Resonata(没版) 新和二十三年、某日。結倭ノ国燈京、煉瓦街の片隅。
源朔は、けたたましく警報のサイレンが鳴り響く街中を駆けていた。ちょうど夕食時だからか、界隈は逃げ惑う人々で混沌としている。鐡仁武純壱位が先導しているから進みづらいということはないけれど、朔ひとりきりであったら人波に飲まれていたかもしれない。
デッドマターの襲撃はいつだって唐突だ。浸食防衛任務であれば尚更、時間も場所も、奴らは一切考慮しない。そもそもの性質が虚無であるので、当然と言えば当然なのだが。
「こちら鐡仁武より本部。応答願う――」
覇気のある低音が、前方より聞こえる。彼の持つ端末からは、ザザ、とノイズ混じりの音声が漏れ出ている。恐らくは任務の詳細を確認しているのだろうが、仁武とは多少距離があるし、この騒ぎの渦中なので細かな内容までは聞き取れない。そんな二人の遥か前方、見慣れた煉瓦街の一帯を、夜よりも濃い闇が覆っている。
あの辺りは、と朔は思う。確か高級料理店が軒を連ねていたはずだ。朔の運命を決定づけることになった、源一族が懇意にしている料亭も然り。五年前と変わることのない風景は、今や、陽炎のようにゆらゆらと蠢いている。
すれ違う人々は徐々にその数を減らし、角をひとつ曲がった後は、めっきり見掛けなくなった。周辺住民の避難はあらかた完了したようだ。しんと静まり返った大通りは閑散として、屋内の明かりだけが窓の形に切り抜かれ、路面に点々と落ちている。あるかないかの風に軒先の提灯がふらふらと揺れる。
「今回出現が予測されているデッドマターは甲型だ。等級は四等級から五等級。油断は禁物だが、後れを取ることはないだろう」
先を往く仁武が、任務の内容を告げる。朔は短く応諾する。
「だが、今回、浸食領域がかなり広がっていると報告を受けた。なので、領域内部に踏み込み次第各自散開し、領域の主たるデッドマター甲型を捜索する。目標を発見したら信号弾で知らせるように。では――」
突入するぞ、との号令は、発せられる前に掻き消された。唐突に眼前で光が膨れ上がり、一気に弾けたからである。何が起こったのかと訝る間もない。
反射的に足を留める朔の耳に、カツ、と硬質の床を叩く足音が飛び込む。この音は、けれど仁武ではない。大柄の影は朔のすぐ傍にある。
だとしたら。
「光壊確認……っと! おや、仁武と朔くんじゃあないか。お疲れ様!」
「……玖苑……」
涼やかな声に、応えるのは仁武の呻きだった。朔が目を遣った先、闇が払われた街区の向こうから、ひとりの青年が歩いてくる。鞭を携え、さほど乱れてもいない亜麻色の髪を整えつつ、切れ長の双眸を眇めてこちらを見遣っている。
舎利弗玖苑純壱位。
舎密防衛本部作戦部所属の、フッ素の志献官。人好きのする性格で、実力は申し分なく、ことデッドマター討伐に於いては最強の一角だ。少し馴れ馴れしいというか、若干スキンシップ過剰なのが気になるが、戸惑っているのは自分くらいなものだと朔は考えている。誰彼構わず抱き付くものだから、皆、慣れてしまっているのだろうとも。
「来ていたのなら、そう言え」
こめかみを揉みながら、仁武は言う。しかし玖苑にとっては、どこ吹く風である。
「報告する暇があると思うかい? あのデッドマターめは、ボクの食事を邪魔してくれたんだよ? まずは制裁を受けて然るべきだと、ボクは思うけどね!」
やれやれと肩を竦めているが、次の瞬間、彼は目を上げ仁武と朔とを順繰りに見渡す。
「それで? 二人はここの浸食防衛任務に駆り出されたのかな」
「そうです」
仁武の代わりに朔が応える。玖苑はにこりと笑って朔を見た。
「なら、本部にはこう伝えたまえ。かくて煉瓦街の一角で起きた浸食防衛任務は、たまたま居合わせた完璧で美しいこのボクが、華麗に解決したのだとね!」
「……はぁ」
互いに長い付き合いだと自負してはいるが、未だに玖苑の勢いに引いてしまうときがある。玖苑はそんな朔をじっと見つめた後、「と言いたいところだけど」と言葉を続けた。「もうしばらく、付近の警戒を続けた方が良さそうだね。嫌な予感がする」
「嫌な予感?」
思わず聞き返したときだった。
「周辺の浸食圧に、変化がない……?」
仁武の声が聞こえた。どうやら端末へ向けて喋っていたらしく、その言葉は朔や玖苑に向けられたものではないのだが、つい玖苑へ目を遣ると、彼は何故か勝ち誇った表情を浮かべている。腕を組み、ほらね、とばかりに仁武を眺め遣っている。
「あの広大な浸食領域の範囲の割りに、ボクが相手取ったのはかなりの小物だったからね。本隊はまた別に、どこかに存在するかもしれない……という観測部からの勧告かな?」
