってか知らずか、グランはぽつりとそう呟いた。
「うん。凄く楽しかった。大好きな君と、二人きりで街を歩いて、チョコレートを選んで、こんな風にお茶して。デートみたいで、凄く楽しかった。こんなの絶対に叶わないって、願っちゃいけないって思ってたから、尚更」
「……」
はっと、……目を見張るしかない。それはただの言葉ではあったけれど、どこかで聞いたことのあるフレーズだった。どこか。……それは多分、己の内と対話したときの……。
けれど、ユーステスはすぐに首を振ってその先の考えを振り落とす。いや、……いや。本気にするな。グランが本当にそう思っているかどうかなんて何も証明できない。こんなことで、容易く心を揺さぶられるんじゃない……。
「本当は、君が、僕を好きになってくれたら良かったんだけど……そうしたら多分、君も楽しかったんじゃないかと、そう思ったんだけど。でも、……駄目だよね。そこまで望んだら罰が当たる――」
「やめろ……」
え、と聞こえた。目を丸くして、弾かれたようにこちらを見上げるグランの顔が、ぐしゃりといびつに歪むのを見た。
「もう、やめろ……!」
思わず叫んだ。叫んでいた。声を荒げて立ち上がり、そこではっと我に返った。界隈のさざめきが、少しずつ耳に蘇ってくる――遠巻きにこちらを見てくる、野次馬たちの視線も。
けれど、……出てしまった言葉は、感情は、今更止めようがない。向かいに座るグランの肩をがしりと掴むと、ユーステスは、……その瞳に映る動揺の色が次第に濃くなっていくのをただただ見つめ返すしか出来なかった。
「グラン、……お前のその感情は、俺への恋慕は、全くのまがい物だ」言葉を選んでいる余裕などなかった。その言葉が如何に彼を傷つけようとも、……それが真実なのだからどうしようもなかった。「もういい。もう十分だ。だから、……正気に戻ってくれ」
「え……?」
戸惑うのも無理はない。いや、戸惑わなければ意味がない。戸惑う、ということは、こちらの意図がきちんと伝わっているということだ。その上で、……どうしていいか分からなくて、そんな風に困ったような――どうしたらいいか分からないような顔をしているのだから。
胸を、鷲づかみにされる感覚だった。
「工房で探し物をしていたとき、お前は、惚れ薬を頭から被った。そのせいでお前はおかしくなってる……俺を好きだと、思い込まされているんだ」
これが本当なら――本気の感情であったなら、どれだけ嬉しかっただろう。それが例え倫理に反することでもきちんと受け止めるつもりではいたし、あれだけ欲しかったものが――手を伸ばしても届かなかったものが簡単に転がり込んできたという幸運に、柄にもなく感謝したかもしれない。
だが、それは偽物で、彼はただそれを言わされているだけで……だからこそ苦しい。彼の中には自分の居場所などどこにもないと、その事実を容赦なく突きつけられているようだ。相手はお前のことなど何とも思っていない、ただの組織のいちエージェント、沢山いる団員のうちのひとり、それ以上でもそれ以下でもない――
ごそり、……ポケットを漁れば掌にすっぽり収まるような小瓶が顔を出す。ここへ至る前、偶然通りすがった――多分偶然を装って――カリオストロに、すり抜けざまに渡された物だ。お望みの中和剤だ。エルーンにしか聞き取れないような小声で彼女は言い、その足を速めた。いやぁ、正体を突き止めるのに苦労したぜ。それをあいつに飲ませろ。今までの記憶ごと綺麗さっぱり消してくれるさ。
飲ませるタイミングはいくらでもあった。けれど、なんだかんだと理由を付けて先延ばしにしていたのは自分だ。時間が経てば経つほど、互いが辛くなることも十分に分かっていたのに、それでも……いまいち踏ん切りが付かなかった。
いや、――自嘲する。違うな、そうじゃない。俺は、嫌だった。彼が俺を好いてくれている、この状況が心地よかった。例え歪な関係でも、これが長く続けば良いと心の奥底で願っていたことも事実……。
コン、と彼の前に小瓶を置いたなら、グランは、目を丸くしてこちらを見上げる。「何、これ……」と呟いた唇は真っ青だった。声が震えている。
「解毒剤だ」
ぼそりと呟くと、ブラウンの瞳がはっと大きくなる。固まった表情のまま彼はのろのろと視線を落とし、ゆっくりと手を伸ばし、硝子細工の施された華奢な瓶を持つ。その手はぶるぶると震えて、掌の中で小瓶がカチャカチャと音を立てた。
「ごっこ遊びはもう、終いにしよう……それを飲めば、今までのことも」
「君を好きだったことも、忘れちゃうのか」
「……」
