仁玖バレンタイン2025 燈京駅前のとある洋菓子店で、ショコラをひとつ、買い求めた。
そもそも仁武は長身であるから、お忍びといえど、小柄な婦人たちの中にいればどうしても目立ってしまう。「あら珍しい、鐡司令代理が」「一体何のご用なのかしら」「どちらの婦人に差し上げるのかしら」そんな風にひそひそ囁かれているのが、嫌でも耳に入る。
(別に、どこぞの婦人に差し上げる予定なぞ、ないんだがな……)
事の始まりは至極単純で、このショコラの噂を、玖苑がどこかから聞きつけてきたのだ。
――ねぇ仁武、駅前の洋菓子店で、新しくショコラを取り扱うそうだよ。カカオなるものを一体どのルートを使って輸入したのかは知らないけど、旧世界で流行っていたお菓子のようだ。上品で甘くて、とても美味しいんだってさ。
玖苑はやたら上機嫌だった。司令室で残務を片付けている仁武の真ん前に陣取り、楽しげに鼻歌を歌っていた。普段であれば、まだ仕事は終わらないのか、早く終わらせてボクを構いたまえと言わんばかりに圧を掛けてくるのに、今回に限ってはそれがなかった。
――食べてみたいなぁ。
じっと上目遣いで見つめてくる、その行動に何人もの志献官が骨抜きにされようとも、仁武には意味が無かった。仁武はこめかみを揉みつつ、大きな溜息を吐きつつ、このときばかりは玖苑を司令室から追い出した。内容はどうであれ、仕事の邪魔だったからだ。
――つまらない奴だなぁ!
玖苑はぷりぷりしていたが、買いに行くにしろ様子を見るにしろ、仕事が終わらなければ動きようもない。それを切々と訴えたところで聞く耳を持たないだろうから、この場を収めるには実力行使が適している。それは、悲しいかな、玖苑との長年の付き合いで得た教訓のようなものだった。
全ての残務を処理し終えたときには、陽はとうに暮れ、本部に居残るのも当直の職員ばかり。行き交う人々で賑わう燈京駅にまで出るのには、もう少しばかり時間を要した。
目当ての洋菓子店はすぐに分かった。婦人たちがこぞって列を為していたからである。仁武もそこに加わったが、流石にこの人数では自分の番が来る前に売り切れるかもしれないと危惧する。しかし、予想に反して列はするすると進んでいき、会計を終える頃には店の前に出来ていた人だかりはすっかり捌けてしまっていた。
今、仁武の手の中には、赤いリボンを掛けられた小さな箱が収まっている。店員が勧めてくれた、洋酒入りの物だ。酒を得意としない仁武は味見すらも断ってしまったが、他の婦人も買い求めていたので味は問題ないだろうと判断した。可愛らしい赤のハート型は女性に大人気なのだと、店員は笑顔で言っていた。
(時期的なものも、あるだろうがな)
二月十四日は、旧世界ではバレンタイン・デーと呼ばれていたそうだ。意中の男性にショコラを渡し、愛を告白するのだという。いつしかその意味も、いつも世話になっている人に感謝を示すとか、自分のために美味しいショコラを買いあさるなどと様々になり、甘味好きのための一大イベントにまで成長したらしい。洋菓子店はその風習に目を付け、時期に合わせて大々的にショコラを売り出したのだろうと仁武は推察する。
(感謝を示す日、か)
愛だの恋だのと、今更はしゃぐような年代でもない。
でも、玖苑には諸々世話になっている。なので、感謝を言い訳にして誤魔化すにはちょうど良い。今の時期、あのような場所に、彼の欲しがっていたショコラをわざわざ買い求めに行くなぞ、余程の『理由』がなければ実行しまい。
その『理由』に、彼が気付くか、否か。
(さて、あいつはどこへ行ったかな……)
手持ちの鞄にショコラの小箱を仕舞い、仁武は燈京駅の裏通りへと行く先を定める。邪魔者扱いされてしまった親友は、どこかの居酒屋で憂さ晴らしとばかりに大酒を食らっていることだろう。店主相手に愚痴をこぼしている、そんな姿を容易に想像出来た。
仁武は少しばかり微笑むと、足を踏み込んで、長身を雑踏へと紛れ込ませた。