「その通りだ」
通話を終えたのか、仁武がため息と共にこちらに向き直る。
「観測部によれば、依然、付近の浸食圧は上昇を続けているらしい。俺は一度、確認のため本部へ戻るが」そこでちらと玖苑に視線を走らせた。「後を頼めるか?」
「勿論さ」玖苑は頷く。「良い子にお留守番して――」
そのときだった。
ずん、と身体に重みが乗ると共に、けたたましいサイレンが耳をつんざいた。
仁武と玖苑はほとんど同時に顔を跳ね上げ、朔もまた、少し遅れてそれに倣った。
『こちら、本部! 南側の街区で浸食圧の急上昇を検知!』仁武の胸元で端末が叫んだ。『安酸栄都純参位が向かっています! 現着まで数分!』
「栄都か」仁武が呻く。「単騎はさすがに荷が重いな……」
しかし、流石に判断は早かった。玖苑と朔とを順繰りに見た後、ひとつだけ頷いた。
「舎利弗純壱位はここで待機。南街区のものが本隊か判別出来ない以上、誰か残った方がいいからな。源純弐位は俺に同行してくれ。安酸純参位と合流次第、領域内部のデッドマター討伐を開始する」
「了解です」
「良いけど……」
挙手注目の敬礼で拝受する朔に対し、玖苑はふてぶてしかった。ため息と共に腕を組み、不遜に仁武を眺め遣る。「最近、よく朔くんと行動してるよね、仁武は」
仁武は構わなかった。「だから何だ」と低い声で応えるのみだった。
「別に」
そうだったかと、朔が顧みる暇も無い。つんと顎を逸らした玖苑を一瞥して、「行くぞ、朔」とだけ告げた仁武が、早くも駆け出したからである。一瞬挙動を迷うが、玖苑に会釈をひとつした後、慌てて仁武の後を追い掛ける。目の前の、夜の闇に溶け込むような黒い背中を見失うまいと、殊更足に力を入れる。
「……朔くんは碧壱じゃないんだよ、仁武」
ぼそりと呟かれた玖苑の言葉は、遠ざかっていく朔の耳には入らない。
「あっ! おぉーい、朔! 仁武さん!」
人混みの向こうでひとりの少年が伸び上がり、声を振り立てている。この暗闇にも目立つ赤い髪、束ねられた先端が、彼の背の向こうで揺らいでいる。
煉瓦街より南側の区画。避難勧告が出て間も無いようで、荷物を抱えて逃げ惑う人たちがあちこちに見受けられる。その殆どが朔や仁武を通りがかりに認め、安堵の表情を浮かべる。中にはわざわざ足を留め、挙手注目の敬礼で見送る者もいる。
この光景を目にするとき、朔はいつも、胸の奥で湧き上がるものを感じる。この感覚こそ志献官の誇りであると考えている。兄――優秀な水素の志献官であった源碧壱純壱位も、きっと、市井の民からこのような視線を向けられていたのだろうと思う。
(俺は、結倭ノ国に住まう、全ての民のために戦うのだ)
そうして決意を新たにする。
(今は亡き兄の遺志を継ぎ、必ずや、使命を果たしてみせる)
「良かったー、朔と仁武さんが来てくれて」
赤い髪の少年――安酸栄都は、相好を崩して駆け寄ってくる。
「オレひとりで突入しようとしたけどさ、増員を待てって言われたから」
当然だ。純参位単騎で、四等級から五等級のデッドマターに立ち向かえるわけがない。だが、それを声に出す前に仁武が一歩前に出た。結果として、朔は口を噤む。
「待機も作戦のうちだ。よく待っていてくれたな、栄都」
「へへっ」
得意げに鼻を擦る栄都とは裏腹に、朔はうんざりと肩をすぼめる。仁武には悪いが、茶番に付き合っている暇などない。こうしている間にも浸食領域は広がり続けているのだ。いち早く突入し、対象を討伐して、付近の住民を元の生活へと戻す必要がある。
かつての兄がそうしていたように。
「……ん?」
ふと視線と物音とを感じ、朔は首を巡らせる。一体誰がと探る間もない。
「あ、あの」か細い声と共に、ひとりの婦人がまろび出たからである。「鐡仁武純壱位……いえ、鐡司令代理ご一行と、お見受けしますが」
「どうしました」
朔はさっと近寄り、婦人が転ばぬようにと反射的に手を伸ばす。婦人は震えていた。朔の腕に添えた手が体温を感じさせぬほどに冷え込んでいた。この暗がりであるからか、彼女の細面は血の気を失って最早真っ白で、引っ詰めた黒髪はところどころがほつれている。然るべきところなら幽霊と見紛うかもしれない。
「坊やが」彼女はそこで息を吐き、顔を引き上げ順繰りに皆を見た。「坊やが、いなくなって」
(坊や……)
はっと息を呑み、跳ね上げた視線が栄都とかち合う。思わず顔を見合わせる形になり、その先で栄都は頷く。真剣な表情だった。
「詳細をお伝え願えますか」