「ごっこ遊び、か……」虚ろに呟いて、彼は、小さく唇を笑ませた。諦観の笑みだった。「君にとっては、所詮『ごっこ遊び』でしかなかったのか……そっかぁ……」
「……」
応えられない。何も言えない。ただ、彼の動作をじっと見ていることしか出来ない。
その前でグランは、……ゆっくり顔を上げた。上げてから、にっこり笑った。笑ったが……
「やっぱり、……君には、迷惑、だったか。ごめん、一人ではしゃいで……」
ぽろり。頬を滑る大粒の涙だけは誤魔化しようがない。けれど、ぼろぼろと零れるそれを拭うこともせず、潤んだ目で、瞬ぎひとつせずこちらを見据えた。凛とした、強い光の目だ。初めて顔を合わせたとき、臆せずにこちらを見返したあの瞳の輝き――未だに俺の心を捕らえて放さない、強い光。
「でも、……忘れないで。僕は、本当に君が好きだった。大好きだった。例え『ごっこ遊び』だったとしても、僕は、今日一日すごく楽しかった。幸せだったんだ……」
世界から音が消えた。舞い落ちる雪だけが、はらはらと……界隈を白に染めていた。やはり少し迷うのだろう、――多少の間を置いて、グランは、それでも笑顔を浮かべたまま、殊更ゆっくりと硝子瓶の蓋を開けた。沈黙が覆い被さるその中で、カラン、という音だけが静かに響いた。
胸が酷く軋む。呼吸が詰まるのを感じる。何もそこまでしなくていい、この魔法が自然に解けるまでそのままでも構わないじゃないか――そう叫ぶ自分を、無理矢理に抑え込んだ。噛んだ唇の内側に、血の味が滲む。
「有り難う、……それから」
君を苦しめて、ごめんなさい――
言うなり、くい、と硝子瓶を煽り、……ふっと意識を失った身体がその場に崩れ落ちる。ユーステスは静かにそれを受け止め、そっと、テーブルの上に伏せさせた。一粒の雫が頬を伝い、それを指で払ってやりながら、……彼は、小さく息を吐いた。
これでいい、これでいいんだ。目を覚ましたのなら、今日の出来事は全て忘れている。俺を好きだと言ったことも、雪解けの街を二人で歩いたことも、チョコレートをくれたことも、全部……――
「俺も、……楽しかった……」
ぽつりと呟いた言葉は届いているだろうか。ユーステスは、ふ、と微笑し、腰を屈めた。そうだ……ごっこ遊びだとしても、あの時間は本当に楽しかった。偽物の感情で、作られた思いだったとしても、……とても楽しかった。それだけは曲げようもない真実で……
「感謝する。……おやすみ、グラン……」
覆い被さる髪を除けて、今は穏やかな顔で呼吸を繰り返すグランの額に、……小鳥が餌をついばむように優しく口付けた。
***
騎空艇に戻ったなら、その姿を認め、真っ先に駆け寄ってきたのはルリアだった。ユーステスと、その胸に横抱きにされたグランを見て、両手で口を覆い「どっ、……どうしたんですか、あの、これは……?」と驚いたように声を上げた。
「工房で探し物をしていたら昏倒した」
ユーステスはぼそりとそう呟いた。
「命に別状はないが、少し休ませる必要があってな。……このまま部屋に連れ帰って欲しい」
「あっ、……え? は、はい……」
グランは、……ぐったりとはしていたが、徐々に意識が戻ってきていた。耳の近くでその名を呼んだなら、ううん、と小さな呻きが返ってきた。立たせてやれば少しふらついてはいるが、これなら、ルリアの華奢な身体で支えても十分に――よたよたしていたが――歩いて戻れるだろう。「大丈夫、グラン……?」と心配そうに彼の背中に手を回し、懸命に歩いていくルリアの後ろ姿を見送った後、身体に積もった僅かな雪を払って、ユーステスはその場でくるりと踵を返し、
「お! やっと戻ってきたな、待ってたぜ」
突如響いた聞き覚えのある声に、ひたりと足を止めた。
顔を上げれば、その先に、美少女錬金術師カリオストロの姿がある。くるりと緩く巻いた金髪が顔の傍で微かに揺れて、彼女は、足早にこちらに近付いてくる。
「……何か用か」
「そう怖い顔するなって。お前に、教えておかなきゃいけないと思ってな」
「……」
今更何だとも思ったが、特に邪険にする必要性も感じない。そう思い動かずにそのままでいたなら、彼女はそれを肯定のサインと取ったらしい。鷹揚に腕を組んで「そうそう」と話を切り出す。
「グランが工房でひっくり返した例の液体の正体だ。お前はアレを惚れ薬だと言っていたが、……あれは、惚れ薬でも何でもなかったんだよ」
「……、は……?」
思わず間抜けな声が出た。薄蒼の双眸がぱちぱちと瞬き、カリオストロは「いやぁ、先入観っていうのは良くないな、おかげで正体を掴むのにどれだけ掛かったか」と大袈裟に肩を竦めてみせる。
いや、……待て。惚れ薬じゃ、なかった……?