極力穏やかに声を掛けたなら、婦人は自らを落ち着かせるようにして胸に手を当てた。そうして、僅かな空白期間をおいて訥々と語り出す。
曰く――婦人は、近隣で浸食警報が鳴り響いたため、避難の準備をしていたそうだ。その後、間髪入れずに近隣で浸食領域発生の報を受けたため、庭に居た坊やの手を引き、急いで避難所に移動しようとしていた矢先、人混みの中ではぐれてしまった。
「お忙しいのは重々承知しているのですが、どうか、坊やを捜しては頂けないでしょうか……」
坊や、と呼ぶくらいだから、幼い子どもであるのは間違いない。朔は逡巡する。五年前の、料亭での出来事が頭を過ぎる。あのときも朔は、自分よりも幼い子たちが取り残されていないかどうか、ギリギリまで料亭内を捜し回っていたのだ。結果として朔は浸食領域に飲み込まれ、しかし浸食されることはなく仁武に救出された。自分に因子があると判明したのがそのときだ。朔は喜び勇んで兄に報告したが、兄は……
「オレ、行きます。捜してきます」
凛とした声に、朔ははっと我に返る。視線の先で、栄都はじっと仁武を見ている。
「仁武さんは、朔と一緒に作戦を開始して下さい。オレ、坊やを見つけ次第、すぐに合流するんで」言うなり、仁武の応えも待たずに婦人の手を引き、輪の外へ連れ出す。「あの、坊やの特徴を教えてくれませんか。それから、名前とか――」
そこらで展開している混の志献官らに任せれば良いのに、と朔は考える。そもそも、浸食領域で活動し、デッドマターと戦えるのは純の志献官だけなのだ。貴重な戦闘要員を人捜しに費やしてどうするんだ。ただでさえ時間が惜しいというのに。
しかし、現場での決定権は上官たる仁武にある。朔はちらと仁武を見たが、仁武は栄都を引き留めもせず、ひとつきり息を吐いただけだった。頭を振り、朔を見る。
「では、我々は浸食領域内に突入し、各自散開。デッドマターを確認次第、信号弾で以て位置を共有する。くれぐれも単独で戦闘を開始することのないように」
ここで彼は遠くを見遣った。恐らくは栄都が連れて行った、婦人の背を見送っているのだろうと朔は考えた。なので殊更音を立て踵を揃え、挙手注目の敬礼をする。
「了解です」
「それでは、作戦を開始する」
仁武の号令下、朔は、眼前に広がる闇の中へとその身を投じた。
志献官としての兄を、朔は、直接目にしたことがない。彼の活躍は広報誌や新聞の上、あるいは帰省した兄の口から語られるものが全てだった。僅かな断面から得られる兄の姿は優秀な水素の志献官としての理想そのものであり、そんな兄は朔の憧れであり、誇りであった。
自身が未熟な純参位であった頃、任務に赴くときはいつでも兄の姿を思った。何の音もしない真っ暗闇にあっても、兄もまたこうして浸食領域に降り立ち立派に務めを果たしたのだと、よく心を奮い立たせたものだ。
しかし、何故、今日に限って兄のことを思い出してしまうのだろう。浸食された街中を歩きながら朔は考える。居住区のただなかであるためか、軒を連ねた民家は人々の生活の匂いなど一切させず静かに佇んでいるばかりだ。付近には自身の足音と息遣いくらいしか響かない。周囲の静寂は、却って、朔を思考の渦中に沈めていく。
(もしや、結合術のせいか……?)
ふと思い至ったものは、唐突に差し込んできた割には説得力があった。
(栄都と結合術を行ったから……?)
結合術自体は知識として理解していた。しかし、実際に使用するのは初めてだ。そもそも結合術は触媒の志献官がいてこそ使えるものであり、件の志献官は過去の戦で喪われて久しい。相当貴重な因子のようで、朔らが任官した時点でさえ後進がいなかったからだ。
ただ、結合術は、かなり不快な体験だった。潜在能力が引き出され、自分の身体が思うように動く感覚は確かに希有なものであり、脅威指標三等級……否、それ以上の強さを誇ったあのアルビレオを相手に、優位に立ち回れたのは評価する。しかし、代わりに記憶を掘り起こされ、忘れたかった過去を暴かれるというのはどうにも我慢ならない。
「くそっ……」
小さく毒突き、朔は、考えを振り切るようにして歩度を速める。胸に染み出す黒い淀みを見て見ぬ振りで、辺りの様子に気を向ける。
すると。
「……ん?」
二つ目の路地を曲がろうと、足を踏み込んだときだった。朔は足を留め、周囲を見遣った。妙な物音がしたのだ。音など鳴るはずのない、この往来で。
一体何がと訝る間も無い。臨戦態勢を取るよりも早く、何か黒い塊が、眼前に転がり込んできたのだ。はっと後方へ飛び退いた朔は、それを凝視し、同時に息を呑む。
「栄都……?」