ユーステスはその言葉を何度か心の中で反芻し、……考え込む。
じゃあ、……一体何故、何のせいで、あんなことになったと……?
「自白剤だ」
「……、自白、……剤……」
……頓狂な声が出た。
けれど、カリオストロはそれに気付くこともない。「ああ」とひとつ、大きく頷いて「ありゃ、かなり強力な自白剤だ。自分の心の中で思ったことを、洗いざらいぶちまけちまうくらいにはな」と言って、……そこで、にやりと笑った。「あの調子じゃ、あいつ、お前のことをかなり好きだったみたいだなぁ」
「……」
すぐには、反応できなかった。否、出来るはずもなかった。
鈍器で頭を思い切り殴られたような感覚だ。普段であればどんな情報でも全く表情を変えず、心もそこまで波立たずに受けることが出来るが、今だけは自信がなかった。多分、酷い表情をしているのだろう――カリオストロが珍しいものを見たという顔をして、ぱちぱちと目を瞬くから。
「……おい」
そうして、じゃあな、と手を振りつつ、用が済んだとばかりに身を翻して歩き出す彼女を呼び止めたのは、……それから少し経ってからのことだ。おそらく、時間にして数秒だったのだろうが、ことユーステスに於いては、数時間後のように感じた。
「その薬……余っているのか」
カリオストロはやはり、妙な顔をした。変なことを聞きやがる、というような訝しげな顔だ。けれど、すぐにその華奢な手を胸元に突っ込み、……出てきたのは小瓶だった。かの中和剤が込められていたものと同じデザインのものだ。
「まぁ、……零れたのを回収して中和剤作成に回して、余ったのがこのくらいだけどな」彼女が静かに瓶を揺すると、僅かに液面が見えた。量的には一口分……いや、それよりは多少少ないかもしれない。「この量なら効果は……そうだな、多めに換算して大体十分くらいだろう。でも、これを」
どうするんだ、という問いは、みなまで聞かなかった。寄越せ、と瓶を奪い取り、……カリオストロは驚いたように目をはっと見開いたが、不思議と抗議の声は出なかった。
「まぁ、……今回はオレ様が悪いようなものだしな」と頬を掻きながらぼそぼそ言っている。「仕方ねぇ、慰謝料ってことでくれてやるよ」
「感謝する」
ふ、と笑い……その微笑に、カリオストロがほっとしたように相好を崩したのを見届けて、ユーステスは踵を巡らせた。纏った外套の裾がひらりと周り、革靴が床を踏みしめ、さっさと歩き出す。
――グランが浴びたのは、自白剤だった。
その事実を噛みしめるように胸中で呟いて、……掌の小瓶を握りしめる。
――なら、あの感情は、全て……
封を切り、くいと煽ったなら、口内に甘い味が広がった。チョコレートにも似た甘さだ。空の小瓶を日に透かせば、橙色の光がキラキラと輝いてユーステスの顔を照らした。
雪はいつの間にか止んでいた。見れば、分厚い雲の隙間から太陽が覗き、世界を橙色に染め上げていた。夕暮れに沈む回廊を、エルーンの青年はひとり、……かの少年の部屋へ向けて足を急がせた。
何から話そうか、それはもう決めてある。彼は覚えていないだろうが、あのときぶつけられた沢山の想いを、……少しずつ返していきたいと思う。叶えてはいけない願いは、それでも今、叶ってしまったのだから。ひとりの錬金術師の、何気ない依頼によって……――
そうしてユーステスは、グランの部屋の前で足を止める。もう目が覚めた頃だろう。内側から微かに衣擦れの音がして、……ユーステスは唇を笑ませ、そっと腕を上げた。コンコン、と二回、静かに扉を叩く。
「……あの、……はい、どうぞ……」
僅かに間を置いて聞こえた声は……青年の耳を、ふわりと揺らした。